第45話:アンカーの女と、命の勘定
焚き火の炭は、まだ赤を残している。
横になっていた獣が、動いた。
前脚が雪を押す。
後脚が、少し遅れてついてくる。
立ち上がる。
少しよろけるが、倒れない。
「……立てるな?」
それを見て、息をひとつ吐いた。
「なら……大丈夫そうだな」
それ以上は言わない。
残った火を雪で覆う。
じゅっ、と音がして、赤が消えた。
荷をまとめる。
布を畳み、紐を結ぶ。
背に乗る。
「行くぞ」
ダックが低く鳴き、走り出す。
雪が流れる。
岩が遠ざかる。
向きは変えない。
アンカーは、前だ。
――しばらくして。
気配。
風じゃない。
足音でもない。
一定の距離。
同じ速さ。
首だけ、少し動かす。
獣だ。
追ってきている。
だが目が違う。
牙を見せない。
身を低くもしない。
狩る目じゃない。
敵を見る目でもない。
ただ、
こちらを見ている。
前を向いたまま、短く言う。
「……来たいなら」
言葉は、風に溶ける。
「好きにしろ」
減速しない。
合図もしない。
ダックは走り続ける。
アンカーへ。
この土地の歪みへ。
背後の気配は、
消えなかった。
敵意もなく、
迷いもなく。
ただ、
同じ方向へ向かっている。
振り返らない。
もう、
見る必要はない。
ーーーーー
アンカーは、
思っていたよりも静かに、そこにあった。
石の柱。
山の頂に突き刺さるように立ち、
雪も風も、近づくほどに弱まっていく。
「……ここか」
背後の空気が、少しだけ変わった。
狼だ。
ついてきている。
だが、さっきまでと様子が違う。
襲いに来るわけじゃない。
ただ……落ち着きがない。
足取りが乱れ、
意味もなく立ち止まり、
互いの気配に神経を尖らせている。
血の匂いが、濃い……。
古い、
積もったような臭いだ。
(……嫌な場所だ)
理由は分からない。
だが、長く居ていい場所じゃない。
空気が、重い。
何かが、張りついている。
それでも、
俺は前に進む。
目的は、目の前だ。
石の柱に、手を伸ばす。
触れた瞬間――光が、弾けた。
白でも、赤でもない。
火とも違う。
情報が、
一気に流れ込むような感覚。
足元が消える。
重さが抜け、
感覚が引き剥がされる。
(……この感じ)
ルクナスのときと、同じだ。
次に立っていたのは、
場所と呼んでいいのか分からない空間だった。
床も壁も天井もない。
だが、落ちもしない。
そして――そこに、いた。
女の姿をしている。
だが、生き物というより、
作られた彫刻像に近い綺麗さだ。
腕を組み、
こちらを見下ろしている。
表情は、露骨な不機嫌。
「……ちょっと」
声が、響いた。
怒りと、
はっきりした戸惑いが混じっている。
視線が、
俺の足先から顔までをなぞる。
「……あんた」
一瞬、言葉が止まる。
そして、はっきりと。
「なにもの?」
彼女の背後で、
空間が微かに軋んだ。
女の目が、わずかに見開かれる。
「……起動した? ……私が許可してないのに?」
視線が、
鋭く、俺に戻る。
苛立ちと、
ありえないものを見る目。
「……冗談でしょ?」
「ルクナスに言われて来た」
言った瞬間だった。
空気が、変わった。
女の表情が消える。
怒りでも嫌悪でもない。
――“確信”の顔だ。
「……あぁ」
低く、短い声。
次の瞬間、
彼女は笑った。
綺麗で、冷たくて、
一切、感情のない笑み。
「そう……ルクナス」
名前を口にしただけで、
歯の奥が鳴る。
「まだ、生きてたのね。
しかも……相変わらず、
人の計画に土足で踏み込んで」
指が、ぎち、と鳴るほど組まれる。
「ほんと、あの男……視界に入るだけで不快なのよ」
視線がこちらに戻る。
だが、見ているのは“俺”じゃない。
背後にいる“誰か”だ。
「ねえ、知ってる?
私はね、いつか必ず――」
女は溜める。
そしてやっと……。
「あのバカを殺す」
声は静かだ。
冗談の温度は、どこにもない。
「今はやらないけどね……」
唇が、歪む。
「でも、機会が来たら……この手で確実に」
一瞬だけ、
楽しそうに笑った。
「まぁ……そんなことはどうでもいいわ」
ふっと、表情を切り替える。
「で? あいつが、何て言ったの?」
俺は答える。
「ここが、うまく動いてないから見て来い。
自分の担当じゃないから分からないとかなんとか」
女は、短く息を吐いた。
「当然よ、私のアンカーだもの」
歩きながら、
独り言のように続ける。
「っていうか……“基底種”にするのは、まだ先のはず……」
ちらりと、
俺を見る。
「今の段階で“形”を与える計画は、
存在しない……それなのに何故?」
女は俺を観察しながら勝手に何かをブツブツと言っている。
それからようやく、会話のための言葉をこちらに投げる。
「……あんた、随分と都合のいい存在ね?」
値踏みする視線。
「言語理解あり、
形態も安定、
自意識も明瞭」
鼻で笑う。
「ほんと、ムカつく……あいつ勝手に“先”を作る気?」
一歩、距離を詰める。
そして急に興味をなくしたように手を振る。
「でもいいわ――使えるものは、使う主義なの」
指先が、軽く宙を弾く。
「あんた、少し手伝いなさい」
嫌な予感が、はっきりと形になる。
「西のアンカー周辺、見たでしょ?」
答えを待たずに続ける。
「血なまぐさいでしょう? 妙な匂いも……」
当然のことのように言う。
「あれ、処分してほしいのよ」
言葉が、軽い。
あまりにも。
「勝手に増えて、勝手に干渉して、
おかげで観測が、まるで安定しない」
肩をすくめる。
「ほんと困ってるのよ。
これじゃ実験場として、使い物にならないじゃない?」
処分……。
その一言が、
胸の奥で、鈍く鳴った。
「だから、ちゃちゃっと片づけてきなさい」
指先で、空間を示す。
「あんた、見たところ、ルクナスに手を加えられてるみたいだし」
口の端が、わずかに吊り上がる。
「やれるでしょ?」
命を数える声じゃない。
障害物をどかす口調だ。
空間が、静まり返る。
火が、体の奥で、わずかに揺れた。
「……処分?」
低く、噛み直すように言った。
確認だ……。
女は、わずかに眉をひそめた。
「……はぁ?」
一拍置いて、
心底うんざりしたように息を吐く。
「鈍いわね」
言い直す。
声は、さっきよりも冷たい。
「全部始末しろって言ってるのよ」
指を立てる。
「殺せ、ってこと」
言葉を、区切る。
「増えすぎた個体、
干渉してくる要因、
アンカーの観測を邪魔するノイズ」
淡々と並べる。
「全部、消すのよ」
そして、こちらを見る。
「これで、わかる?」
空間が、凍りついた。
火が――燃え上がらない。
逆だ。
すう、と
奥へ沈んでいく。
胸の奥で、
何かが“音を立てずに折れた”。
処分。
始末。
殺せ。
言葉だけが、
妙に明瞭に残る。
雪の中で唸っていた獣。
追ってきた背中。
触れたときの、体温。
そして――息子たちの顔。
重なる。
否定する声は、
まだ出ない。
だが。
もう、この言葉を
聞かなかったことには、できなかった。
火が、走った。
胸の奥から、
抑えきれずに噴き上がる。
「ふざけるなッ!!」
声が、空間を震わせる。
「命を……ッ! なんだと思ってやがる!!」
熱が渦を巻き、
指先から炎が噴き出した。
だが――
「ちょっと」
女の声。
低くも高くもない。
感情の起伏が、まるでない。
「なに勝手なことしてるのよ?」
指が、こちらを向いた。
それだけで――火が消えた。
吹き消された、というより、
“押さえ込まれた”。
内側から、
何かに覆い被さられる感覚。
力が、
抜け落ちる。
(……ッ!?)
奪われた。
胸の奥で、
確かに感じた。
(……押さえつけられてる)
女は、眉一つ動かさない。
「やっぱり……だめかしら?」
独り言のように呟く。
「この状態じゃ言う事聞かなそうだし……
あいつに借りを作るのも、正直しゃくだし……」
女が冷たく俺を見た、
そして冷え切った音で……。
「消しちゃってもいいわよね」
(やばい……)
理屈がわからないが……俺はコイツに勝てない……。
最悪な結末がよぎる……。
だが女が一瞬、上を見る。
「……え?」
何かに、気づいた顔。
「え、は? なによ今更……」
次の瞬間――
女の視線が、わずかに宙へ逸れた。
会話している。
だが、相手の声は聞こえない。
言葉も、波も、届かない。
ただ、
“繋がった”気配だけがある。
数拍。
女は、口元だけで笑った。
「……ふぅん」
指を組む。
「そういうことなら――」
肩をすくめる。
「手を、貸してあげるわ」
耐えきれず、声が出た。
「おい……!」
抑えたままの力。
苛立ちが滲む。
「さっきから、なんなんだ……?」
視線が、戻る。
値踏みする目。
女が、こちらを“使う側”の目で見る。
「いい? 一度だけよ、よく聞きなさい」
前置きもなく、言った。
「あんた夜にバグ――いえ、虚飾が出るのを抑えたいんでしょ?」
(バグ?)
……よく分からないはずの言葉なのにしっくり来た。
「なら」
一歩、近づく。
「私が、何とかしてあげる」
“私が”。
はっきりと、強調する。
肩を竦める。
「正直、癪なのよね、全部あいつの手柄になるの」
視線が、鋭くなる。
「だから、手伝いなさい」
命令でも、依頼でもない。
条件提示。
「はぁ……効率も悪いし、合理的じゃないけど……
処分はしなくてもいいわ。
でも、管理はする」
少し考え、
目を細める。
「……仕方ない、これが私の許せる妥協点よ」
こちらを見る。
「あんた、まず“失敗作”を何とかしなさい」
警戒する間もなく、続ける。
「安心しなさい、生き物じゃない」
一拍。
「植物よ」
胸の奥で、何かが引っかかる。
「……失敗作?」
女は、さも当然のように言った。
「“素体”が勝手に増えたのも、環境に影響を出して、観測を乱してるのも、全部あれのせいよ」
視線が、冷たい。
「放っておくと、もっと面倒になるでしょうし」
次いで――
「それから」
言葉が、続く。
「あんたが、あいつらをまとめなさい」
……狼のことだ。
「殺せとは言ってない」
先回りするように言う。
「私の許可なく勝手に進化したとはいえ、環境適応能力は優秀よ。
少し調整すればまだ使える」
利用。
管理。
調整。
どれも、命を見る言葉じゃない。
「私は直接は触れない。
だから――あんたがやるの」
視線が、突き刺さる。
「うまくやりなさい。
できなければ、その時は私が判断する」
逃げ道は、最初からない。
胸の奥で、
火が、くすぶり続けている。
それでも――
「……分かった」
声が、低く出た。
女は満足そうでもなく、
ただ淡々と頷いた。
「じゃあ、行きなさい」
光が、揺らぐ。
「また来なさい。
成果を、持って」
その言葉だけを残して、
空間が、ほどけていった。




