第56話:辺境の教会
辺境の村、とある教会。
朝の祈りは、
誰にも邪魔されない時間のはずだった。
石造りの礼拝堂は静かで、
天井の高窓から差す光だけが、
壇上を白く照らしている。
シスター・ミレナは、
神の石像の前で膝をついていた。
両手を組み、
目を閉じ、
ゆっくりと祈りを捧げる。
「絶対神エンラよ。
火と導きの主よ。
どうか、我らをお守りください」
石像は、
槍を掲げた姿をしている。
優しくも、
厳しい顔立ち。
炎を象った装飾が、
背後に彫られている。
その時だった。
空気が、
わずかに震えた。
祈りの最中に、
感じたことのない感覚。
熱いのに、
苦しくない。
優しい。
胸の奥が、
じんわりと温まる。
(……加護?)
鼓動が早まる。
壇上の光が、
強くなる。
ミレナは、
目を閉じたまま、
そっと息を吸う。
光が一点に集まる。
そして――音もなく、
“何か”がそこに立った。
「ん?」
男の声。
(……まさか……神、よ?)
ゆっくりと、
目を開ける。
石像の前。
壇上。
そこに……裸の男が……。
数秒、
思考が停止する。
視線が、
下に落ちる。
固まる。
完全に。
一拍。
二拍。
三拍。
「………………」
息を吸う。
肺が、
限界まで膨らむ。
「きゃあああああああああああああああああああ!!!!」
教会に絶叫が響き渡った。
―――――
俺は、
石の壇上に立っていた。
「……ん?」
目の前には、
シスターらしき女が膝をつき、
祈りを向けている。
(……出迎えか?)
状況を理解する前に……
絶叫が響き渡る。
すぐに足音。
扉が開く。
男たちが飛び込んでくる。
「何事だ!?」
「な……っ!?」
「貴様……!?」
「不敬者だ!!」
一人の男が、
こちらを指差す。
視線を向ける。
背後に、石像。
槍を掲げた姿。
炎の装飾。
刻まれた名。
――絶対神エンラ。
「……エンラ?」
小さく呟く。
石像の顔。
少し……似ている。
「……俺?」
その瞬間。
「捕らえろ!!」
「背教者か!?」
壇上から引きずり降ろされる。
槍を向けられる。
布を投げられる。
取り押さえられる。
「ちょ!? ちょっと待て!?」
説明する暇はなかった。
―――――
数十分後。
石造りの小さな牢。
鉄格子。
冷たい床。
俺は胡坐をかいて座っていた。
「……初日からか」
遠くで、
まだ騒ぎが続いている。
絶対神の石像の前に、
全裸の男。
しかも――シスターの目の前で。
「……そりゃ、こうなるわな」
静かに息を吐く。
神話を壊す。
その第一歩は。
――自分が、全裸の変質者として牢に入ることだった。
―――――
廊下の向こうから、
慌ただしい足音が聞こえた。
「どこじゃ!? その男はどこにおる!?」
老いた声。
だが、
ただの老人ではなさそうだ。
衛兵が慌てる。
「リガルド神父様!?」
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
白髪の老神父が、
法衣を揺らして駆けてくる。
杖を鳴らし、
鉄格子の前に立った。
そして――
中の俺を見る。
「……?」
「……ぉお」
一瞬だけ、
目が見開かれる。
だがすぐに、
深く頭を垂れた。
床に膝をつく。
衛兵が凍りつく。
「し、神父様!?」
神父は震える声で言った。
「何という無礼を……!」
杖で床を打つ。
「この御方を変質者呼ばわりとは何事か!!」
「えっ!? い、いや……だって全裸で……」
「黙れ!!」
礼拝堂に響く怒声。
「お前たちに、この御方の何が分かる!」
衛兵たちは顔を見合わせる。
「……でも神父様、シスターの前に全裸ですよ?」
「だからこそじゃ!」
衛兵たちは理由もわからず顔を見合わせた。
それとは反対に、神父の声は、
怒りと……恐れを含んでいた。
「今すぐ開けよ!
責任は、すべて儂が取る!!!」
衛兵が小声でぼやく。
「……ほんと、朝から勘弁してくれよ」
鍵束を探す。
がちゃがちゃと音が鳴る。
「ほら、開けますから……
神父様が引き取るんですよ? 聞きましたからね?」
鉄格子が開く。
「二度と騒ぎは起こすなよ、変態」
「……努力する」
立ち上がる。
神父は、
俺を見上げた。
その目は、
恐怖でも軽視でもない。
――敬意。
だが、声は震えている。
(何か知ってるな?……この爺さん)
「……どうか、こちらへ」
小さく囁く。
「詳しいことは、奥で」
衛兵たちは、
まだ納得していない顔をしている。
だが、
神父の威厳の前では黙るしかない。
俺は歩き出す。
神父が隣に並ぶ。
声を落とす。
「……さきほど、夢告を受けました」
足を止めないまま。
「迎えよ、と」
その手は、
かすかに震えていた。
「どうか……我らを、導いてくだされ」
その言葉には、
芝居はない。
本気だ。
―――――
外に出ると、
朝の空気が頬を撫でた。
石畳ではない。
踏みしめるのは、
踏み固められただけの土。
所々に石が転がり、
草が顔を出している。
建物は木造がほとんどだ。
板を打ち付けただけの壁。
簡素な屋根。
煙突から細く煙が上がっている。
遠くで鶏が鳴いた。
井戸のそばで、
女が水を汲んでいる。
子供が、
裸足で走っている。
辺境の村。
文明はある。
だが、豊かとは言えない。
「……」
神父は一度だけ、
周囲を見回した。
俺に視線を戻す。
「こちらへ」
歩き出す。
俺は、
その背を追った。
さきほどまでいた教会に戻る。
木の扉が軋む音。
中は静かだ。
礼拝堂の壇上には、
変わらずエンラの石像。
そして――シスターが立っていた。
神父を見る。
「神父様、おかえりなさ――」
言葉が止まる。
俺を見る。
視線が合う。
一瞬。
朝の祈り。
光。
全裸。
記憶が蘇る。
顔が赤くなる。
だが、
今度は悲鳴は上げない。
「ぁ……ッぅぅ」
目が泳ぐ。
気まずい。
俺も目を逸らす。
「さっきは……すまん」
小声。
沈黙。
神父が咳払いをする。
「ミレナよ」
厳しくも、静かな声。
「この御方に対する態度は、慎みなさい」
「……は、はい」
ミレナは深く頭を下げる。
だが、
困惑は消えていない。
当然だ。
誰もいない教会、神の石像の前に、全裸男が出現。
説明が追いつくはずがない。
神父は振り返る。
「奥へ」
礼拝堂の脇。
小さな扉。
司祭室だろう。
扉を開ける。
簡素な机。
本棚。
燭台。
窓から入る光が、
埃を浮かび上がらせる。
神父は扉を閉めた。
静寂。
ゆっくりと振り返る。
そして――
今度は、深く膝をついた。
神父は、額が床につくほど深く頭を下げている。
「……お迎えが遅れ、申し訳ございませぬ」
「待て待て待て待て……そうかしこまらないでくれ」
俺は手を振る。
「夢告って言ってたな、爺さん?」
神父が、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、
恐れもある。
だが、それ以上に――確信があった。
「あなた様は……」
一拍、息を吸う。
「……エンラ様、でございますか?」
俺は、即座に首を振った。
「違う」
神父の眉が、わずかに動く。
「俺の名はエアだ」
静かに、はっきりと告げる。
「それより、さっきの質問だ。
なぜ俺を迎えに来た?
何を知っている?」
一瞬、空気が張る。
神父は慌てて再び頭を下げた。
「し、失礼いたしました!!」
杖を握る手が震える。
「夢告でございます。
先ほど……はっきりと」
神父はゆっくりと語り始める。
「白き聖域にて、
光の中から声が響きました」
(ルクナスか……)
「“目を開けよ。
真なる火は戻る。
迎えよ”と」
神父の声は震えているが、
言葉は迷いがない。
「そして、こう告げられました」
深く息を吸う。
「“エンラに似て非なる者。
だが火の本質を知る者”」
俺は、目を細める。
「似て非なる、か」
神父は頷く。
「絶対神エンラの名を騙る者ではない。
だが、神話を正す者だと」
「……他には?」
神父は一瞬、言葉をためらう。
だが、覚悟を決めたように続ける。
「“神を崇めるな。
火を崇め。
名を振りかざすな。
意味を問え”と」
室内の空気が、わずかに変わる。
それは――今まで俺がしてきたことと少し似ていた。
崇めるな。
隣に立ち、火を守れ。
家族を守れ。
「っふ……」
俺が笑ったのを見て、神父は肩を震わせた。
そして、さっきと違い声が小さくなる。
「正直に申し上げます。
これは……危うい御告げです」
「危うい?」
神父の言葉に首を傾げた。
「わしが若ければ、異端と断じたかもしれませぬ」
俺は、黙って聞く。
「ですが」
神父は真っ直ぐに俺を見る。
「今朝、シスターから壇上が光ったと報告を受け、
胸の奥が……同じ温度で震えました」
ゆっくりと言う。
「わしは、信じることにいたしました」
沈黙。
俺は腕を組む。
「つまり」
少し皮肉を込めて言う。
「俺がエンラじゃないって分かった上で、
お告げ通り、迎えに来たわけだ」
「はい」
迷いなく頷く。
「あなた様が神かどうかは、問題ではない」
「……ほう?」
「この世界が、歪み始めている。
それだけは、わしにも分かるのです」
その言葉に、少しだけ本気が混じる。
俺は眉をひそめた。
「歪み?」
神父はすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
子供の笑い声。
鶏の鳴き声。
煙の匂い。
どこにでもある、朝だ。
神父は、ゆっくりと胸に手を当てた。
「祈りの重さです」
俺は黙る。
「昔はもっと……願いのようなものだった」
目を閉じる。
「救われ、救い。
守り、守られ。
それだけでよかった」
一拍。
「ですが……今は違う」
静かに続ける。
「正しさを求める祈りが増えました」
「正しさ?」
「ええ」
顔を上げる。
「誰が正しいのか。
どの言葉が正しいのか。
どの形が正しいのか」
俺は鼻で笑う。
「面倒だな」
「はい」
神父も、かすかに笑った。
「表向きは、平穏でございます」
言葉を切る。
「人は……正しさを武器にしてしまいます」
部屋の空気が、わずかに重くなる。
「火は、暖をとるためのもの……」
神父の声は静かだ。
「今は――掲げるためのものになりつつある」
俺は腕を組んだ。
「……それで俺か?」
「分かりませぬ」
神父は正直に答えた。
「ただ」
目をまっすぐに向ける。
「あなた様が現れた時、光……」
小さく息を吸う。
「それは……誰かを裁く光ではなかったのでしょう?」
沈黙。
「温かかったと、ミレナは言っておりました……」
俺は少しだけ視線を逸らす。
「……そうか」
「わしは、それを信じただけでございます」
未来も知らない。
戦も知らない。
ただ、
空気が変わりつつあることだけは分かる。
「だから迎えたのです」
神父はそう言った。
俺は小さく笑う。
「随分と勘のいい爺さんだな?」
「長く生きておりますゆえ」
外で、また子供が笑った。
この村はまだ平和だ。
だが、それは、いつかどこかで何かが少しだけ、
噛み合わなくなっている。
それだけは確かだった。




