第46話:失敗作
―――光が、ほどけた。
押し戻されるような感覚はない。
引き剥がされる痛みもない。
気づけば、雪の上に立っていた。
冷気。
足裏の感触。
重さ。
「……戻された、か」
「ギョワ……?」
ダックが、すぐ横にいる。
低く鳴き、こちらを見る。
狼もいる。
少し離れた場所で、動かずに。
何も起きていない。
少なくとも、表向きは。
――その瞬間だった。
視界が、ずれた。
体は動かない。
首も、目も、動かしていない。
なのに、
見ている“位置”だけが、前へ引かれる。
「なッ?」
感覚が、抜ける。
風を切る音もない。
羽ばたきもない。
だが、速い。
雪原が、下に流れる。
岩肌が、線になる。
起伏が、地図みたいに縮んでいく。
(……鳥、みたいだ)
思っただけで、移動が止まらない。
狼の群れが見えた。
点のように小さく、散らばっている。
血の跡。
雪に刻まれた、古い線。
それらを越えて、
さらに――奥へ。
山が、迫る。
頂じゃない。
側面だ。
岩が割れ、
自然にできたとは思えないほど、
深く裂けた亀裂。
そこで、視界が止まった。
吸い込まれる。
奥へ。
雪は、途中で消える。
音もなく、闇に落ちていく。
風が、逆に流れている。
奥に――
何かが、ある。
暗い。
だが、完全な闇じゃない。
根のような影。
絡み合い、
ゆっくりと脈を打つもの。
何かが――生きている。
(……ここ、か)
次の瞬間。
視界が、引き戻された。
一気に。
乱暴に。
雪。
空。
冷気。
膝が、わずかに揺れる。
「……っ」
息を整える。
「ギョギョ?」
ダックが、すぐ横で立ち止まっている。
狼も、こちらを見ている。
何も言わない。
何もしてこない。
だが、
同じ方向を見ていた。
山の側面。
さっき、視界が止まった場所。
俺は、そこを見る。
「……行けってことか」
俺は、ダックの首を叩いた。
「行くぞ」
ダックが、低く鳴く。
狼が、一歩、前に出た。
敵意はない。
だが、従属でもない。
ただ――
ついてくる気配。
振り返らない。
目的地は、もう見えた。
山の亀裂。
あの奥にある“失敗作”。
それを、何とかしろ。
――そう言われた。
なら、やる。
燃やし尽くさずに。
命を、道具にさせないやり方で。
雪を蹴り、
ダックが走り出す。
狼も、動き出した。
同じ方向へ。
この山は、
まだ、血を欲しがっている。
だが――
それを決めるのは、
俺じゃない。
ーーーーー
雪が、踏み固められている。
自然な道じゃない。
獣の通り道だ。
山の亀裂へ続く斜面の手前、
岩と岩の間に、集まった気配があった。
集落とも言えない。
だが集っている。
柵はない。
壁もない。
ただ、岩の配置と、
踏み荒らされた雪が、
「ここから先は通すな」と語っている。
狼たちだ。
十数。
いや、もっといる。
立っている。
座っている。
伏せている。
だが――全員、こちらを見ている。
牙を見せる者もいる。
唸る声が、低く重なる。
(……避けられないな)
ダックが、一歩前に出る。
それだけで、
空気が弾けた。
最初に動いたのは、向こうだった。
雪を蹴り、
岩を踏み、
影が一斉に広がる。
速い。
数が多い。
躊躇がない。
「ッチ……問答無用か」
「ッギョワ!」
ダックが、低く鳴いた。
合図はない。
俺は槍を握り直し、
前に出る。
――跳んできた。
正面。
左。
背後。
ダックが跳ねた。
前脚で蹴り飛ばす。
骨のある音。
狼が宙を舞い、
岩に叩きつけられる。
同時に、
嘴が伸びる。
噛みつく。
首根っこ。
振り回し、
投げる。
雪に叩き落とされ、
転がる。
「ギャッ――!」
次。
俺は突かない。
振る。
柄で殴る。
腹。
肩。
脚。
鈍い衝撃。
倒れる。
だが――息はある。
立ち上がろうとする。
(……)
殺せば、楽だ。
立ち上がらない。
二度と、来ない。
火を使えば、
一瞬で終わる。
(……違う)
だが、拒んだ。
次が来る。
牙が迫る。
俺は、燃やすための火を噴かない。
熱だけを押し出す。
目の前で、空気が歪む。
狼が目を閉じ、
方向を失う。
叩く。
倒す。
ダックが横から突っ込む。
体当たり。
雪が弾ける。
嘴で掴み、
放る。
何度も。
何度も。
雪の上に、
倒れた狼が増えていく。
息はある。
呻き声もある。
だが――
誰も、死んでいない。
(……馬鹿だ)
頭の奥で、
声がした。
殺せばいい。
燃やせばいい。
なのに……
俺は、それを選ばない。
(知恵があるから……か……)
いや違う、言い訳だ。
(……確かに、俺はためらってる……)
理由は、
分かっている。
雪の中で、
唸っていた獣。
追ってきた背中。
助けた、あの一匹。
同じ目だ。
敵意だけじゃない。
恐怖と、混乱と、
それでも立ち向かう意思。
――それを、
見てしまった。
だから、
俺はこいつらの“敵”になってはいけない。
そう、心の奥から声が聞こえた。
(まだ来るか……)
数は減らない。
倒しても、
倒しても。
群れが、
距離を詰める。
円になる。
逃げ道が、消える。
ダックが俺の横に立つ。
短い翼を広げ、
低く唸る。
俺は、息を整えた。
倒せない。
だが、倒されない。
拮抗。
そのとき――
空気が、変わった。
雪を踏み砕く音。
重い。
一歩ごとに、
地面が沈む。
狼たちが、
道を開ける。
静まり返る。
出てきた。
――でかい。
他とは、明らかに違う。
首。
肩。
胴。
すべてが、
一段階、上だ。
目が合う。
俺を見ている。
群れの中心で、
そいつは、低く吠えた。
「ウォオオオンッ」
命令だ。
“下がれ”。
狼たちが、
半歩、引く。
俺は槍を下げない。
火も、呼ばない。
ただ、
立つ。
(……来るか)
そう思った瞬間、
そいつが、
前に出た。
同時に、こっちも前に出た。
手を上げる。
短く。
「待てっろ…」
背後で、足音が止まる気配。
「ッ!?」
次の瞬間、地面が弾けた。
速い。
距離が一気に潰れる。
火を使う。
燃やさない。
押し出すだけ。
手から放った熱が、空気を叩く。
相手に当たり、爆ぜる音。
衝撃が先に顔にはね返るる。
胸に入った。
骨に響く感触。
肉が揺れたのが分かる。
一瞬、体が止まる。
(……効いてる)
そのまま間合いに踏み込む。
槍を振る。
突かない。
叩く。
石を打つみたいな手応え。
硬い。
弾かれる。
腕に、痺れが残る。
もう一度。
払う。
横から。
毛を削る。
皮膚に当たる。
だが倒れない。
そこで、気づいた。
来ない。
下がらない。
……見ている。
【殺さない】
それを、嗅ぎ取られた。
唸り声が変わる。
低くなる。
喉の奥で鳴る音。
次の突進は、違った。
正面。
逃げ道を塞ぐ踏み込み。
槍を構える。
受ける。
瞬間、手応えが消えた。
嫌な感触。
中で、折れる、衝撃。
体が持ち上がる。
背中から落ちる。
息が抜ける。
肺が鳴る。
「ガハッ」
雪と岩が、視界を殴った。
……立つ。
足に力を入れる。
次が来る。
「クソッ!」
拳を握る。
殴る。
拳に、硬さ。
毛の下の骨。
だが、止まらない。
次の一撃。
腕に、衝撃。
鈍い音。
「ッッッッ!?」
感覚が、遅れて消える。
折られた……。
そして掴まれた……。
持ち上げられる。
地面が遠ざかる。
投げられる。
背中から叩きつけられる。
息が、喉から漏れる。
「ッッッ……ァ!?」
鉄の味。
口の中が、熱い。
立ち上がろうとする。
足が、言うことを聞かない。
視界が揺れる。
「……っ、……?」
目の前に影が、覆いかぶさる。
爪が、振り上げられる。
(ここまでか……)
――その前に。
割り込む気配。
低い唸り声。
近い。
「ゥウウウウ!!」
だが震えている。
それでも、前に出た。
しかし……一声。
「ウォオン」
短い、低い唸り。
「クゥゥ……」
耳が伏せられる。
喉が鳴る。
体が、縮む。
二体まとめて、影が覆う。
終わる――はずだった。
その奥。
足音。
重い。
一歩。
空気が、変わる。
もう一体。
獣の形、だが
少しだけ、大きい。
目が、違う。
(あれは……)
ーーーーー
『……止まれ』
低い唸り。
前に出て、唸る子……
倒れているしらない生き物を庇う。
見慣れない。
形も、匂いも、違う。
視線を戻す。
若い、まだ小さい、そちらへ落ちる。
『……産む数が、減る』
別の唸り。
『ダメだ。弱い生き物を守っている。
ここで、殺す』
爪が、ゆっくりと振り上がる。
『やめと……と言った?』
その爪が、
わずかに――下ろされた。
緊張が、張りついたまま止まる。
その瞬間。
「ピュウッ」
短く、鋭い音。
意味は分からない。
だが――異物。
次の瞬間、
地を這う鳥が動いた。
嘴が伸び、
弱き生き物をくわえる。
雪を蹴り、
一気に距離を取る。
走る。
それを追う影。
裏切り者。
唸りが、弾ける。
『……ッ!!』
怒りが、群れを揺らす。
前に出ていた、
他よりも大きな影が吠えた。
『追え!』
雪が、跳ねる。




