-Rich Milk-
――四月の半ば、金曜日の夜。春も只中とはいえど、花散らしの雨が降りしきる夜の大気は、まだ流石に肌寒い。
よく晴れたなら、汗ばむくらいに暖かくなると判ってはいるのだけど。
それでも、冬着を片付けるのを早まらなくて良かったと思わせる程度には、涼しい夜。
ノックの音が響いて、こちらの返事も待たずに、扉が開かれる。いつもどおりの週末だった。
「やあ、お邪魔するよ」
「どうぞ」
読み掛けの文庫本へと落とした視線はそのままに、僕は答えた。壁に預けた背を、一ミリ足りとも浮かすつもりはなかった。
靴も揃えずに上がり込んだ彼女は、備え付けの電子レンジと冷蔵庫、それと電気ポットだけが存在価値の全てと化しているキッチンで屈み込んだ。それが当然であるかのように冷凍庫の扉を開けると、不満げな声を上げた。
「……ハゲはないのかな?」
彼女は、お気に入りのアイスクリームの銘柄をそのように略す。それは、彼女のなかで絶対の正義になっている。以前、「普通、ダッツって略しませんか」と尋ねたところ、新進気鋭の女検事が幼女趣味の性犯罪者を眺めるような冷たい目線で以って五秒ほど見下された挙句、数時間ものあいだ、一言も言葉を交わしてくれなかった。きっと、二度目はないだろう。
「ありますよ、ちゃんと。昨日、冷凍食品を買い足したから……下のほうにありませんか?」
「どれ……ああ、あったあった」
冷凍庫を覗き込んでいた彼女は、数秒のあいだ逡巡したのち、一つのカップを手に取った。
「よし、キミに決めた。おめでとう。今宵、私の血肉となる栄誉はキミのものだ」
血肉となるとは、言い得て妙だった。リッチミルク。彼女の手指や細い首筋の肌のように、艶やかできめ細かい、純白のアイスクリーム。彼女の肌があれほどに美しいのは、常日頃から摂取しているアイスクリームのおかげではないかと、真剣に疑ったことがあるくらいだ。
「いただきます」
ベッドに腰掛けるや否や、彼女は、カップと口とのあいだにプラスティックのスプーンを往復させる作業へと没入していった。
「桜を見に行こうか」
暫くのあと、彼女は唐突にそんなことを口にした。思わず、僕は顔を上げた。まじまじと彼女に視線を向けてから、時計を眺めた。午前二時だった。雨音は、いまだ続いていた。
「雨、降ってますけど」
「うん、だからだよ。この調子で降っていたら、明日にはほとんど散っているだろうし」
それは道理だった。けれど、真夜中に冷たい雨の降るなかで夜桜見物というのは、少しばかり酔狂に過ぎるように思える。僕は、精一杯の抵抗をしてみせた。
「こんな時間じゃ、電車もバスも動いていませんよ」
「別に、上野公園や新宿御苑に行こうというのじゃないよ。確か、この近くに小学校だか中学校だかが、あっただろう?」
僕は呻いた。彼女の言葉どおり、十分ほど歩いたところに中学校があったからだ。そして、何故だか知らないけれども、学校と名の付く施設というものは九割九分まで、その敷地内に桜を植えているものだった。美しき伝統と形式、そういうわけだった。
「たぶん、寒いですよ」
「だろうね。風邪を引かないように、コートを着るといい」
彼女の視線を追う。残念ながら、まだクリーニングに出していなかったコートは、部屋のなかに吊ってあった。僕は降参して、文庫本を閉じることにした。
真夜中のコンビニエンス・ストアというのは、不思議な空間だと思う。煌々と明かりが輝いているにも関わらず、静寂に満ちている。声どころか、足音を立てるのさえも躊躇われるような、ある種の厳粛さがある。まるで神殿だった。であれば、アルバイトの店員は祭司だろうか。深夜、コンビニエンス・ストアを利用するような人種は、その暗黙のルールを諒解し、それに従う。
であるから、そのような人種にとって、彼女の存在はインベーダーにも等しかった。今どきの若者というのでもなく、落ち着いた雰囲気の女性がこのような時間に訪れるなど、このコンビニエンス・ストアが開業して以来の椿事ではないだろうか。
「ビールでいいですか?」
「構わないよ」
声を潜めて訊ねたにも関わらず、彼女は普段どおりに応じた。僕は諦めて、ビールの缶を何本かと幾つかの肴をカゴに入れる。彼女は別段カゴの中身を気にした様子もなく、レジへ向かう僕のあとをついてくる。それを察した店員が、商品の補充作業の手を休めてカウンターへと入る。売る側と買う側の、無言の連携だった。その儀式を崩したのは、やはり、彼女だった。
「ああ、待った」
コートの袖を、軽く引かれた。何事かと振り向けば、彼女はアイスクリームが並ぶ冷凍棚の前で、足を止めていた。当然、その視線の先にあるのは、彼女が愛してやまないアイスクリームの銘柄だった。僕は、溜息を吐いた。
「……溶けますよ?」
「大丈夫だよ、今日は寒いから」
「寒いのに、冷たいアイスを食べるんですか」
「冷たいビールを飲むのだって、同じだろう?」
微かに首を傾げるような仕草をして、彼女は不思議そうな顔をした。確かに、そのとおりではあった。桜を眺めるというから無意識のうちにビールを選んだけれど、本来ならばホットコーヒーを掌で包んで温まりたいくらいの気温だったからだ。
反論の余地もなく、僕はカゴに追加されたアイスクリームのカップを見詰めた。ちなみにそれは、ビール一本よりも値が張る代物でもある。
「……キミも食べたいのかい?」
僕の視線を誤解して、彼女が再び、棚に手を伸ばす。僕は慌ててそれを押し留めて、どこか微苦笑の微粒子を漂わせる店員が待つレジへとカゴを運んだ。僕が財布を取り出す前に、横合いから伸びた手がクレジットカードを店員に差し出すに至っては、店員の口許は明らかに笑いのかたちに歪んでいた。きっと、僕のことを、彼女に頭が上がらない彼氏とでも思ったのだろう。それは、半分だけ当たっていて、残りの半分は外れている。
――ただ、まあ。結論だけを述べるなら。
ちびりちびりとアイスクリームを口に運ぶ彼女に傘をかざしながら、雨に打たれて散りゆく桜を眺めるのは。思っていたよりも、そう悪いものでもなかった。
寒さに震えながらもそう感じたのは、きっと、僕もまた酔狂が過ぎるということなのだろう。