第6話:闇の音
街の中を歩いている。
石畳。
人の声。
どこか懐かしい匂い。
けれど、すべてに靄がかかっている。
建物の形も、
看板の文字も、
人の顔も――はっきりしない。
それでも、隣に誰かがいる。
輪郭は見えないのに、
その人が笑っているのは分かる。
声も、名前も思い出せない。
けれど確かに、大切な誰かだ。
胸の奥が、じんわりと温かい。
満たされている。
腹が減ることもない。
寒くもない。
怖くもない。
「……このままで……」
そう思った瞬間だった。
きゃああああ――ッ!!
背後で、悲鳴。
振り返ろうとした、その瞬間。
街が――
人が――
音もなく、
風に吹かれた砂みたいに崩れ始めた。
建物が、ほどける。
人影が、砕ける。
靄の中に溶けて、
何もかもが消えていく。
隣にいたはずの誰かも、
もう――いない。
きゃあああああ!!
最後の悲鳴が、
空気ごと引き裂いて――
―――――
「――っ!!」
俺は跳ね起きた。
暗い。
夜……?
いや、違う。
暗すぎる。
目の前に、
“何か”がいる。
距離、ほんの数十センチ。
底のない、黒い目。
光を映さない。
感情もない。
ただ、穴みたいにそこにある。
その下。
人間の歯みたいなものが、
不揃いに並んだ口。
理解する前に、
身体が勝手に動いた。
反射で飛び起きる。
足が、火を焚いていた器に当たった。
がしゃん。
燃えカスが撒き散らされ、
火の粉が宙を舞う。
きぃぃぃぃぃ――――ッ!!
硝子を引っかくような、
甲高い悲鳴。
黒い“それ”が、
一気に後方へ跳ね、
闇の中へ飛び出していった。
同時に――
寝床が、燃え始めた。
乾いた葉に、
一気に火が回る。
「……っ、くそ……!」
俺は外へ飛び出した。
外は、闇。
雲が厚く、
月も星も、何も見えない。
異常なほど、何も見えない。
そのとき。
いた。
空中に。
黒い塊。
靄が集まったみたいな、
形の定まらない影。
円を描くように旋回している。
「……なんだよ……あれ……」
きぃぃぃ――――ッ!!
悲鳴と共に、
黒い靄が急降下してきた。
一直線。
俺に向かって。
腰が抜け、
地面に尻餅をつく。
だが――
すれすれで、
それは俺を避けていった。
風だけが、頬を打つ。
背後で、
寝床がさらに燃え上がる。
火が広がり、
岩肌に掛けていた屋根にも移る。
火の灯りが、強くなる。
すると――
きぃ……っ。
空の靄が、
怯えたように鳴いた。
そして、
闇の奥へ消えていった。
……火?
正体も分からない。
恐怖だけが、残る。
止める力は、ない。
俺は岩肌に背中を預け、
その場に座り込んだ。
寒い。
震えが止まらない。
火の音だけを聞きながら、
意識が落ちた。
―――――
朝。
鼻を突く、
焦げた木の匂い。
目を開ける。
拠点は――
見事に、全焼していた。
喉が、焼けている。
煙にあぶられたか…。
声を出そうとしても、
空気が擦れるだけで、何も出ない。
身体が、重い。
右手が痛む。
背中が熱い。
視界が揺れる。
俺は、ほとんど這うように川へ向かった。
水。
顔を突っ込み、
考える前に飲んだ。
冷たい水が喉を通った瞬間、
身体がびくりと跳ねた。
……生きてる。
それだけ…、
もう動けなかった。
夕方まで、
俺は川辺の石の影で丸まっていた。
誰も、看病なんてしてくれない。
死ぬ気で動くしかない。
日が傾いた頃、
俺はあの穴へ向かった。
角グマ。
雨と、穴のおかげだろう。
死体は、まだ腐っていなかった。
全部は運べない。
今の身体じゃ、無理だ。
俺は持てる分だけ肉を切り取り、
それを抱えて拠点跡へ戻った。
火を起こす。
肉をくべる。
脂が落ち、
煙が上がる。
匂いが、腹を刺激した。
焼け跡の中で、
俺は肉を噛みしめた。
……生きる。
それしか、なかった。
ーーーーー
……気づいたとき、空が少しだけ明るかった。
三日目、らしい。
身体はまだ重い。
右手も、背中も、動かせば痛む。
だが――
起き上がれた。
それだけで、少し驚いた。
昨日までは、身体を起こすだけで世界が揺れていたのに、
今日は、立てる。
ふらつきはある。
だが、足が前に出る。
「……」
理由は、分からない。
考えると気分が悪くなりそうだったから、
俺は黙って、穴の方へ向かった。
―――――
穴は、あのままだった。
雨に打たれ、
土は崩れかけているが、
底はまだ暗く、深い。
中を覗く。
角グマは――
そこにいた。
巨大な身体。
杭に貫かれ、
横たわったまま、動かない。
完全に、死んでいる。
「……」
近づき、
角に手をかける。
引く。
……動いた。
「……?」
もう一度、力を込める。
ずる、と音を立てて、
角グマの身体が少し引きずられた。
軽い。
いや――
軽いわけじゃない。
ただ、
思っていたほど、重くない。
昨日なら、
絶対に無理だった。
二人がかりでも動かせそうにないと、
そう思っていたはずなのに。
俺は一度、手を離した。
胸の奥が、ざわつく。
「……気のせいだ」
そう言い聞かせて、
もう一度、引いた。
今度は、はっきりと動いた。
―――――
回収は、時間がかかった。
全身を引きずり上げるのは無理だったから、
穴の縁で解体する。
腹を裂く。
血は、もう冷たい。
それでも肉は腐っていない。
雨と、穴の冷気のおかげだ。
「……助かった……」
独り言が、自然に漏れた。
肉を切り分ける。
太い筋。
分厚い脂。
今まで見てきたどの獲物とも、
比べ物にならない量だ。
毛皮に手をかける。
硬い。
厚い。
だが、破れていない。
剥ぐのは大変だったが、
途中で気づく。
……腕が、前より動く。
右手が、持つ。
力が抜けない。
「……」
やめたくなったが、
やめなかった。
今は――
生き延びる方が先だ。
毛皮を剥ぎ終え、
肉をまとめ、
骨と角を分ける。
角は、武器になる。
骨は、道具になる。
脂は――火にも、防水にも使える。
知らず知らずのうちに、
口の端が、少しだけ上がっていた。
「……でかいな……」
自分の声が、
やけに静かな森に響いた。
ーーーーー
回収した角グマの死体を前に、
俺はしばらく、その場に座り込んでいた。
身体は、まだ重い。
背中の傷が、じくじくと熱を持っている。
薬草は、ない。
着ていた服は、血と泥で使い物にならない。
「……作るしかねぇな……」
まずは、毛皮。
角グマの毛皮は分厚く、
雨に打たれても、芯まで濡れていない。
粗く削った石で内側をこそげ、
脂と肉を落とす。
丁寧とは言えない。
だが、今は時間も体力もない。
血まみれの服を脱ぎ捨て、
毛皮を肩から羽織る。
……温い。
それだけで、
身体の奥に残っていた寒さが、
少しだけ引いていく。
次は、骨だ。
頭部を解体していて、
すぐに気づいた。
角グマの角は、
鹿のように中まで詰まった骨じゃない。
周囲から先端に向かって、
爪のように層を重ねて生えている。
皮を剥ぎ、
骨だけにする。
試しに――力を入れた。
ぼきっ。
「……」
拍子抜けするほど、
あっさり外れた。
「……使えるな……」
短く加工すれば、
刺突用。
杭にもなる。
罠にも、
急所狙いにも使える。
頭蓋も、悪くない。
丸く、
人の頭がすっぽり収まる。
内側を削り、
縁を滑らかにする。
即席だが、
兜にはなる。
重い。
だが――守ってくれる重さだ。
次は、他の素材。
角ウサギ。
細く、真っ直ぐな角。
すでに槍には使っているが、
まだ余りがある。
短く切り、
柄に括りつける。
投げ槍。
軽い。
当たれば、十分に致命傷になる。
ヘビ頭。
あの生き物の牙は、
異様なほど鋭い。
骨から外し、
二本を並べ、
木片に挟んで縛る。
切るための刃じゃない。
刺すためだけの道具。
「……ナイフってより……杭だな……」
罠にも使える。
近接で、急所を狙うこともできる。
角グマの骨も、
そのままにはしない。
肋骨を削り、
腕に当てる。
脛にも当てる。
紐代わりに、
ツタと腱で固定する。
動きにくい。
だが――
裸より、遥かにマシだ。
ひと通り並べてみる。
角グマの毛皮。
頭蓋の兜。
骨の簡易防具。
武器は――
・ツノウサギの投げ槍
・ヘビ頭の牙杭
「………………」
生き延びるだけなら、
十分だ。
そう思って、
腕を動かしたとき――
違和感。
骨の防具が、
思ったほど、重くない。
槍を持ち上げる。
「……軽い? こんなもんだったか……」
自分の声が、やけに遠い。
骨の防具も、毛皮も、重みはある。
だが――“負担”が予想と違う。
……考えるな。
俺は道具を揃え直した。
石斧。
角グマの角。
縄代わりのツタ。
――角グマの角は、削ると硬い芯が出る。
鹿の角みたいな断面じゃない。
爪のように層を重ねた角は、
先端が割れにくく、打撃に向いている。
石斧の部分に、
短くした角を当て、
腱とツタで何重にも縛り上げる。
石の刃。
角の芯。
木の柄。
即席の…。
「角グハンマー!!……なんつって…」
やることは単純だ。
拠点は焼けた。
寝床も、屋根も、全部なくなった。
なら――また作る。
火のそばで眠れる場所。
雨をしのげる場所。
囲える場所。
そのためには、木が要る。
俺は森へ向かった。
―――――
最初の一本。
太めの木を選び、
石斧を振り下ろす。
ごん。
手に、衝撃が返る。
……だが。
二撃目。
ごんっ!!
木の表皮が、思ったより深く割れた。
「……?」
三撃目。
ごんっ!!
裂け目が、広がる。
木が、軋む。
「……おい……」
角で改良したとはいえ、
こんなに砕けるか?
石斧の刃が食い込む音が、
いつもより乾いて聞こえる。
四撃。
五撃。
ぎし……と嫌な音がして、
木が傾いた。
「……は?」
早い。
倒れるまでが、早すぎる。
俺は斧を下ろし、
自分の手を見た。
右手はまだ痛む。
背中も熱い。
それなのに――腕が軽い。
木が、脆く感じる。
いや。
脆いんじゃない。
俺が――
「……力が……」
言葉にしかけて、
飲み込んだ。
考えるな。
今は、使え。
俺は倒れた木の枝を払い、
必要な分だけ切り分けた。
少し運ぶだけで息が上がるはずなのに、
身体が、前に出る。
ふらつきはある。
痛みもある。
だが――止まらない。
「……」
胸の奥が、ざわつく。
俺は、それを無視して歩いた。
―――――
確認したくなった。
怖いからじゃない。
違う。
……確かめないと、気持ち悪い。
川べりまで戻り、
そこに転がる岩を見つける。
人の背丈ほどの、大岩。
俺は両手をかけた。
「ふぬぬぬぬぬぬ――ッ!!」
全身に力を込める。
脚が震える。
背中の傷が、びり、と痛む。
……動かない。
「……だよな」
流石に、これは無理だ。
汗が出る。
息が荒い。
俺は一度、手を離し、
隣の岩へ移った。
上半身より少し大きい。
丸みがあって、持ちやすい形。
もう一度、両手をかける。
「……ふー……んぬぬぬぬぬ……!!」
腕に力を集める。
腹に、脚に、背中に。
岩が――
ぎり、と鳴った。
「……ん?」
もう一度、力を込める。
「んぬぬぬぬぬ――――ッ!!」
ずるっ。
岩が、動いた。
……動いた?
俺は一瞬、止まった。
目で、確かめる。
ずれている。
確かに、ずれている。
「……」
喉が鳴る。
俺はもう一度、
今度は、持ち上げるつもりで力を込めた。
「――んぬぉぉぉぉぉっ!!」
ぐ、と。
岩が――浮いた。
地面から、ほんの数センチ。
「……は?」
腕が震える。
右手の傷が、焼けるように痛む。
それでも――落ちない。
俺は、息を呑んだ。
「……持ち……上がった……?」
言葉が、形にならない。
怖い。
嬉しいとかじゃない。
勝ったとかでもない。
“何かが変わった”って感覚が、
背骨の奥をぞわぞわと撫でた。
俺は岩を落とした。
どすん、と音がして、
水際の土が跳ねた。
「……気のせいだ」
そう言ってみた。
自分を誤魔化すために。
だが――
木を倒せた。
岩が動いた。
事実は、消えない。
俺は拳を握る。
……痛みがあるのに、
握れる。
「……」
理由は、分からない。
分からないままでいい。
今は。
俺は、道具を拾い上げ、
黙って拠点跡へ向かった。
火を絶やさないために。
雨をしのぐために。
――次に来る“何か”に、
殺されないために。




