拡張的白昼夢(改稿版)
手すりに手をかける。力を入れて、鉄棒で遊ぶ時みたいに、前にばたんと倒れようとする。この屋上から地面を見下ろして、それをやめる。さて、この一連は何度目だろうか。
ロボット産業革命のお陰様で、仕事は看護以外見つからなくなった。俺が男なばかりに、俺が36という微妙に若者の括りに入る歳なばかりに、労働は押し付けられ、休息は奪われる。
父さんは死に際に言った。幸せになるんだぞ、と。母さんは死に際に言った。幸せになるのよ、と。そんな約束を破ってしまった。
さっさと死んでしまいたくても、できない。ずっと誰かに見張られているような感覚。仕事を辞めるな、労働から逃げるな、と、言われ続けているような感覚。それが作り出す俺の中の空気感が、死を遮る。
もしかしたらAIのせいかな、とも思う。でも、そんなことより、
「お兄さん、こんにちは」
「お兄さん、どうも」
そう、彼ら。今、後ろから話しかけてきた、二人の少年。ニット帽を被った少年。彼らがいると思うと、少しだけ、まだやめなくてもいいかなという気になる。まだ死ななくてもいいかな、と。
「おお、よう」
婚期も逃し、両親も死に、生涯の孤独を確約された俺の孤独を誤魔化してくれる、十二歳の二人。
俺が自販機で缶コーヒーを買って、ベンチに座ろうとそっちを向けば、すでに二人は座っている。
レイトとコウタ。二人は知能障害。脳内でAIがそう呟く、俺の声で。俺の思考の中で。お節介なもんだ。
二人の隣に座って缶コーヒーを開く。口を当て、傾け、中身を飲む。
「それ、美味しいですか?」
レイトが俺に訊ねる。俺はかぶり振る。
「いや、そんなに。ただ習慣的に飲んでるだけだ。コーヒー飲んでるやつは大概そうだ、軽度のコーヒー中毒なんだよ」
「残念」と、レイト。
「今度飲んでみようかと思ったんですけどね」と、コウタ。
「お前ら、カフェイン摂っていいのか?」
「多少なら大丈夫だそうですよ」
俺の問いに、コウタはそう返し、続ける。
「まぁ、おいしくないなら飲みませんが」
そこで少し、会話が途切れた。
蒼い空を仰ぎながら、俺はコーヒーを啜る。こんな時にもずっと視線を、視線に似た空気感を感じる。
脱力して溜息を吐くと、レイトが質問を飛ばしてきた。
「勉強ってどれくらいすればいいですかね」
「さぁ。まだ十二だろ。強いていうなら、高校の受験に受かるように、ってくらいかな」
「そうじゃないんです。AIあるから、やる意味が感じられないというか」
AI。「A」ugmented 「I」ntelligence、拡張知能のこと。昔は人工知能のことだったらしい。誰でもインテリになれる、前頭前野に埋め込まれたチップ。サーバーにある巨大な人工知能と通信し、人を天才にしてくれる。
そうだ、彼らは知能障害で、特別に子供ながら頭の中にAIを入れてるんだ。
相澤レイト、十二歳五ヶ月。相澤コウタ、十二歳五ヶ月。一卵性の双子。五年前に交通事故に遭い、脳に損傷を受け、知能障害が発生。AIによって対処。成長期だから、定期調整手術を必要とする。
頭の中、具体的には前頭前野にあるAIが、カルテの情報を流す。俺の脳内に情報が響く。
レイトは続ける。
「だってAIがあれば、どんな歴史のワードも数学の方程式も国語の文章問題も、一目見るだけで分かっちゃう。考えなくたって、勝手に完璧な考えが浮かんじゃう。その感覚はわかるでしょう?」
「ああ、わかる。実際AIがありゃ、勉強なんて不要なんだ。社会が追いついていけないんだよ。それだったら、好きな勉強をしてりゃいいんじゃないか?」
「じゃぁ、哲学ですかね」
コウタがそう答える。レイトも続いて、
「そうですね、哲学は楽しい」
「どうして?」
俺は分かり切った問いを口にする。きっと、答えのある問いは詰まらないから、答えのない問いを求めただとか、そんな話だろう。
「透ちゃんが、哲学が好きだからです」
コウタはそう言い切った。
「そう、僕らは透ちゃんが好きなだけなんです」
レイトはそう付け足した。
透。カルテにはない人物。おそらく彼らとの個人的な関係にある人物。
「そうか」
と、深掘りを避ける。プライベートな話、少年たちの恋愛の話に首を突っ込むほど野暮じゃない。
「それでも、AI頼りってのも良くないぞ。実際、五年くらい前だったか、白昼夢事件ってのも起きたんだから」
「白昼夢……」
そう呟いたレイトが口に手を当てて考えている間に、コウタが言う。
「あれですよね、世界中のAIサーバーの人工知能にハッキング攻撃を仕掛けたってやつ。共有幻覚がどうたらみたいな話がちらっとありましたが、被害はそこまでで食い止められたんだとか」
そう。しょぼくれたハッキングテロだった。その証拠に、俺は現に知識や情報をAIからもらってるし、頭も良くなってる。君たちが、他の少年少女らよりもずっと賢くなっている。
「でも、油断はできない。あれよりも大きなことが起きた時に備えて、ある程度勉強しておくのは大事だぞ」
「そうですね、頑張ります」
と、コウタが頷く。
二人は立ち上がり、屋上から病室に向かって歩き出さんとしたその時、レイトが立ち止まった。そして俺に振り向く。
「自販機、おすすめのやつってどれですか?」
「そうだな、なんだかんだ言って、シンプルなサイダーが一番うまいよ」
笑って答えた。そして彼らが屋上を出て行った。表情筋が突然に脱力し、笑みが消える。
心の底から笑顔でいられる時間。それをくれた少年たちに感謝しつつ、俺はコーヒーを一気に飲み込んだ。もうすぐ昼休憩が終わる。
そうだ、サイダーを持って行ってやろう。昨日サイダーの話をしたんだし、丁度良い。
俺は二本のサイダー入りペットボトルを抱えて、二人の病室に向かう。
昼だし、食堂にいるかもなと思いつつ、開け放たれた二人の病室を覗き込む。
話し声がする。レイトと、コウタと、もう一人。少女の声がする。
白い髪。白いワンピース。白い肌。
腰まで届く長い髪が、微かな風で揺らいでいる。
短めのワンピースが、細くて白くて長い足を強調している。
真っ白な肌は、これ以上なく純白だ。
その整った顔に嵌め込まれた大きな蒼い瞳が、二人の少年をまっすぐに見つめる。
綺麗だ。とても綺麗だ。何かに例えるのは野暮に思える、それくらいに綺麗だ。
彼女はベッドに座る少年二人に問いかける。
現実って、どこにあると思う、と。
レイトが答える。
世界中に、この宇宙に、と。
それは違うよ
じゃぁ、心の中かな。コウタがそう答えた。
そう、まさにその通り。現実は心の中にしかないし、それ以外のどこにもないの。まるで耳の奥に直接語りかけるような声で、彼女はそう言った。その時、彼女と目が合った。一瞬、ほんの一瞬。釘付けになった俺に何を言うでもなく、ただそこに在る、そういうもの。そんなふうに、俺から目を離した。
じゃぁ、心ってのはどこにあるの。
レイトの問いにまず答えたのは、コウタ。
そりゃ、脳の中でしょ。意識も心も、脳の中にあるんだよ。
彼女はかぶりを振って、言う。
じゃぁ、その脳の中の出来事は、どうやって私たちは認識してると思う。目で見た情景、耳で聞いた音、肌に触れた温もり。それらを脳が感じ取る。その感じ取ったという現象を、どうやって理解してると思う。
二人が黙っている。その様子を見た彼女は言う。心で理解してるんだよ、と。
心の中にしか、そんな現実は無いの。それ以外のところに、現実は存在できないの。私は心で私を現実だと思ってるし、多分、みんなそうだと思う。お互いにね。
だから私は、私たちは、現実なんだよ。
自分なんかが入り込んで、それが許されるようには思えなかった。なんというか、神域のような、そんな感じがした。
俺は引き返して、病室から離れて、食堂に向かう。サイダーは明日渡そう。
白い髪。白いワンピース。白い肌。赤い赤い赤い血。
周囲には白い破片が散らばっている。多分だけど、歯だとか骨の類だろう。
地面に、出入り口のすぐそこの煉瓦の地面にあるそれには、誰も見向きもしない。いつも通り病院に出入りし、通りすぎる。
まるで、そんなのは幻だとでも言うように。
病院の出入り口の前で、ぽつりと、茫然と立ちすくむ。
真っ青な空の下に、純白の女の子が一人、死体となって赤く染まっている。
その死体には触れられた。その血は手にべっとりと染みついた。それでも、誰も気づかない。
昼、食堂で悲鳴が上がった。悲鳴と、血飛沫が。
レイトとコウタは、食事用のナイフで、同時に喉を切り裂いた。
俺がちょうど食堂にいた時だった。
人が自然と離れて、その二人だけの空間を作り出す。
全く同じ格好で、同じハンバーグに顔を突っ込んで死んだ二人の血は、まるでハンバーグのケチャップのよう。
白い机。白い床。白い入院服。赤い赤い赤い血。
二人の少年の遺体処理を終え、俺は屋上に上がる。空は蒼く澄んでいる。
「現実は、心の中にしかないし、それ以外のどこにも、ない」
俺は呟きながら、いつものように缶コーヒーを、濃いブラックを買う。蓋を開け、飲む。水の味がした。
真っ昼間から夢を見ていたんだ、目覚めながら。白い羊の夢を。その羊を、二人は追って行ったのかもしれない。
昨日、サイダーを渡していたら、何か変わったかな。二人にあげようと持っていた二本のサイダー入りペットボトルを見つめる。
「昨日、あの女の子の言葉を否定していたら、何か変わったかな」そう呟く。
ペットボトルを二本、二人が昨日いたベンチの場所に置いて、水味のコーヒーを一気に飲みながら立ち上がった。
歩きながら、吐息混じりに、呟く。
「父さん、母さん、ごめんね。レイト、コウタ、ごめんね」
薄汚い廃病院の屋上で、彼は立ち上がる。飲料入りの缶の形をした霞を投げ捨てると、彼は屋上から身を乗り出した。
「対象がまた自殺しそうです。止めますか?」
白昼夢事件被害者監視員という文字の書き込まれた携帯電話を耳にあて、返答を待つ。
「言っただろう、接触は厳禁だと。何があってもだ」
無情な返答が返ってくるまでの間に、彼は地面に向かって落ちていた。
僕は自販機の陰から出て、下を見下ろす。
暗く淀んだ曇り空の下、死体が二つ。
今死んだばかりの男性の死体と、今朝死んだアルビノの女性の死体。
溜息を吐きながら、止めてあげたかったな、と思う。
彼の笑った顔、集計情報によれば幻覚の少年二人に向けて笑った顔が、優しそうで好きだった。
彼女の声と、幻覚に向かって語った哲学の話が好きだった。
僕は携帯電話のメモを開き、「報告書メモ:廃病院での、男女二名の共有幻覚」という項目の末尾に付け足す。
二名とも屋上から飛び降り自殺
と。




