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第59話:その火は、俺のだ


礼拝堂の奥の小部屋。


蝋燭の火が、静かに揺れている。


石壁の影に、若者は立っていた。


昼間、エアに突っかかっていたあの若者だ。


眠れなかった。


ただ、心配だった。


教会に、見知らぬ若い男。

その中に、年老いた神父と、若いシスター。


心配するなという方が無理だった。


昼の光景が、頭から離れない。


昔から知っている彼女の笑顔。


それを――


いきなり全裸で現れた、よく分からない男が乱した。


耳を澄ます。


「真なる奇跡」

「神の御業」


断片的な言葉が聞こえる。


そして。


低い声。


「そんなもの、全部嘘だ」


若者の背筋が凍る。


「神なんかじゃない。ただの火だ」


鼓動が速くなる。


「崇めるようなものじゃない」


息が止まる。


教会で、何を口にしている。


神父の、かすれた声。


「……やはり、中央の教えは歪んでいるのですな……」


沈黙。


そして。


「人なんて、そんなもんだ」


静かな断言。


若者の拳が震える。


これは――背教だ。


神を否定した。

絶対神を、嘘だと言った。


その時。


小さな声が漏れる。


「……ふふ」


若者は目を見開く。


ミレナの声だ。


震えではない。

恐れでもない。


「……そんな神様、少し素敵ですね」


楽しそうな、

驚いたような、

柔らかい声。


胸が、強く締め付けられる。


笑っている。


神を否定する男の言葉に。


神父も揺らいでいる。

信仰が崩れている。


あの人が、惑わされている。


これは放っておけない。


これは――危険だ。


拳を握る。


「……やっぱり」


小さく呟く。


「異端だ」


守るためだ。


村を。

教会を。

あの人を。


中央に知らせる。


それだけだ。


それが正しい。

それが、信仰だ。


夜は冷たい。


だが、若者は歩き出した。


―――――


礼拝堂の奥の小部屋。


蝋燭の火が、低く揺れている。


神父は机に向かっていた。


古びた聖典が開かれている。

その隣に、白紙の羊皮紙。


羽根ペンが、静かに走る。


「……御子は昼と夜を司る神、ではない」


小さく呟きながら、線を引く。


横に書き加える。


“立ち続けた者”

“夜に火を守った者”


神父の手は震えている。

だが止まらない。


「……記さねばなりませぬ」


かすれた声。


「歪められたままでは……」


俺は壁際に立ち、

その様子を黙って見ていた。


「好きにしろ」


短く言う。


「俺は神の名などいらん」


神父は首を振る。


「名のためではありません。

 記憶のためにございます」


静かな断言。


机の上には、

三つの宗派の違いを書き分けた覚え書きもある。


“絶対神”

“火は意志”

“最初に灯した者”


それぞれの教義の横に、

小さく“事実”と書き添えていく。


外の空気が、

わずかに変わった。


足音。


荒い、複数の足音。


その直後――


「お待ちください!」


ミレナの声。


いつもより大きい。

必死な声。


神父の手が止まる。


俺は顔を上げる。


扉の向こうで、低い男の声。


「中央よりの命だ。退け」


重い音。


扉が、内側へ押し込まれる。


神父が、素早く羊皮紙を閉じた。


俺を見る。


その目に迷いはない。


「エア殿」


小さく、しかし強く。


「奥へ」


「……」


「今は、出てはなりませぬ」


静かに息を吐く。

……判断は早い。


俺は壁の奥、

石の影へと身を沈める。


気配を落とす。


足音が近づく。


重い靴。

鎧の擦れる音。


バン、と乱暴に

扉が開かれた。


黒い外套。


胸に、光火派の聖印。


「審問官である!」


冷たい声。


「この教会に、異端の噂がある!」


神父は、ゆっくりと立ち上がる。


「辺境ゆえ、誤解も多くございます」


審問官の視線が部屋をなぞる。


石像。

聖印。

机。


そして――


閉じられた聖典。


「昨夜、この地で神を否定する言葉が発せられたと報告があった」


空気が、凍る。


外で、

ミレナの声がもう一度響く。


「違います! 神父様は――」


「黙れ」


短く、切り捨てる声。


俺は石の影から耳を済ませる。

若い男の呼吸音も混じっている。


(……あの若造か?)


密告。


なるほど。


審問官は机へ歩み寄る。


指先で、聖典を叩く。


「統一は進んでいる」


低い声。


「揺らぎは許されぬ」


神父は、

わずかに背筋を伸ばした。


「揺らぎではございませぬ」


「ならばそれは何だ?」


沈黙。


蝋燭の火が、

わずかに強く揺れる。


俺は影の中で、

ただ見ている。


まだ、動かない。


審問官の手が、

閉じられた羊皮紙へと伸びた。

そして羊皮紙を開いた。


走り書きの文字。

「最初に火を灯した者」

「御子は神にあらず」


沈黙。


審問官の目が細くなる。


「……十分だ」


低い声。


「異端と断ずる!」


神父は、目を閉じた。


「覚悟はできております」


その瞬間。


審問官の手が、神父の胸倉を掴む。


「連れて行け!」


荒々しく引き倒される。


椅子が倒れ、

机が軋む。


「おやめください!」


ミレナが飛び込む。


審問官の腕が振るわれる。


乾いた音。


ミレナの体が、石床に打ちつけられる。


「……ッ」


息が詰まる音。


神父が叫ぶ。


「その子は関係ない! 触れるでない!」


「黙れ、異端が!」


神父も乱暴に引き起こされる。


縄が打たれる。


外へと引きずられていく。


石床に、布が擦れる音。


―――――


礼拝堂の外。


道の真ん中。


すでに人が集まっている。


村人たち。

ざわめき。


中央の紋章を見て、

誰も口を挟めない。


若者は前に出る。


「ま、待ってくれ!」


審問官の前に膝をつく。


「俺が知らせたんだ!

 だが……そんなつもりじゃ――」


審問官が冷たい目で見下ろす。


「貴様も異端者として裁かれたいか?」


空気が凍る。


若者の喉が鳴る。


「……ッ」


足が動かない。


神父が膝をつかされる。


ミレナも引き起こされ、

縄をかけられる。


頬に赤い痕。


だが、泣いてはいない。


若者の視界が揺れる。


これは――違う。


守るためだった。


なのに。


「……俺は何を?」


その時……背後から、足音。


静かに、ゆっくりと。


ある男が出てくる。


麻のシャツ。

簡素な上着。


ただの男の姿。


若者の横を通り過ぎる。


立ち止まる。


若者の頭に、そっと手を置く。


強くもなく、

叱るでもなく。


ただ、触れる。

その手には温かさがあった……。


若者が顔を上げる。


男の顔は、

怒りではなかった。


呆れでもない。


――仕方ないな、という顔。


「……任せろ」


小さく、それだけ言う。


若者の呼吸が止まる。


群衆がざわつく。


審問官が声を張り上げる。


「この者らは、絶対神エンラを否定し、

 御子を神にあらずとし、

 教義統一に反する言動を行った!」


羊皮紙を高らかに掲げ、続けた。


「よって、異端として裁きの火にかける!」


宣告。

そして、持っていた杖の先が赤く光る。


石像が、朝日に照らされる。


その前に、ただの男が立つ。


そして静かに……


「……その火は、俺のだ」


風が止まる。


蝋燭ではない。


本物の火が、

胸の奥で揺れた。


―――――


ざわめきは、波のようだった。


人だかりの向こう。


俺は歩く。


石畳の感触。

朝の空気。

焼ける匂い。


全部、覚えている。


神父から教えてもらった……。


中央の紋章。

光火派の聖印。


あの形は、俺の時代にはなかった。

後の奴らが勝手に作ったものだ。


俺は審問官の背後に立つ。


奴はまだ気づかない。


村人のざわめきが、少しずつ止む。


「……」


俺は一歩、前に出る。


その火は――


「俺のだ」


低く言う。


審問官の肩が、ぴくりと震える。


振り向く。


俺を見る。


「貴様――」


俺はその目を見返す。


「勝手に語るな」


空気が張り詰める。


審問官の眉が吊り上がる。


「神を騙るか」


「騙る?」


鼻で笑う。


「お前がだ」


ざわめき。


若者が息を呑む。


審問官は杖を構える。


先端の宝石が赤く光る。


「異端者め! 裁きの火をもって、その身を浄めてやる!」


詠唱。


光が集まる。


火が生まれる。


真紅の炎が、一直線に俺へ放たれる。


――熱。


服が焼ける。


布が燃え落ちる。


皮膚を舐める炎。


村人が悲鳴を上げる。


若者が叫ぶ。


だが。


俺は、目を閉じ……ただ、受ける。


熱はある。


だが――痛みは、ない。


炎は、俺を飲み込んだ。


――燃えない。

焦げない。


炎は、俺に触れた瞬間、

色を失う。


赤が、淡くなる。

熱が、抜ける。


まるで、

帰る場所を思い出したように。


俺は目を開ける。


炎の中で。


「それは……」


声は、低い。

だが、空に届く。


「借り物だな……」


俺は手を伸ばす。


炎が、

俺の腕を伝い、

胸へ戻る。


「火は息子たちが受け継いだ」


一歩。


「そして……その後にも。

 ……立ち続けた者の中に残る」


二歩。


空が、曇る。

太陽が、雲に隠れる。


村中の火が、一斉に高く揺れる。


かまど。

灯り。

石像の聖火。


すべてが、俺を見る。


「それを勝手に名付けるな」


審問官の杖に触れる。

宝石が震える。


「その火は――」


パキ、と音がする。


宝石に亀裂が走る。


「俺のだ」


瞬間。


村中の炎が、縦に伸び、この場に集まる。


まるで……一斉に頭を垂れたように。


そして。


すべてが静まる。


無音。


審問官の杖は、

灰になって崩れ落ちた。


俺は、そのまま立っている。


だが今、

誰もそれを見ていない。


見ているのは――


火の中心に立つ存在。


審問官が、おののく。

無意識に。


理解はしていない。


だが、本能が折れた。


俺は見下ろす。


「もう一度、言え」


静かに。


「裁きの火、だと?」


審問官の顔が引きつる。


「ま、まやかしだ……!」


声が裏返る。


後退る。

だが、足がもつれる。


「悪魔め!」


懐から短剣を抜く。


銀の刃。

祝福の刻印。


群衆が息を呑む。


若者が叫ぶ。


「やめろ!」


審問官は突進する。

理性ではない。


恐怖だ。


刃が振り下ろされる。


――俺は、動かない。


刃は、胸に迫った。


その瞬間。


金属が、軋む。


高い音。


銀が赤く染まる。


溶ける。


液体のように垂れ落ちる。


審問官の目が見開かれる。


「な……」


溶けた金属が、彼の手を伝う。


皮膚に触れる。


焼ける匂い。


悲鳴。


「ぐぁああああ!」


俺は、まだ動かない。


炎は外にない。


内にある。


胸の奥で揺れたそれが、

静かに、外へ滲み出る。


俺の身体を包む。


赤ではない。

青でもない。


ただ、揺らぎ。


審問官の腕が、

炎に触れた瞬間、


空気が焼ける。


「や、やめ……!」


炎は噛みつかない。

跳ねない。


ただ、触れたものを

“還す”。


外套が燃える。


紋章が焦げる。


鎧が赤く染まり、

崩れる。


群衆が後ずさる。


若者が凍りつく。


審問官の声が、

断末魔に変わる。


「神よ――!」


俺は、静かに言う。


「俺は……神などではない」


炎が、ひときわ強く揺れる。


審問官の姿が、

光に呑まれる。


叫びは途中で途切れる。


残ったのは、

灰と、焼けた石の匂いだけだった。


誰も、声を出せない。


俺の身体を包んでいた炎が、

ゆっくりと広がる。


だが、暴れない。


礼拝堂の前で揺れていた火が、

一斉に動く。


敵意のあるものはその火に包まれ、

灰になった。


神父を縛っていた縄が、

ふ、と燃える。


音もなく、焼き切れる。


ミレナの手首を締めていた縄も、

同じように解け落ちる。


だが炎は、彼らを傷つけない。


ただ、解く。


村中の火が、

一瞬だけ強く揺れ、


そして、静まる。


俺は立っている。


裸のまま。


炎は、消える。


残ったのは、

焼けた石と、

崩れた灰と、

息を呑む人々。


若者が、震える声で呟く。


「……あ……あんた……」


俺は振り返らない。


ただ、前を見る。


空は、重い雲に覆われていた。


宙に漂う羊皮紙を、俺は掴む。


そして……燃やした。


「ただの火だ……守るための、な……」


静まり返った村で、誰もその言葉に反論できなかった。


石像の聖火は、もう揺れていない。


若者は、その場に膝をついたまま動けない。


信仰が崩れたのではない。


形が、変わったのだ。


そして誰も、

その名をもう軽々しく口にできなかった。

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