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第57話:火の名


神父は、壁際の衣装棚を開いた。


「まずは……これを」


質素な麻のシャツ。

少し大きめの上着。

革の紐で締める簡素なズボン。


「村の若者の予備でございます。今はこれで……」


「助かる」


俺は手早く身に着ける。


布の感触。

重さ。

擦れる音。


久々に肉体で――生きている。


それを、ようやく実感する。


神父は目を伏せたまま言った。


「部屋は隣をお使いくだされ。しばらくは、身を隠す形に」


「隠す?」


「村は狭いので、噂はすぐに広がります」


俺は小さく鼻で笑った。


「もう十分広がってるだろ?」


神父は否定しなかった。


「……まずは、落ち着かせねばなりませぬ」


扉が開く。


礼拝堂の空気が、また肌を撫でる。


壇上の光は、もう静かだ。


シスター・ミレナは、

まだそこにいた。


祈りの姿勢のままではない。

だが、落ち着ききれてもいない。


俺と目が合う。


一瞬、肩が跳ねる。


だが、逃げない。


俺は、ゆっくりと歩み寄った。


距離を詰めすぎない。


石像の前で、立ち止まる。


そして――

頭を下げた。


「さっきは驚かせて、すまなかった」


静かな声。


謝罪だ。


礼拝堂に、

余計な音はない。


ミレナは、固まったままだった。


「……ぇ」


小さな声。


「……その……」


視線が泳ぐ。


だが、

今度は逃げなかった。


「……こちらこそ、取り乱して……」


「いや、あれは叫ぶ」


少しだけ間が空く。


彼女の口元が、ほんのわずかに緩む。


すぐに引き締める。


「……貴方様は神ではないのですか?」


真正面からの問い。


俺は、石像を見る。

槍を掲げた姿。


炎の装飾。


そして、名。


「違う」


はっきりと答える。


「俺はエアだ」


沈黙。


ミレナは、その名を小さく反復する。


「……エア様」


「様はやめろ」


即答。

彼女は困った顔をする。


「ですが……神父様が」


「神父は神父だ。俺は俺だ」


一歩だけ、石像に近づく。


指先で、石の炎の装飾を軽く叩く。


「これは……俺じゃない」


ミレナは、黙って聞いている。


「でも」


少しだけ視線を落とす。


「火は、嫌いじゃないな」


その言葉に、

彼女の目がわずかに揺れた。


「……さきほどの光は」


躊躇いながら言う。


「温かかったのです。

 まるで天気の良い日の太陽のように」


俺は、何も言わない。


礼拝堂の窓から、

朝の光が差し込む。


静かな村の音。


まだ、

何も壊れていない。


「すまないが……少し世話になる」


ミレナは、ゆっくりと頷いた。


まだ戸惑いはある。


だが、恐怖はもうない。


それだけで十分だった。


―――――


夜は、早い。


辺境の村は、

日が沈めば静かになる。


礼拝堂の奥、

小さな食卓。


木の机。

三つの椅子。


質素な煮込み。

黒パン。

水差し。


神父が座り、

ミレナが皿を並べる。


俺は、黙ってそれを手伝っていた。


「重いだろ?」


「……あ、ありがとうございます」


ぎこちない空気。


昼の出来事は、

まだ完全には消えていない。


蝋燭台が、机の中央に置かれる。


細い芯が、

闇の中で静かに立っている。


ミレナが言う。


「火を取ってまいります」


厨房の方へ向かおうとする。


「いや、いい」


俺はそれを止めて、指を伸ばした。


――軽く指を弾く。


ただ、そこに。

ぽ、と。


火が灯る。


芯の先に、

淡い橙色。


揺れる。


自然に。


何事もなかったかのように。


沈黙。


椅子が、ぎし、と鳴る。


神父の手が止まる。


ミレナは、

一歩踏み出したまま、固まっていた。


「……ん? なんだ?」


誰も、すぐには言葉を出さない。


火は、

静かに揺れている。


神父の喉が、ゆっくりと鳴る。


「……今のは」


俺は手を振って指の火を消す。


「火が欲しかっただけだが?」


神父は、立ち上がらない。

だが、目は逸らさない。


「神よ……詠唱は?」


「詠唱?」


「媒介は?」


「何だそれは?」


空気が、張る。

ミレナの声が震える。


「……それは……神の奇跡でございますか?」


俺は、蝋燭の火を見る。

小さな光。

温かい。


「違う」


はっきり言う。


「ただの火だが?……できないのか?」


神父の喉が、もう一度鳴った。


「……できませぬ」


はっきりと。


「そのように火を起こすには、詠唱と構築が必要です」


「構築?」


「はい。術式を組み、古代の言葉を用いて、媒介を通し、言葉で世界に願いを届ける」


俺は眉をひそめる。


「願う?」


「……はい」


ミレナが、震える声で続ける。


「火の精霊に、形を与えていただくのです」


俺は、蝋燭の火を見た。


小さい。

だが、確かにそこにある。


「願ってないが?」


指をもう一度、軽く弾く。


ぽ、と。


今度は指先に、小さな火が生まれる。


熱はある。

だが、暴れない。


神父が、立ち上がった。


椅子が倒れかける。


「……詠唱なしで、指先に顕現……」


「だから、それが何だ」


火を握る。


握っても消えない。


俺は、軽く吹き消した。


「火は火だろ?」


沈黙が、重くなる。


神父は、ゆっくりと首を振った。


「いいえ……それは」


声がかすれる。


「ありえぬのです」


ミレナが、一歩後ずさる。


「……詠唱なき顕現は、古代の奇跡……」


「古代?」


「伝承でしか、残っておりませぬ」


神父の目が、俺を見る。

敬意と、恐れと、理解不能が混じった視線。


俺は自然に答える。


「火が欲しければ、火を起こす。それだけだ」


神父は、黙る。


その言葉が、あまりにも単純だったからだ。


「ナハトも出来たが?……本当に、この時代の者はできないのか?」


神父の喉が、もう一度鳴った。


「……ナハト、と仰いましたな?」


俺は、蝋燭の火を見たまま答える。


「ああ。ナハトだ」


その名を聞いた瞬間、

神父とミレナの表情が変わった。


驚愕。

理解。

そして――恐れ。


「……ナトル神……」


ミレナが、かすれた声で呟く。


俺は眉を寄せる。


「ナトル?」


神父が、震える声で言う。


「夜に火を抱いた二番目の神。

 闇を裂き、最初の焔を灯した守護神の子……」


「……」


「絶対神エンラの御子にして、

 夜の神、ナトル」


静寂。


俺は、ゆっくりと息を吐く。


「……違う」


はっきりと言う。


「ナハトだ」


神父は顔を上げる。


「で、ですが……古き聖典にはそう記されております」


「書き間違えただけか……リヒトはどうなってる? 長男だ」


静かな問い。


だが――

神父の表情が、さらに強張った。


「……リヒト、と……?」


ミレナが息を呑む。


神父は、ゆっくりと答えた。


「もしや、昼の神、リクト」


「……昼の神? リクト?」


「はい」


震える声。


「黎明を告げ、

 人を導き、進む道を照らす御子」


俺は、黙る。


「導きの光を司る神……リクト」


沈黙。


蝋燭の火が、

わずかに揺れる。


俺は、小さく息を吐いた。


「……導き?」


「はい」


神父は頷く。


「人を迷いから救う光。

 戦場にあっては進む道を示し、

 暗闇にあっては進む勇気を灯す神」


俺は、目を細める。


「違う」


短く断言する。


「ただ、前を見ていただけだ」


静寂。


「……前を?」


「あいつは、立ち止まらなかった。

 迷っても、歩いた」


蝋燭を指で軽く回す。


「だから、皆がついていった。

 それだけだ」


神父の呼吸が、浅くなる。


「……ではその方は」


俺は鼻で笑う。


「息子だ」


言葉が、落ちる。


重く。


「昼の神でも、導きの光でもない」


静かに言う。


「ただ、俺の息子で長男だ」


沈黙。


ミレナの目に、

混乱と、何かが崩れる気配。


神父は、震える手で床を握った。


「……では、ナトル神も……」


「ナハトだ」


はっきりと言う。


「リヒトは昼に立ち、家族を守り。

 ナハトは夜に立ち、村を守った」


部屋の空気が、張りつめる。


神父の視線が、

石像を越え、

俺へ戻る。


「……我らは」


かすれた声。


「何を、崇めてきたのでしょう」


俺は、蝋燭を見る。


小さい。

だが、確かに燃えている。


「さぁな……ここにあるのは、ただの火だ」


短く言う。


「崇めるな……」


神父が、顔を上げる。


「使え……」


火は、進むためのものだ。

守るためのものだ。


それだけだ。


誰も、すぐには言葉を返せなかった。


蝋燭の火が、

わずかに強く揺れる。


その瞬間――


礼拝堂の奥、

壁に刻まれた古い紋章が、

一瞬だけ、淡く光った。


誰も、気づかないほどの微かな輝き。


だが――世界は、


確かに、反応していた。

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