第43話:火を消す手
俺は、唸る“それ”に近づいた。
ダックの蹴りで、
もう立てない。
身体は石壁にもたれかかっており、
脚も力が入らないらしい。
それでも、
歯を剥いて唸っている。
「ゥゥ……」
声は低い。
だが、割れている。
俺は槍を構え、
穂先に火を灯す。
静かな赤だ。
音はない。
これが――ただの獣なら、ここで終わりだ。
狩りなら、仕留める。
戦いなら、殺す。
迷う理由はない。
……はずだった。
一歩、踏み出して――
止まった。
近い距離、目が合った。
いつもなら何でもない、よくある……。
だが……俺は止まってしまった。
近くで見て、
感じていた違和感がはっきりした。
(……小さい)
他の二体より、
明らかに細い。
肩の幅も、
胸の厚みも足りない。
俺と、同じくらいだ。
(いや……少し、低い)
呼吸が荒い。
吠え声も、
さっきの雄叫びとは違う。
必死に、
“強くあろう”としている音だ。
俺は、息を吐いた。
「……」
火が揺れる。
穂先の赤が、
一瞬だけ弱くなった。
気づいた。
遅すぎるかもしれないが、
確かに――気づいた。
(……まだ、子供だ……)
言葉にはしない。
だが、もう他と同じようには見れなかった。
確かに……
歯を剥き、
唸り、
逃げずにいる。
だが……
それは、
戦士の姿勢じゃない。
守るものを背負うものではない。
役割があるわけでもない……何も知らない目だ。
それでも、今……
立たなきゃいけないと
思い込んでいるだけの目。
「ゥゥゥ……ッ」
唸り声が、少しだけ震えた。
槍を持つ手に、
力が入り直す。
(……刺せば終わる……簡単に)
俺の裏側で(ここで終わらせるべきだ。)
……理屈は、そう言っている。
だが――体が、前に出ない。
俺は、
火を見た。
次に、
そいつを見た。
判断は、
言葉より先に終わっていた。
今の俺は……父親だ。
体は、覚えている。
生き残るために何をすればいいか……でも……。
「無理だな……」
槍を、わずかに下げた。
その姿を見ても、
“それ”は唸るのをやめなかった。
槍は、地面に刺さった。
火が、
雪を溶かし、
蒸気が立つ。
俺は一歩、近寄る。
その時……わずかに、
面影が重なる。
(あ……)
胸の奥が、
ひくりと引きつる。
息子たちじゃない。
もっと前。
ずっと前だ。
最初に、
この世界で向けられた――敵意。
ルゥ。
まだ、
言葉も通じなかった頃。
助けたにも関わらず腕に噛みついてきた。
逃げもしない、
信じてもいない。
怯えと、
怒りと、
覚悟が混ざった視線。
今の、これと同じだ。
(……ったく)
思考が、
勝手に重ねてくる。
(今すぐ槍を持て。刺せ。終わらせろ。)
だが――そんな地点はもう過ぎている。
俺はその叫びを無視して進んだ。
「……ダメだな」
狩りのとき。
戦いのとき。
持ってはいけない感情だ。
迷い。
息子たちの背中と、
ルゥの、あの目が、
同時に浮かぶ。
重なる。
俺は、一歩ずつ踏み出した。
もう決めた。
だから止まらない。
火を解かず進み続ける。
そして手に宿る火を、
むしろ広げる。
炎が、
体の輪郭に沿って立ち上がる。
燃え盛るほどじゃない。
だが、下手に触れれば確実に焼ける。
「ギョワ……」
ダックが低く鳴る。
止めろ、という音だ。
だが――止まらない。
「……試す」
小さく言う。
誰にでもない。
自分にだ。
地面に伏したそれは、
まだ唸っている。
「ゥゥゥ……」
低く、
喉の奥で擦れる音。
歯を見せ、
口角が引き上がり、
目だけが俺を睨む。
足は動かない。
立てない。
逃げられない。
それでも、
降参はしない。
……分かっている。
これは、
最後を理解している唸りだ。
逃げる術も、
勝つ術もない。
それでも……吠えるしかない。
俺は、
ゆっくりと手を伸ばす。
火の距離が縮まる。
熱が、
空気を歪める。
その瞬間、
唸りが変わった。
「ガルルルルル……!」
音が大きくなる。
荒くなる。
必死さが混じる。
恐怖と怒りが、完全に混ざり……、
一緒くたになった声。
それでも、
噛みついてこない。
できない。
ただ、
唸る。
「ガァァッ!!ゥオオオオ……!」
喉が裂けるほどに。
「……そうだ。怖がってもいい……」
近づく。
もう、
牙の届く距離だ。
だが――
手は、止まらない。
指先が、
顔の前を通り過ぎる。
目を、耳を。
そして――頭。
その瞬間。
火が、
消えた。
音もなく。
余韻もなく。
最初から無かったみたいに。
ぽんっと
素手のまま、
俺の手が、
その頭に触れる。
――撫でる。
「ガルルルルルル……ッ!!」
唸りは、止まらない。
むしろ、
さらに荒れる。
だが、
噛みつきもしない。
噛めない。
震えたまま、
抵抗もできず、
ただ声だけを出している。
俺は、
そのまま撫で続ける。
強くもなく、
優しくもなく。
確かめるように。
「……いい子だ……」
言葉は、
理解されなくていい。
ただ、
届けばいい。
「ゥゥ……ゥオォ……」
唸りが、
わずかに変わる。
弱くはならない。
だが、
“同じ音”ではなくなる。
混乱だ。
俺は、
ゆっくりと手を離す。
一歩、下がる。
炎が再び、
体を包む。
距離を置いたまま、
俺はそいつを見る。
「ガル……ル……」
まだ唸っている。
だが、
さっきとは違う。
怒りでも、
恐怖でもない。
理解できないものを、
理解しようとしている音だ。
もう、俺はコイツを殺せないのは分かっている。
だから、火を解いた。
炎の輪郭をほどく。
熱が抜け、
白い息が戻る。
唸りは止まらない。
「ゥゥゥ……ゥ……」
立てない。
ダックの蹴りで、脚がやられている。
それでも、まだ隙があれば噛もうとしている。
生き残るため、必死に……。
「まぁ……そうだろうな……」
ダックの背から、荷を下ろす。
括っていた紐を一本外す。
左手を上げる。
「ダック」
声は低く、短く。
左手を、少し横の岩肌へ落とす。
「……ヒュゥ」
小さく、鋭い口笛。
次の瞬間。
岩肌が、抉れた。
ダックの蹴りだ。
石が砕け、雪に散る。
唸りが、揺れた。
「ゥ……ゥゥ……」
戸惑いが混じる。
もう一度、左手を上げる。
距離を詰める。
「ゥゥゥゥゥッ!!」
唸りは強くなる。
だが、後ずさることもできない。
俺は、そのまま近づく。
口を掴む。
力は入れない。
だが、逃げ場も与えない。
「だ~めだ。唸るな」
声色を、少しだけ変えた。
反発するように、
唸りが荒くなる。
「ゥゥゥゥゥゥゥッ!!」
左手の指で、岩肌を指す。
次の瞬間。
また、ダックの蹴り。
岩が抉れ、
音が響く。
人形の獣の耳が、下がった。
視線が揺れる。
俺は、動かない。
「よし……いい子だ」
そのまま、紐を回す。
口元。
顎。
噛めないように、巻く。
唸りは残る。
だが、牙は届かない。
そして、
俺は状態を確かめる。
肩。
胴。
脚。
「致命傷ではなさそうだが……」
持ち上げようとした瞬間――
「ギャァアアアアアッ!!」
鋭い悲鳴。
反射で、腕が暴れる。
爪が、腕に食い込む。
……痛い。
だが、離さない。
噛めないようにしている。
だから、掻くしかない。
「……わかったわかった」
低く言う。
力を抜いて、
横に倒す。
雪の上に、
人形の獣を寝かせる。
呼吸は荒い。
意識はある。
脚――動かない。
腰から下に、反応が薄い。
ダックの蹴りだ。
あの衝撃。
内臓も、無事じゃないかもしれない。
だが……。
背骨だな。
背中には少し血が滲んで見える。
岩に激突したときだろう……。
「だめそうだな……」
通っていない。
「……下手したら、ずっと立てなくなるか……」
唸りは続いている。
弱くはなったが、
目はまだ、こちらを睨んでいる。
……置いていく、という選択は浮かばなかった。
この状態で、
この場所で。
「……連れてく、か」
独り言だ。
ダックの背を叩く。
紐を解く。
荷を外す。
背中に、空間を作る。
もう一度、持ち上げる。
「ギ……ゥ……!」
悲鳴。
だが、
抵抗は弱い。
背に寝かせる。
体重が一点にかからないように、
横向きに。
縛る。
逃げないように。
落ちないように。
ダックが、低く鳴いた。
「ギョワ?」
分かっている。
「ついてこい」
ダックは、
ゆっくりと一歩踏み出す。
人形の獣は、
唸りながらも、
もう暴れない。
逃げられないと分かっている。
だが……
それでも最後まで、
殺される覚悟を、
捨てていない目だ。
俺は、周囲を見る。
雪。
岩。
風。
――思い出す。
最初の頃の記憶、あの草。
滝の落ちる場所。
水と岩が交わる場所に、
生えていた薬草。
「……ここにも、あるか?」
確信はない。
だが、
探す理由はある。
「我慢しろ」
励ましじゃない。
約束でもない。
俺は進む。
ダックが歩き出す。
背中で、
唸り声が揺れる。
雪の中へ。
俺たちは、
そのまま移動を始めた。




