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第51話:静かな朝の終焉


あれから、

静かな朝はちゃんと来ていた。


夜が終わり、昼が戻る。

それだけで、胸の奥が静かになる。


村の外れで、水が流れている。


俺が引いた溝だ。

深くはない。

だが、止まらない。


水は、欲張らない方がいい。

流れれば、それでいい。


狼族たちが、掘りを手伝っていた。

人の姿、動きは獣だが。


力強く、無駄がない。

疲れを顔に出さない。

言葉も、要らない。


「……助かる」


言うと、短く鼻を鳴らした。


返事だ。


―――――


木札は、もう配り終えている。


ここの皆と同じ。

厚みも、形も。


区別はしない。

区別すると、必ず歪む。


名は、呼ぶためのものだ。

縛るためじゃない。


呼ばれて、返せる。

それで十分だ。


狼たちは、

それぞれの名を受け取った。


村の言葉。

あるいは、

喉の奥で鳴らす音。


どちらでもいい。


名を持つというのは、

ここに「戻る」理由を持つことだ。


―――――


リヒトが、昼に立っている。


槍を持ち、

視線を遠くへ。


その隣に、

一匹の狼族がいた。


距離は、近い。

だが、触れない。


声も、ない。


同じ方向を見ている。


「あれは……」


俺は、ナハトにだけ聞こえる声で言った。


「西の地で、俺といたやつだな」


リヒトは、

視線を動かさない。


だが、

立ち位置が、ほんの少しだけ寄った。


「やっぱ……俺の息子ってことか……」


口にしてから、

少しだけ昔を思い出した。


俺も、そうだった……。


「……?」


ナハトはよく分かってないが、

いずれ答えが出るだろう。


俺が爺ちゃんになる前ぐらいに……。


―――――


畑は、広がり始めている。


土を返し、

種を並べる。


狼族が、黙って並ぶ。


誰が指示したわけでもない。


足りないところに、

手が出る。


それだけだ。


人口が増えた。


だが、

重くはなっていない。


まだ、釣り合っている。


畑仕事が一区切りついた頃。


「ナハト! エア!」


ミアの声だ。


家の方から。


「ごはん、だぞ〜!」


火の匂いがする。


ちゃんとした生活の匂いだ。


「よし、飯だ飯」


ナハトに言う。


「やっとかぁ~、腹減った〜」


ナハトは、道具を置いて、

それから歩き出した。


―――――


夜。


一人になって、

森を見る。


風が、揺れる。


だが、影はこない。


俺以外にも夜を見張る目が増えた。


森の民と狼族が、

当たり前のように組んでいる。


声はない。

合図だけだ。


それで足りる。


俺は、

火のそばに腰を下ろす。


槍は、

手の届くところにある。


だが、

握らない。


今は、

立たなくていい。


夜は、

ちゃんと回っている。


村は、

眠っている。


俺は、

その様子を見ているだけだ。


「悪くない……いや、十分すぎる」


こういう時間を、

守るために生きてきた。


たぶん、

これでいい。


火が、

静かに鳴った。


俺は、

それを見ていた。


―――――


西は、静かになっていた。


かつては、

風の音に混じって足音があり、

雪を踏む軌跡があり、

遠吠えが、夜を区切っていた。


だが今は――それらが、ない。


群れを率いていた存在がいた。

母と呼ばれ、

名を持たず、

それでも皆が従っていた者。


力ではない。

判断でもない。


ただ、

「そこに立っていた」。


だが、

そこにはもう何もない。


雪の上に残るのは、

爪痕でも、血でもない。


空白だ。


欠け落ちた跡。


中心に残ったのは、

一つだけ。


大きくなった影。

荒れてはいない。

吠えも、怒りもない。


ただ――大きく肥大化した者。


呼吸が遅く、

視線は定まらず、

身体の内側だけが膨らんでいる。


それは、喰った。


群れを。

母を。

順番も、理由もなく。


喰われる側は、

分かっていた。


もう戻れないと。


それでも、

満たされない。


埋まらない。


広がるのは、

力ではなく――欠落。


飢えでもない。

復讐でもない。


ただ、

中身が抜け落ちたまま、

大きくなり続けている。


口が、わずかに動く。


音にならない。

言葉にもならない。


それでも、

僅かに“意思”だけが残っていた。


『……たりない……』


何が、とは分からない。

だが、

ここには、もう無い。


白い大地の向こう。

雪の外。

境界の先。


“向き”だけが、

残っていた。


―――――


それを見ても。


干渉はしない。

出来ない。

触れられない。


ただ、

結果だけを見る立場。


沈黙のあと、

小さく息を吐いた。


「これは……まずそうだ……」


その声は、

誰にも届かない。


だが――歯車は、確実に回り始めていた。


―――――


その日、夜がずれた。


音もなく。

風もなく。


村の中央。


石の柱が、淡く光った。


強くはない。

呼び鈴みたいな光だ。


俺は、すぐ分かった。


「ルクナス?……」


槍を置き、

柱の前に立つ。


触れる前から、

胸の奥が、わずかに重くなる。


右手を伸ばす。


――触れた瞬間。


視界が、ほどけた。


「……やあ」


近い。

だが、そこにはいない声。


「久しぶり、エア」


軽い。

いつも通りの調子。


「……用件は?」


短く言う。


「あるから呼んだんだよ?

 相変わらず冷たいなぁ」


珍しく、

間を挟まない。


「西から来ている」


その一言で、

胸の奥が冷えた。


「西?」


分かる言い方を、

選んでいる。


「虚飾に侵された個体だ……しかも」


軽い声が、

ほんのわずかだけ沈む。


「本来、あり得ない形でね」


俺は、何も言わない。


「影、虚飾は知っての通り、生きてる“器”には寄生できない」


知っている。

奴らは死体にしか宿らない。


「だけど今回は、抜け道を通ったらしい」


視界の奥で、

何かが組み上がる感覚。


「君が西で倒した個体、覚えてる?」


「……ああ」


「あれは完全には消えてない」


言葉を選んでいる。

珍しく。


「そして、逃げ延びた変質の根源、彼ら狼族に力を与えたあの植物……」


胸の奥が、嫌な音を立てる。


「全部燃やしたはずだ……」


「確かに、器はね?」


だが――と、

声が続く。


「燃え尽きる寸前、自らの核を撃ち出して逃げたみたいだ……

 そしてそれを“喰った”個体がいる」


「……狼族か」


「そう、しかも群れを率いていた個体だ」


俺は、

拳を握った。


「器としては、生きてる。

 だがあれの中身は、影に近い」


淡々とした説明。

だが、どこか焦りが混じる。


「結果として、今そいつは影でも生物でもない」


「……歪に欠けた存在、ってとこか」


「うん」


即答だった。


「怒りも、目的も、復讐もない。

 ただ……足りない何かを求めている」


胸の奥が、

冷える。


「満たせるものが、どこにあるか……理由もなく“分かってしまう”」


俺は、

視線を落とした。


「……俺の村か」


否定はなかった。


「そう、純粋な魂が生まれ、健やかに育つ場所……虚飾はそれを食らうために動く」


「来るのか」


少しの間。


「もう、動き出してる。逃げ延びた個体もいる」


「逃げた?」


「欠けた存在は、命あるものは全てを喰らう……

 それが……かつて自分がいた場所であったとしても……」


「……」


俺は言葉が、

続かなかった。


胸の奥に、

別の感覚が浮かぶ。


怒りじゃない。

恐怖でもない。


――哀れみだ。


群れを率いていた個体。

母と呼ばれていた存在。

ただ、そこに立っていた者。


俺は、

あの姿を知っている。


本能のまま力を振るう獣の長。

だがその姿勢には、一種の誇りのようなものを感じていた。


「……俺が」


視線が、

自然と下がる。


「……あの時」


低く、

独り言みたいに漏れた。


「ちゃんと、終わらせてやるべきだったのかもしれないな……」


ルクナスは、すぐには答えなかった。


俺の中で、

あの光景が蘇る。


西の崖。

雪。

割れた地面。


最後の一撃。


俺の槍が、

確かに――届いた。


身体が吹き飛び、

それでも、立っていた戦士。


その瞬間、

崖が崩れた。


音もなく。

抵抗もなく。


奈落へ、

落ちていった。


「……生き延びた、とは言えない」


俺は、

静かに言った。


「死なせてもやれなかった……」


それは、

自分への言葉だ。


「結果として……苦しませただけだ」


少し間があって、

ルクナスが言った。


「君は……優しいね」


即答じゃない。

だが、否定ははっきりしていた。


「でもね」


続けて、

静かに。


「“終わらせられなかった”って感覚を、

 君が覚えてること自体が……僕は嬉しいよ」


俺は、

鼻で短く息を吐いた。


「……褒めてるのか?」


「褒めてる、とは、ちがうかな……だが君が誇らしい」


軽い声。

けれど、

いつもより柔らかい。


「ただの事実さ」


少しの沈黙。


「欠けた存在は、痛みも、後悔も、意味も――全部、残らない」


「残るのは、“足りない”感覚だけか……」


「ある意味救いだろうね、復讐心も何もないんだから」


胸の奥で、

何かが、きしんだ。


「……それでも」


俺は言った。


「向こうが来るなら、俺は、迎える」


構えない。

逃げない。


ルクナスが、

少しだけ息を呑む気配。


「……救えると思うかい?」


「分からない」


正直に言った。


「だが……俺は守る側を選ぶ」


「……守る」


「村を、ここにいる命を」


そして――言葉を、選ぶ。


「……あいつも、だ」


ルクナスは、

すぐには返さなかった。


視界が、

ゆっくりと戻り始める。


最後に、

ひとことだけ。


「……君は、やっぱり」


軽く、

でも確かに。


「……そっくりだ」


―――――


光が消える。


石の冷たさが、

掌に戻る。


夜の空気が、

肌に触れる。


その時、村の外れで。


森の境で。


低く、

掠れた鳴き声がした。


威嚇じゃない。

怒りでもない。


“呼ぶ”音。


俺は、

槍を取った。


構えない。


ただ、

歩き出す。


「……今度は」


小さく、

呟いた。


「逃がさない」


それは、

殺すための言葉じゃない。


――守るための、覚悟だった。

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