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第5話:雨の森は祝わない


拠点へ戻ると、

俺はほとんど転がり込むように地面に座り込んだ。


右手。


噛みついたまま引きずってきた死体は、

途中でようやく振り落としたが、

その代償は大きかった。


歯型。

穴。

裂けた肉。


血は、もう止まりかけている。

だが――熱が、ある。


嫌な熱だ。


「……くそ……毒か?」


俺は歯を食いしばり、

残っていた薬草を全部取り出した。


数枚。

本当に、数えるほど。


葉を噛み潰し、

唾液と混ぜる。


あの清涼感。

鼻に抜ける、ミントみたいな匂い。


それを、

右手の傷口に押し当てた。


じゅ、と音がしそうなほど、

ひやりとした感触が走る。


痛みが、強引に引き剥がされる。


だが――

それだけだ。


「……これで、終わりか……」


布を巻き、

きつく縛る。


もう、残りはない。


俺の命綱は、

今ので使い切った。


―――――


翌日。


右手は、

動く。


だが、重い。

感覚が、鈍い。


槍を握ると、

じわりと痛みが返ってくる。


それでも――行くしかない。


俺は森へ入った。


薬草。

あの匂い。


岩陰。

倒木の根元。

湿った土。


探す。


……ない。


どこにも、ない。


やはり最初の場所にしかないらしい……。


狩り。

伐採。


人一人分とはいえ、

この辺り一帯を、

かなり動き回った。


生き物も、

草も。


全部――有限だ。


今日は獣も、いない。


耳獣の気配もない。

角ウサギも、見かけない。


「……荒らしすぎたか……?」


森が、

静かすぎる。


「……はぁ……」


息を吐きながら、

それでも歩く。


止まったら、

終わる。


やがて――

視界が、少し開けた。


木々が途切れ、

低い草地の向こうに――水。


川だ。


新しい川。


今まで見ていた川より、

少し細いが、

流れは速い。


「……水源が増えるのは……悪くない……」


そう思った、そのとき。


ぽつ。


腕に、

冷たい感触。


次の瞬間、

空気が変わった。


雨だ。


ぽつ、ぽつ。

すぐに、ざぁ、と音を立て始める。


俺は踵を返し、

拠点へ急いだ。


―――――


その途中だった。


雨音に混じって、

地面が、揺れた。


どす。


どすん。


一歩ごとに、

重たい振動。


「……まさか……」


喉が、鳴る。


次の瞬間。


木々の向こうから、

巨大な影が現れた。


角。


でかい。

太い。

頭の両側から突き出た、異様な形。


体毛は濡れ、

筋肉の輪郭がはっきり浮き出ている。


――角グマ。


前に見たやつより、デカい……。


距離が、近すぎる。


「……くそ……」


逃げ場は、ない。


雨音の中で、

そいつは鼻を鳴らした。


血の匂い。


俺の右手。

まだ、生々しい傷跡がある。


雨の中で光る目が、

こちらを捉える。


低く、唸る。


逃げられない。


――再戦だ。


俺は構えた。


右手が、軋む。


それでも――


この世界は、

容赦しない。


なら――

俺も、容赦しない。


――先に、動いたのは俺だ。


弓を引き絞り、

狙いも付けずに放つ。


ひゅっ。


矢は雨を裂き、

角グマの肩口に突き立った。


だが――


「……効いてねぇ……!」


皮膚を破っただけ。

肉に、浅く刺さっただけだ。


角グマは一瞬も止まらない。


低く吠え、

頭を下げる。


角が、真正面を向いた。


「来る――!」


次の瞬間、

地面が爆ぜた。


突進。


一直線。


俺は弓を放り捨て、

横へ跳んだ。


どごぉぉんっ!!


背後で、

凄まじい衝撃音。


木が、鳴いた。


振り返る。


角グマの角が、

太い幹に――深々と突き刺さっている。


抜けない。


一瞬だけ、

動きが止まった。


「……今だッ!!」


俺は駆けた。


槍を両手で握り、

横腹へ――全力で突き込む。


「――ッ!!」


ぐぶっ。


手応え。


分厚い肉を裂き、

槍先が沈み込む。


「グォォォォッ!!」


怒りの咆哮。


角グマが身体を捻り、

無理矢理、角を引き抜いた。


ばきっ、と音を立て、

木片が飛び散る。


その反動で――


俺は、弾き飛ばされた。


「――ぐっ!」


雨でぬかるんだ地面を、

転がる。


背中。

肩。

痛みが、遅れて叩きつけてくる。


だが、止まれない。


角グマは、

すでに向き直っていた。


怒り。

純粋な、殺意。


「……くそ……っ!」


立ち上がろうとした瞬間――


来た。


横薙ぎ。


俺は反射で、

地面を転がる。


どぱぁっ!!


さっきまで俺がいた場所が、

腕――いや、爪で抉り取られる。


土が舞う。

草が飛ぶ。


一撃で、

地面が壊れる。


「……当たったら……終わりだ……」


息が荒れる。

右手が、痛む。


薬草は、もうない。


失敗は、

一回も許されない。


角グマは、

再び距離を詰めてくる。


急いで立ち上がり、逃げる。


雨の中、

巨大な影が迫る。


「……やるしか……ねぇか……!」


――逃げる。


考えるより先に、

足が動いた。


雨でぬかるんだ地面を蹴り、

森の中へ駆け込む。


背後で、

木が折れる音。


近い。


「……いまはこんなの……邪魔だ……!」


俺は槍を握り直し、

振り向きざまに――投げた。


狙いは、つけない。


牽制。

ただ、それだけ。


ひゅっ。


槍は雨を切り、

角グマの胴に突き立つ。


だが――


「……やっぱ止まらねぇよな……!」


効いていない。


角グマは吠え、

そのまま突進を続けてくる。


俺は走る。


枝を跳び、

根を跨ぎ、

転びそうになりながら、走る。


呼吸が、荒い。


肺が、焼ける。


「……くそ……!」


距離が、

縮まっていく。


避ける。

転がる。

立ち上がる。


一度。

二度。


だが――


三度目は……。


回避が、

間に合わない。


背後に、

気配。


重たい。

圧倒的な存在感。


俺は一瞬だけ振り返り、

反射で――角を掴んだ。


「――ぐっお!?」


止まらない。


腕が、持っていかれる。


角グマの突進を受け止めたまま、

俺は――滑った。


ぬかるんだ地面を、

引きずられる。


足が、浮く。


視界の先――

木。


太い幹が、

迫ってくる。


「……死ぬ――!?」


(まずいまずいまずいまずい!!!??)


脳が、叫ぶ。


その瞬間。


「ぬぉおおおおおお!!!???」


俺は残っていた力を、

全部、脚に込めた。


地面を全力で……、


蹴る。


跳ぶ。


角グマの頭を踏み越え、

背中を――転がる。


「――っ!」


雨の中、

身体が宙を舞う。


次の瞬間、

地面に叩きつけられた。


息が、抜ける。


だが――


後ろで、

どごぉんっ!!


まただ。


角グマの角が、

木に――深々と突き刺さっている。


動けない。


一瞬の、

完全な隙。


「……今のうち……!」


俺は転がるように立ち上がり、

再び、走った。


足が、笑う。

肺が、悲鳴を上げる。


視界が、

狭くなる。


それでも――走る。


「……もう少し……!」


知っている。


この先――


「あの場所」だ。


木々の配置。

地面の感触。


二日前、

必死で掘った場所。


「……来い……来い……!」


背後で、

怒号。


角グマが、

再び動き出す。


重たい足音が、

迫る。


距離が――

詰まる。


だが――


俺は、止まらない。


止まれない。


もう少しで、

賭けに出られる。


生きるか、

喰われるか。


――最後の力で、一直線に走り出した。


雨が叩く。

泥が跳ねる。


視界の先は、ただの草地。

誰が見ても、そう見える。


だが――そこには、大きな穴がある。


二日前。

必死に掘り続けた、大穴。


あの爪痕を見ていなければ、

俺は絶対に作らなかった。


角ウサギや耳獣程度じゃ――必要なかった。


「頼む頼む頼む! まにあええぇえええ!!!」


命がけで、走り込む。


そして――飛ぶ。


穴の真上。


ツタのロープ。


俺は腕を伸ばし、

指先で――掴んだ。


ぎりっ。


握れた。


「……やった……!」


間に合った。


そう思った――次の瞬間。


どんっ!!


背中に、衝撃。


爪。


角グマの前脚が、

俺の背中を――掴んだ。


「ぐぁ――っ!?」


肉が裂ける。

爪が、背中の皮膚を削り、

骨まで届きそうな痛みが走る。


落ちる。


俺と、角グマ。


同時に。


「――っ、うおぉぉ!!」


俺はロープにしがみついた。


腕が、ちぎれる。

肩が、外れる。


身体が引き裂かれそうになる。


角グマの重さが、

一瞬だけ、俺を引きずり落とす。


穴の底が見えた。


尖らせた杭。

雨で濡れ、

黒く光る木の牙。


「ッッッ!?」


角グマの爪が、

俺の背中を引き裂きながら――滑った。


ずるっ。


爪が、肉を削り、

獣の指が――離れる。


「グォォォォォッ!!」


悲鳴みたいな咆哮。


角グマが落ちた。


ぐしゃっ、という鈍い音が、

穴の底から響く。


そして続けて、

杭が何本か折れる音。


俺はロープにぶら下がったまま、

雨に打たれ、息を荒げた。


「ハァハァハァハァ……」


背中が熱い。

血が、背中から腰へ流れていく。


だが――


俺は歯を食いしばり、

ツタを伝って地面へ戻る。


ぬかるみに膝をつきながら、

穴の縁へ這い寄った。


中を見る。


角グマは――死んでいない。


杭に刺さっている。

何本かは折れている。

だが、まだ動く。


筋肉が震え、

角が土を抉り、

獣の息が、穴の中で荒く響いている。


「……くそ……っ、終わらせる……!」


俺は穴の脇に張っておいたロープへ飛びついた。


木に掛けてある、引き綱。


仕掛け。


“とどめ”だ。


引く。


ぐっ。


動かない。


ぬかるんだ地面に足を取られ、

踏ん張りが利かない。


滑る。

膝が沈む。


「……っ、うそだろ……!」


腕が震える。


背中が痛い。

右手が痛い。

呼吸が、もう吸えない。


それでも、引く。


歯を食いしばる。


「来い来い来い来い……っ!!!」


ぐぐぐ――


草陰から、

何かが――引きずり出されてきた。


丸太。


削っただけの杭。


太く、重い。


穴の真上へ吊るしてある。

尖った先端は――真下を向いている。


それが、少しずつ、

少しずつ――中央へ移動していく。


「……っ、……っ、……っ!」


肩が裂ける。


だが、

杭は来た。


穴の中心。


角グマの真上。


角グマが気づき、

咆哮する。


穴の中で暴れ、

杭に刺さった身体を無理矢理持ち上げようとする。


遅い。


今度こそ――間に合う。


俺はロープを握り直し、

全身の力を込めて、引き切った。


「――落ちろォォォ!!」


手を離す。


ぶん、と風が鳴った。


重量が落ちる。


雨を裂き、

空気を裂き、

尖った丸太が――真下へ落下した。


どすんっ!!


重たい衝撃が、地面まで震わせる。


穴の底から、

一瞬だけ息が詰まる音がして――


次に、短い咆哮。


「グォ――……ッ……」


それが、

ぐぐ、と喉の奥で潰れ――途切れた。


静かになった。


雨音だけが残る。


俺はロープを握ったまま、

その場に膝をついた。


肩で息をする。


背中の血が、

雨と混じって流れていく。


だが――


生きている。


俺は穴の中を見下ろした。


丸太の杭が、

角グマを押さえつけている。


動かない。


「……やった……」


声は掠れていた。


勝った。


いや――


勝てた。


ギリギリで。


俺は息を吐き、

視線を上げた。


雨の森は、

何も祝ってくれない。


ただ、冷たく、

容赦なく降り続けていた。


――けれど。


ふと、足元が赤いのに気づいた。


雨水が泥を流して、

そこだけ色が濃くなっている……。


……違う。


赤い。


「……まずい……」


背中だ。


掴まれたときに裂かれた傷。

痛みで誤魔化されていただけの“出血”。


興奮が、切れていく。


勝った――という実感が、

身体の芯から冷えて、溶けて、


その代わりに。


痛いほどの寒気が、来た。


「……っ……」


視界が、揺れる。


雨の冷たさじゃない。

体の内側から、熱が抜けていく感じ。


背中の痛みと、

右手の痛みと、

どこがどう痛いのか――区別がつかなくなっていく。


ただ、全身が重い。


膝が、笑う。


「……もどら……なきゃ……」


息を吸うたび、

喉の奥がヒュッと鳴った。


俺はよたよたと歩き出す。


浅い川。


いつもならなんでもない流れが、

今は“壁”に見えた。


足を踏み入れる。


冷たい。


一瞬で、

足首から骨まで凍るような感覚。


バランスが崩れる。


転びそうになるのを、

歯を食いしばって堪えた。


「……っ、……っ……」


対岸に手をつき、

泥を掴んで這い上がる。


もう、走れない。


歩くのが、精一杯。


拠点の柵が見えたとき、

安心より先に、力が抜けた。


「……やっと……」


柵の隙間をくぐり、

中に入った瞬間――


俺は、倒れ込んだ。


どさっ。


土が冷たい。

体温が奪われる。


だが、起き上がれない。


震える手で、

石の器を探る。


火種。


乾いた葉。

擦った石。

残りの火種。


指が、うまく動かない。


がちがち、歯が鳴る。


「……火……火……」


手が震えて、石が噛み合わない。


かち。

かちっ。


やっと、小さな火花が散る。


乾いた葉に移る。


ほっとする間もなく、

息が乱れた。


「……はぁ……っ……はぁ……っ……」


体が、冷たい。


痛いほど冷たい。


いや――


“冷たい”を通り越して、

感覚が薄くなっていく。


指先が遠い。


視界の端が、

じわじわ暗くなる。


「……あぁ……」


自分の声が、

他人みたいに聞こえた。


「……だめだ……」


火はついてる。

でも、近づけない。


近づく力がない。


背中が濡れている。

雨じゃない。


血だ。


「……今度こそ……死ぬ……」


呟いた途端、

胸の奥が、すうっと軽くなる。


怖い。


……なのに、妙に落ち着く。


その落ち着きが、いちばん怖い。


俺は火の揺れだけを見つめた。


ぱち。


火の粉が跳ねて、

闇に消えていく。


(……眠るな)


頭のどこかで、声がした。


(……眠ったら、終わる)


分かってる。


分かってるのに。


瞼が――重い。


「……くそ……」


最後にそれだけ吐き捨てて、

俺は震える手を、火の方へ伸ばした。


届かない。


指先が宙を掻いて――


そのまま、落ちた。


闇に。


火の音だけが、

遠くで鳴っていた。

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