第58話:崇めるな、守れ
翌朝。
礼拝堂の窓から、柔らかな光が差し込んでいた。
昨日は、それから。
火の話をした。
夜の話をした。
息子の話もした。
リヒトが、立ち止まらなかったこと。
ナハトが、夜に立ち続けたこと。
村の名もない戦い。
火を守るために積み上げた日々。
二人は、何度も息を呑んでいた。
神話とは、あまりにも違ったからだ。
―――――
神父は、今も机に向かっている。
昨夜は、ほとんど眠っていないだろう。
「……エア殿」
静かな声。
「我らの教えは、三つに分かれております」
俺は、椅子に腰を下ろしたまま聞く。
「中央では、エンラは唯一絶対神とされております」
神父の目が、石像へ向く。
「創世の主。
御子は昼と夜を司る神。
槍は神器。
言葉は絶対」
淡々とした口調。
だが、その奥に揺らぎがある。
「それが、今の主流にございます」
「主流、か」
俺は呟く。
「しかし」
神父は続ける。
「火とは神ではなく、意志であると説く者もおります」
「意志?」
「はい。
崇めるのではなく、継ぐのだと」
俺は少しだけ目を細める。
「……それは悪くない」
神父は一瞬、驚いた顔をする。
だが、さらに言葉を重ねた。
「そして、さらに古い伝承もございます」
空気が、わずかに変わる。
「エンラは神ではなく――
最初に火を灯した者だ、と」
沈黙。
蝋燭の火が、小さく揺れる。
俺は、短く息を吐いた。
「全部、後から付けたな」
神父の肩が、わずかに震える。
「……やはり、そうなのでしょうか」
「神にする方が都合がいい」
静かに言う。
「崇めれば従う。
絶対にすれば疑わない」
神父は目を伏せた。
「中央は、教義の統一を急いでおります」
それだけを告げる。
多くは語らない。
だが意味は十分だ。
「異なる解釈は、異端とされる」
ミレナが、小さく言う。
「火の哲学を説く者も、
古い伝承を守る者も……」
神父が続ける。
「もし、中央が貴方様の存在を知れば」
間。
静かな、重い間。
「異端と断じられましょう」
礼拝堂の空気が、冷える。
俺は、窓の外を見る。
朝の村は穏やかだ。
まだ、何も壊れていない。
「構わん」
短く答える。
神父が顔を上げる。
「俺は神じゃない。
火を起こすだけだ」
沈黙。
だが、その沈黙は昨日と違う。
恐れではない。
覚悟に近い。
ミレナが、ゆっくりと息を吸う。
「……では」
震えは、もうない。
「私たちは、どうすればよいのでしょう」
俺は、蝋燭を見る。
小さい。
だが、確かに燃えている。
「崇めるな」
静かに言う。
昨日と同じ。
「使え」
そして、付け加える。
「ただ……守ればいい。
家族を。
大事なものを」
神父の視線の先に、ミレナが移る。
朝の光が、
石像の炎を照らしていた。
―――――
礼拝堂の裏手。
朝の空気は澄んでいる。
石畳はまだ冷たく、陽はゆっくりと昇り始めていた。
柱に張られた縄。
そこに、白い布がいくつか揺れている。
ミレナは両手に洗濯物を抱えていた。
まだ少し冷たくて、手が動きにくい。
だが、昨日の夜のような震えはない。
布を広げ、縄にかけようとする。
……高い。
背伸びをする。
指先が、わずかに届かない。
周囲を見渡し、
壁に立てかけてあった細い棒を手に取る。
布を持ち上げようとした、その時。
「貸せ」
背後から、低い声。
ぴくりと肩が跳ねる。
振り返る。
エアが立っていた。
麻のシャツ。
簡素な上着。
昨日よりも、ずっと“人”に見える。
「……お、おはようございます」
「おはよう」
短い返事。
エアは棒を受け取り、
布も一緒に持ち上げる。
何の力みもなく、
縄へかける。
布が、ふわりと広がる。
朝の光を受けて、
白が透ける。
その向こうに、礼拝堂の石像が見えた。
槍を掲げた炎の姿。
エアは、それを見ない。
ただ次の布を受け取る。
「……すみません」
「何がだ」
「昨日も……今日も……」
言葉が途切れる。
エアは布をかけながら言う。
「手が届かないだけだろ」
淡々と。
「それは罪じゃない。
ここにいる俺は、神でもない」
布が並んでいく。
白。
灰。
薄い生成り。
風が通り、
布が同じ方向へ揺れた。
昨日は、
神と呼ばれた男。
今は、
洗濯を手伝っている。
「……あの」
少し勇気を出す。
「本当に、崇めなくてよいのですか」
エアは最後の布をかけ終え、
縄を軽く押して張りを確かめる。
「崇めても腹は膨れない」
それだけ言う。
「使えるなら使え。
火も、手も」
風が強くなり、
布が大きくはためいた。
朝の光が、
石像の炎を照らす。
だがその前で、
ただの男が立っている。
恐怖はない。
ただ――
少しだけ、
温かいものが残っていた。
―――――
礼拝堂の裏手から戻ろうとした時だった。
石壁の影に、
一人の若者が立っていた。
腕を組み、
こちらを睨んでいる。
年は二十そこそこ。
日焼けした肌。
まだ少年の名残を残す顔。
「……あんた」
低い声。
俺は立ち止まる。
「なんだ」
若者は一歩、近づいた。
「シスターに、あんまり近づくな」
静かな朝に、不自然な緊張が走る。
「近づいていない」
淡々と答える。
若者の眉が吊り上がる。
「昨日、あんた何したか覚えてるか?」
沈黙。
「いきなり裸で現れて、
教会中を騒がせたんだぞ」
「もう知れ渡ってるのか……」
「忘れたとは言わせねぇぞ!」
真正面からの怒り。
正当だ。
「……覚えている」
「だったら分かるだろ」
拳が震えている。
「そんな奴が、翌日には普通の顔して、
あの人の隣にいる……」
一歩、踏み込む。
「信用できるか」
俺は少しだけ視線を逸らした。
「できなくていい」
若者が一瞬止まる。
「……は?」
「信用は求めていない」
静かに言う。
「洗濯を手伝っただけだ」
「それが気に入らないんだよ!」
若者の声が荒れる。
「俺は……ずっとあの人を見てきた……」
吐き出す。
「小さい頃からだ。
ここで、一緒に育った……」
沈黙。
風が、布を揺らす。
「昨日来たあんたに、
あんな顔させたくない」
「あんな顔?」
「……笑ってただろ」
その言葉で、少しだけ間が空く。
俺は首を傾げる。
「だから何だ」
若者の顔が赤くなる。
「だから何だ、って……!」
胸ぐらを掴もうとする。
その手を、俺は止める。
力は込めない。
ただ、止める。
「ッ」
若者の腕が動かない。
「離せ!」
「離す」
すぐに手を放す。
若者は一歩よろける。
「はぁ……俺は何も奪っていない」
淡々と。
「奪うつもりもない」
「じゃあ何だ!」
叫ぶ。
「何なんだよ、あんた!」
沈黙。
少し考える。
「……分からん」
正直な答えだった。
若者の怒りが、一瞬だけ鈍る。
「俺も昨日からだ。
まだ理解していない」
視線を合わせる。
「だが」
一拍。
「あの子を困らせるつもりはない」
それだけ。
説教も、理屈もない。
若者は唇を噛む。
「……あの人を泣かせたら、許さない」
低い声。
「分かった」
短く返す。
若者はまだ睨んでいる。
だが拳はもう握っていない。
「……変態野郎が」
最後に小さく吐き捨てて、
背を向ける。
足音が遠ざかる。
静かな朝が戻る。
俺は空を見上げる。
「……恋か」
小さく呟く。
一瞬だけ、
遠い記憶がよぎる。
火のそばで笑っていた影。
すぐに消える。
「……若いな」
そう言って、
礼拝堂へ戻った。




