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第42話:処理場


門の前に立つ。


朝の空気は澄んでいて、

冷たい。


石の柱は沈黙している。

昼だ。


荷は軽い。

干し肉。

水。

布。

そして――槍。


余計なものは、持たない。


門の内側に、

大勢が集まっていた。


村の者たち。

顔見知り。


だがそこに……名も知らない者たちも多くいる。


そして――その先頭には息子たち。


リヒトは、

昼の位置に立っている。


もう、俺の背中を見る立ち方じゃない。

前を見る姿勢だ。


ナハトは、

門の少し内側。


夜に立つ者の距離。


その隣に、

ミアがいる。


手は、まだつないでいない。

だが、離れてもいない。


それでいい。


誰も、

引き留めない。


誰も、

大げさな言葉を投げない。


分かっているからだ。


俺は、

ここに戻るために出る。


戻れないかもしれない場所へ行くが、


それでも……


俺が見る向きは同じだ。


槍を肩にかけ、一歩、門の外へ出る。


砂利が鳴る。


それだけで、

何人かが息を吸ったのが分かる。


振り返らない。


「……留守を頼んだ」


小さく言った。


村に向けた言葉じゃない。

名も呼ばない。


だが、

ちゃんと届く言葉だ。


次の瞬間、

足を踏み出す。


門を抜け、

ダックが待っている。


低く鳴いた。

俺は飛び乗る。


躊躇はない。


背後で、

声は上がらない。


代わりに、

立つ気配がある。


昼と夜が、

同時に残る感覚。


俺は前を見る。


西だ。


雪のある方角。

石の柱を目指す。


道のりは遠い。

だが、行ける。


「行け!」


ダックが走り出す。


地面が流れ、

村が小さくなる。


それでも――俺は、振り返らない。


守るものは、

背中にある。


だが無力ではない。


だから、進む。


走り続ける。


昼の中へ。

そして、

その先へ。


―――――


走り始めて、

一日が過ぎた。


空は高く、

雲は薄い。


地平はまだ、土の色をしている。


ダックの足取りは安定している。

無理をさせてはいない。

だが、休みすぎてもいない。


昼は走り、

夜は止まる。


焚き火は小さく。

音を立てない。


火は、俺が出す。


枝を組み、

火打ちも使わない。


指先に、赤を呼ぶだけだ。


ダックはそれを見て、

一度だけ鼻を鳴らした。


怖がらない。

慣れている。


一緒に火を見つめて夜を越した。


二日目。


空気が変わった。


吸い込んだ息が、

喉の奥で少し痛む。


冷たい。


風が、軽くなる。

湿り気が消える。


草の匂いが薄れ、

土の匂いが減る。


代わりに、

何もない匂いが増えた。


――寒冷だ。


ダックの首が、

わずかに伏せられる。


走りながら、

俺は荷を引き寄せた。


布を解く。


元はテントだ。

厚く、獣の毛皮が縫い込まれている。


ダックの背に、

被せる。


首元を留めると、

満足そうにダックは一つ鳴いた。


―――――


雪が、

降り始めた。


最初は、

気づかないほどだ。


白い粒が、

空から落ちてくる。


音はない。

重さもない。


ただ、

視界の色が変わる。


地面が、

薄く白くなる。


足跡が残る。


すぐに、

消える。


俺は寒くない。


火が、

体の内側にある。


燃えてはいない。

だが、冷えもしない。


指先も、

息も、

震えない。


――違和感はない。


ただ、

この環境が「異常」だということだけは、

はっきり分かる。


夜。


雪は止まない。


ダックの体温は高い。

毛皮越しに、熱が伝わる。


ダックは、

伏せたまま動かない。


目だけが、

暗闇を見ている。


獣の目だ。


だが――怯えてはいない。


「……ここ、か」


小さく呟く。


返事はない。

だが、ダックの首が一度だけ動いた。


分かっている。


ここから先は、

“土地”が違う。


雪の量が増え、

風の冷たさが重くなる。


月はない……だが影は、いない。


だからこそ……安心も、ない。


アンカーが近い。


何かを、感じる……。


それは、

火の感覚とは違う。


もっと鈍く、

もっと歪んだ、

引き寄せだ。


俺は立ち上がる。


槍を持つ。


向きは、

もう迷わない。


「明日で、着く」


ダックの首を叩く。


軽く。

合図だ。


「ギョワ」


ダックは頷いて、

低く鳴いた。


夜は、深い。


白く、

静かで、

何も奪わない。


だが、

何も守らない。


ここは――昼でも夜でもない。


俺は、この場所に用がある。


なにをどう燃やすかは……見てから決める。


―――――


山が、近づいてきた。


なだらかな起伏じゃない。

岩が剥き出しになり、

空を押し上げるような輪郭だ。


その頂。


雲を貫くように、

一本の石の柱が立っている。


「あれだ」


視線を上げただけで、

首の奥が、微かに軋んだ。


高すぎる。

だが、迷いはない。


ダックの歩調が、わずかに変わる。

前脚に力が乗る。


崖が、現れた。


切り立っている。

人の足では、

登る前に諦める高さだ。


だが――。


ダックの足なら、

話は別だ。


岩を蹴り、

距離を測り、

跳ぶ。


何段かに分かれた岩棚。

駆け上がるのに、苦労はない。


……はずだった。


「……待て」


ダックが止まる。


崖の下。

今、立っている地面。


雪は、まだ浅い。


しかし色が違った……。


白の下に、

黒でも土でもない、

鈍い染みがある。


鼻をつく匂い。


鉄。

湿り。


生温かさが残った……血の匂いだ。


古くない。

乾いてもいない。


ここで、

何かが繰り返されている。


その瞬間――


影が落ちた。


空から、

何かが降ってくる。


反射で、槍を構える。


重い音。


ぐしゃり、と

柔らかいものが砕ける感触。


狼の死体だった。


傷だらけで、腹が裂け、

内臓が雪に散っている。


(……上から、落とされた?)


……投げ捨てられた。


ダックが低く唸る。


俺は、崖の上を見る。


「行け!」


「ギョワッ」


ダックが応えた。


地を蹴る。

一段。

二段。

三段。


たん、たん、たん、と

岩を踏み、

壁を走り、

跳躍が連なる。


人の足なら、

一度で折れる距離。


だがダックは違う。

迷いなく、

ためらいなく、

崖を“道”として使う。


風が変わる。

雪が舞い、

視界が一気に開けた。


――上だ。


開けた場所。


岩の平坦の地。

雪は踏み固められ、

無数の足跡が重なっている。


そこで、

“初めて”……

まだ生きている“それら”を見た。


狼だ。


三匹。


毛は灰色。

目は黄色。

息は荒くない。


彼らは、

何かを引いていた。


荷台――いや、

そんな整ったものじゃない。


太い枝を組み、

縄で縛っただけの、

原始的な“引き具”。


そこに、

積まれている。


狼の死体だ。


崖の下に落ちていたものと、

同じ匂い。


裂けた腹。

砕けた骨。

血が、雪を染めている。


……多い。


数えきれない。


引いている狼たちは、

それを気にしていない。


……作業だ。


だが――それだけじゃなかった。


その奥。


死体の山のそばに、

立っている“もの”がいる。


人の形。

だが、人じゃない。


獣の頭部。

胴は直立。

前脚は腕になり、

肩と背に筋肉が盛り上がっている。


……人の形だ。


人形の獣。


そちらも狼と同じ、三体。


しかも、

大きい。


俺より、

一回り……いや、少し大きい。


風が吹く。


そいつの体表に、

雪が張り付く。


払わない。

瞬きもしない。


ただ、

そこに立っている。


アンカーの方向を背にして。


俺は、

槍を下げたまま、

静かに息を吐いた。


(……なるほどな)


ここはコイツらの……“処理場”だ。

捨てるための場所。


そして――こんなふうに、群れて動いているのなら……。


……それを管理している何かがいる。


狼たちが、

こちらに気づく。


視線が、同時に向いた。


敵意は――まだ、ない。


だが、

警戒はある。


逃げる気配はない。


俺は、

ダックの首に触れた。


止まれ、という合図だ。


ダックは、

一歩も動かない。


俺は降りて前に出る。


槍は構えない。


火も、

まだ出さない。


「……言葉はわかるか?」


返事はない。


狼達が、互いに一瞬だけ視線を交わす。


その背後で――


人形の獣が、ゆっくりと、

首を動かした。


音がしない。


視線だけが、こちらを向く。


そして一匹が――吠えた。


短く、

裂くような音。


合図だ。


次の瞬間、動いた。


狼が跳ぶ。

三方向。


同時に、俺に向かって。


考える前に、

体が動く。


速い。

低い。

牙が見えた。


踏み込む。


槍を前に出す。


――刺す。


腹。


骨に当たる感触。

だが狼は止まらない。


「ガウッガウガウッ!!」


噛みつこうと、

なおも迫る。


「ッチィ!」


俺は槍を握ったまま、

力を通す。


火を――宿す。


内側。


吠え声が、

喉の奥で詰まる。


次の瞬間、

内から焼ける。


口から赤が勢いよく漏れてくる。


狼は崩れ落ち、

雪に沈んだ。


その間にも、左右から。


風圧が先に頬に届く。


残り二匹が、

同時に迫る。


槍を離す。


両手を開く。


「すぅー……」


向けて、放つ。


「……ッ」


火が走る。


線じゃない。

塊だ。


狼の毛に触れ、

瞬時に燃え上がる。


吠え声。

転倒。

雪の上で、暴れる。


だが、

すぐに動かなくなった。


――同時。


背後。

重い衝撃。


ダックだ。


人の形をした獣が、

蹴り飛ばされる。


「ウオオォォォ……」


一匹。


宙を舞い、

吠えながら、

そのまま崖の外へ消えた。


下から、

何も返ってこない。


もう一匹。


「ガァッ……」


岩壁に叩きつけられ、

鈍い音。


崩れ落ち、

動かない。


……生きてはいる。

だが、今は沈黙だ。


最後の一匹。


距離を取った。


俺と、

ダックを見る。


一歩、

後ろへ。


「ガルルルルル!」


唸るが、

来ない。


火はまだ両手に残っている。


槍は、

雪の上に落ちている。


「ギョワッギョワ」


ダックが、

低く鳴いた。


俺は、最後の“それ”を見る。


「……」


普通なら逃げると思った。


ここまで数が減った。


一匹は落ちた。

一匹は壁に叩きつけられて沈黙した。


残った一匹は、

距離を取っている。


見ている。


(群れているなら……多少は、分かるはずだ)


だから、逃げるだろう。


そう思った。


だが――。


そいつは、

息を吸った。


胸が膨らむ。


目が細くなる。


次の瞬間、

雄叫びみたいに吠えた。


「ォオオオオオッ!!!!!!」


腹の底から、

雪を震わせる音だ。


「……来るかッ」


足が動く。突進。


まっすぐ。

迷いがない。


逃げずに、一直線。


俺は、両手を構えて向ける。


槍はない。


雪の上。

手を伸ばせば届く。

だが、間に合わない距離だ。


火は、

まだ手のひらに残っている。


俺は、一歩も退かない。


両手の火を、まとめる。


「燃えろッ!」


螺旋。

二つが絡み、

一つの塊になる。


大きくなった火球が走る。


一直線に。


だが――避けない。


人形の狼は、

そのまま火に突っ込んできた。


爆ぜた。


爆発に近い衝撃。

熱風。

白い雪が、一瞬だけ赤に染まる。


光が消える。


毛の焼ける匂いが残った。


それでも……


狼は、止まらない。


勢いのまま、

火の中を割って出てくる。


焼け焦げた顔。

牙。

目。


牙が届く。


……はずだった。


足が、崩れた。


前脚が折れるように沈む。


次いで、胴が落ちる。


狼は、

俺の隣に、

燃えながら倒れ込んだ。


雪が、じゅっ、と鳴る。


火が落ちるが、消えない。


俺はその横顔を見下ろす。


「どうして……逃げない……」


小さく呟いた。


答えはない。


ただ、

燃える匂いだけが残る。


俺は、視線を落とす。


雪の上。


槍がある。


拾う。


柄が冷たい。

血はついていない。


だが、匂いは濃くなった。


ここに積まれた死体。

ここに落とされた死体。


久々に……生きるために、血なまぐさい戦いをした……。


――そのとき。


背後。


「……ゥゥ……」


低い唸りが聞こえた。


壁に叩きつけられた“あれ”だ。


沈黙していたはずのものが、

まだ生きている。


雪を擦る音。


骨が軋むような音。


ダックが、首を上げる。


「ギョワ……」


短く。


俺は槍を握り直す。


火を呼ぶ。


今度は、指先じゃない。

腕の内側から、静かに。


俺よりも先にダックが近寄る。

とどめを刺すため……。


「まて……」


ダックは止まった。

だが視線は唸る者を外さない。


「ゥウウウッ!!!」


雪は降り続ける。


白い世界に、焼けた匂いが残った。

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