第63話:孫持ちの新人
酒場は、組合の裏手にあった。
木の扉を開けると、
熱気と酒の匂いが押し寄せる。
笑い声。
皿のぶつかる音。
肉の焼ける匂い。
ガルドがさっさと席を確保する。
「おーい、エール五つだ!」
ロアンが肩をすくめる。
「もう勝手に頼んでやがる」
フィアは静かに腰を下ろす。
ユーリスは周囲をきょろきょろと見回している。
やがて、木製のジョッキが並んだ。
「灰狼団討伐、成功に」
ロアンが持ち上げる。
フィアが続く。
「……それと、新入りに」
ガルドがにやりと笑う。
「まぁ、死ななかったことに、だな」
ユーリスが小さく声を重ねる。
「か、乾杯です!」
四つのジョッキが鳴る。
俺も、持ち上げた。
「……乾杯」
木と木がぶつかる音。
酒は、思ったよりも強い。
喉が焼ける。
「で?」
ロアンが肘をついて、こちらを見る。
「それで? 新人はどこから来たんだ?」
フィアが即座に睨む。
「いきなりそういうこと聞くんじゃないわよ、ロアン」
「でも気になるしよ~。それにこれからは仲間だろ?」
軽い調子。
「まぁ、言いたくなけりゃいいけどさ」
ガルドが肉を噛みながら言う。
「森の奥じゃねぇのか? この格好だし」
ユーリスが身を乗り出す。
「でも、あの火は普通じゃ!」
フィアが視線で止める。
「ユーリス~?」
静まる。
全員の視線が、俺に向く。
俺はジョッキを置いた。
答えを持っていない。
出身地。
所属。
経歴。
どれも、今のこの世界には存在しない。
強いて言うなら――
「……この世界が始まる前から、か」
ぽつりと落ちる。
沈黙。
ガルドが瞬きをする。
ロアンが数秒止まり、
「……は?」
ユーリスがきらきらした目で身を乗り出す。
「え、え、それって神秘的な意味ですか?! それならあの火も!」
フィアだけが、俺をじっと見る。
笑わない。
否定もしない。
ただ、測る。
ロアンが吹き出す。
「おいおい、酔ってんのか?」
ガルドが笑う。
「なるほどな。森の精霊様かなんかか?」
俺は肩をすくめる。
「……冗談だ」
軽く流す。
酒場の空気が戻る。
「だよなぁ!」
ロアンがジョッキを叩く。
「じゃあ秘密ってことでいいさ」
フィアは一瞬だけ、目を細める。
「……そう」
それ以上は聞かない。
ユーリスだけが、まだこちらを見ている。
本気で考えている顔だ。
酒場の喧騒が、再び包み込む。
笑い声。
音楽。
皿の音。
俺はもう一度、酒を口にした。
……悪くない。
喉に残る熱を落としながら、
俺はふと、さっきの書類を思い出した。
「……なぁ」
フィアがこちらを見る。
「申請の用紙に、“種族”って欄があったが」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「その……」
視線が自然とフィアに向く。
耳。
細く、わずかに長い。
フィアが瞬きをする。
「……?」
ロアンが肉を止める。
ガルドも、酒を置く。
ユーリスが首を傾げる。
フィアがゆっくりと聞き返す。
「もしかして、エア」
少し間。
「あなた、エルフを知らないの?」
酒場の音が、遠くなる。
俺は、数秒だけ考える。
「……あぁ」
正直に言う。
「というか、ほとんど知らない」
ロアンが目を丸くする。
「はぁ!?」
ガルドが吹き出す。
「どんな山奥で育ったらそうなるんだよ!?」
ユーリスが身を乗り出す。
「エルフはですね、森に住む長命種で、魔力適性が高くてですね!――」
フィアが軽く手で止める。
「ユーリス、落ち着きなさい」
だがフィア自身も、少しだけ興味を含んだ目をしている。
「あなた、本当に知らないの?」
「耳が少し長い、くらいしか」
ロアンが笑い出す。
「雑すぎるだろ!」
ガルドが顎をしゃくる。
「フィアはエルフ。俺は人間。ユーリスも人間だ」
ロアンが自分を指差す。
「俺はハーフだ。親父が人間、母ちゃんがエルフ」
ユーリスがきらきらした目で補足する。
「寿命も違いますし、魔力の質も違いますし、文化も――」
「文化?」
俺が聞き返す。
フィアが頷く。
「森を離れるエルフは少ないわ。
私は……例外だけど」
一瞬だけ、空気が変わる。
ロアンが肩をすくめる。
「まぁ、俺らも例外の集まりだな」
ガルドが酒をあおる。
「種族なんざ、組合の分類みてぇなもんだ」
その言葉のあと。
俺は少しだけ、言いづらそうに口を開いた。
「……森の民、とかってのはいないのか?」
フィアが眉を動かす。
「森の民?」
「エルフのことじゃなくてか?」
杯を片手にロアンがかしげる。
俺は首を横に振る。
「いや……耳は長いんだが、肌は緑色で、小柄で、形としてはフィアに近いんだが」
そこまで言った瞬間。
空気が、変わる。
ロアンの手が止まる。
ガルドの目が細くなる。
ユーリスの顔から、きらきらが消える。
「……おい、エア」
ガルドが低く言う。
「まさか、おまえ種族嫌いか?」
ロアンも視線を鋭くする。
「今の言い方、ちょっとな」
酒場の喧騒が、遠い。
フィアは何も言わない。
ただ、俺を見ている。
試すように。
俺はすぐに首を振った。
「いや、そういうわけじゃない」
真面目に言う。
「本当に、聞いているだけだ」
ユーリスが小さく言う。
「それって……」
ロアンが先に言った。
「おまえの言ってるのって……ゴブリンだろ?」
その単語が落ちる。
「ゴブリン……」
「……ゴブリンはですね」
ユーリスが軽く説明をしてくれた。
この時代では――
討伐対象。
魔物。
繁殖力が高く、群れで襲う。
知性は低い。
少なくとも、そう分類されている。
ガルドが鼻で笑う。
「種族扱いなんかされねぇよ」
ロアンが肩をすくめる。
「言葉は通じねぇし、集落も文化もねぇ」
ユーリスが小さく付け足す。
「ただの……魔物、ですね」
俺は、黙る。
耳は長い。
肌は緑。
小柄。
だが――
俺の記憶の中では。
言葉を持ち、
火を囲み、
名を持っていた。
「……そうか」
それだけ言って、ジョッキを持ち上げる。
だが、酒の味はもう分からない。
胸の奥が、静かに冷える。
火の前で、小さな影が笑っていた記憶。
名を呼べば、振り向いた背中。
今は――魔物と呼ばれている……。
分類。
討伐対象。
ガルドが肉を噛みちぎる音が、やけに大きく聞こえる。
ロアンが肩をすくめる。
「まぁ、ゴブリンに文化なんて聞いたことねぇな」
ユーリスも小さく頷く。
「あ、でもでも! もしそこまでの知性的な個体がいたら、大発見です!」
その言葉は、どこか遠い。
俺は何も言わない。
フィアが、じっとこちらを見ている。
さっきから。
ただ、観察するように。
「……エア」
静かな声。
全員の視線が、自然とフィアへ向く。
フィアは何事もなかったように、ジョッキを持ち上げる。
「あなた、火の扱いはどこで覚えたの?」
唐突な話題転換。
ロアンが「お?」と眉を上げる。
ガルドが口を歪める。
「確かに。あれはゴブリン講座より気になるな」
ユーリスが身を乗り出す。
「はい! あの火、魔術式を感じませんでした!」
空気が、少しだけ戻る。
フィアは視線を外さない。
だが、追及ではない。
救い出すような問いだ。
俺はゆっくりと息を吐く。
「……まぁ、ちょっと家系的なもんでな」
嘘ではない。
全部は言っていないだけだ。
フィアが小さく頷く。
「そう」
それ以上は踏み込まない。
だが、その気遣いに……少し応えたくなった。
俺は、ほんの少しだけ視線を落とす。
「俺の息子も……同じように火が使えた」
一瞬。
空気が止まる。
ロアンが固まる。
「……は?」
ガルドがジョッキを持ったまま止まる。
ユーリスが目を見開く。
「む、息子……!?」
ロアンが身を乗り出す。
「いや待て待て待て。お前、俺とそんな変わらねぇだろ!?」
ガルドが眉をひそめる。
「隠し子でもいるのか?」
ユーリスが真剣な顔で聞く。
「それは……現在進行形ですか? それとも過去形ですか?」
酒場の喧騒が、逆に遠くなる。
俺は少しだけ肩をすくめた。
「……昔の話だ」
嘘ではない。
だが、説明もできない。
ロアンが頭をかく。
「昔って言われてもなぁ……」
ガルドが笑う。
「こいつ、本当に森の精霊かもしれねぇぞ?」
ユーリスが本気で考え始める。
「長命種……? でも耳は……」
フィアだけは笑わない。
静かに、俺を見る。
「……亡くなったの?」
静かな問い。
酒場の音が、また少しだけ遠くなる。
俺は、数秒だけ黙る。
火の中で、笑っていた背中。
槍を握り、俺を追い越そうとした影。
「……あぁ」
短く答える。
嘘ではない。
もう、ここにはいない。
ロアンが気まずそうに目を逸らす。
「……悪い」
ガルドも鼻を鳴らすだけだ。
ユーリスが小さく言う。
「すみません……」
フィアは、何も言わない。
ジョッキを持ったまま、
ただ静かに俺を見ている。
その視線は、
憐れみでも、同情でもない。
ただ、受け止める目だ。
……違う。
しんみりさせたいわけじゃない。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「気にするな」
三人が顔を上げる。
「あいつらは幸せに人生を終えた」
ロアンの眉がわずかに動く。
ガルドの手がまた止まる。
ユーリスがまっすぐに俺を見る。
それを見ながら俺は笑って続けた。
「気づけばな?」
口元が意識しなくても上がるのがわかる。
「俺には、いつのまにか……、
本当に数えられない孫どもができてた」
一瞬の沈黙。
「……は?」
ロアンが固まる。
「孫?」
ガルドが目を細める。
「ちょっと待て。話が飛びすぎだろ!」
ユーリスが真面目な顔で指を折り始める。
「えっと……息子さんがいて、その子に子供がいて……つまり……」
俺は肩をすくめる。
「だから、俺は幸せなんだ」
嘘ではない。
火のそばで眠る子。
走り回る小さな影。
名前を呼べば、笑って振り向いた顔。
確かに、あった。
直接は見れなかったが。
夢の中、皆……いい顔をしていた。
ロアンが頭を抱える。
「お前、何歳なんだよ……」
ガルドが吹き出す。
「新人って言っていいのか、これ?」
ユーリスが目を輝かせる。
「長命種確定ですね……もしかしてエアさんもハーフ!?……!」
フィアだけが、
ほんの少しだけ笑った。
静かに。
「……なら、よかった」
短い言葉。
だが、それで十分だった。
ロアンが勢いよくジョッキを持ち上げる。
「よし! しんみり終わりだ!」
ガルドも続く。
「孫持ち新人に乾杯だ!」
ユーリスが慌てて掲げる。
「お、お孫さんに!」
「おいおい」
思わず口が出る。
――そしたらお前ら、自分に乾杯してるんだぞ?
なんて言いかけて、やめた。
「っふ」
小さく、笑いが漏れる。
フィアが片眉を上げる。
「へぇー。ちゃんとあんた、笑えるじゃない?」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味よ」
口元に、ほんのわずかな悪戯っぽさ。
空気が、柔らかくなる。
酒場の喧騒が、
今度は心地よく耳に届いた。
俺はジョッキを置く。
「まぁ、俺が話せる身の上なんて、こんなもんだ」
肩をすくめる。
「今度はお前たちのことも聞かせてくれ」
ロアンがにやりと笑う。
「お? いいのかよ。長くなるぞ?」
ガルドが肉を持ち上げる。
「俺の武勇伝は三日三晩コースだぜ」
ユーリスがぱっと手を挙げる。
「じゃ、じゃあ私は魔術学院の話を――!」
フィアが静かにジョッキを傾ける。
「……順番ね」
木のジョッキが、もう一度鳴る。
今度は、
少しだけ軽い音だった。




