第39話:送るための…火
夕暮れは、思ったより早く来た。
川の音が、
さっきまでより低くなる。
空が、少し赤い。
でも……
火は――ちゃんと、そこにあった。
槍の外側。
枝には触れず、
薄く、巻き付く。
揺れている。
でも、燃え移らない。
(……できてる)
胸の奥が、
じわっと熱くなる。
父ちゃんは、
何も言わなかった。
ただ、
一度だけうなずいた。
それだけで、
十分だった。
兄ちゃんも、
何も言わない。
でも、
目は離さない。
俺は、
槍を下ろした。
息を吐く。
腕はまだ熱い。
けど怖くない。
(……母ちゃんに、言わなきゃ)
できたって。
ちゃんと、できたって。
ダックが、
背を低くする。
帰る合図。
俺たちは、
そのまま村へ向かった。
ーーーーー
ダックの背中は、
一定の揺れだった。
森が、
少しずつ開ける。
村が、
近づく。
そのとき――
音が、
違った。
ざわつき。
声が、重なっている。
多い。
門の前に、
人影が固まっている。
(……なんだ?)
理由は分からない。
でも、
胸の奥が冷える。
ダックが、
低く鳴いた。
嫌な鳴き方だった。
父ちゃんは、
前を見ている。
兄ちゃんも、
黙っている。
門が近づく。
声が、
はっきり聞こえる。
泣き声じゃない。
怒鳴り声でもない。
低く、
沈んだ音。
ダックが止まった。
家の前に、
人が集まっていた。
道具を持ったまま、
立ち尽くしている者。
腰を落としたまま、
動かない者。
誰も、
俺たちを見ない。
その中に――
ラルがいた。
槍を、
地面に突いて立っている。
握りは強いが、
体重は預けている。
……杖みたいだった。
(……ラル?)
視線が合う。
一瞬。
それだけで、
分かった。
ラルは、
何も言わない。
ただ、
目を伏せた。
その仕草で、
全部、伝わった。
昨日のことが、
頭に浮かぶ。
火の前。
母ちゃんの声。
『覚えておいてほしいの』
それに、
ちゃんと向き合わなかった。
(……あとででいい)
そう思った。
俺は、
前に進もうとした。
言わなきゃ、
って思った。
母ちゃんに。
できたって。
火を、ちゃんと使えたって。
ちゃんと、
見せられるって。
でも……
視界の先に、
父ちゃんがいた。
母ちゃんの横で、
膝をついている。
火のそば。
いつもの場所。
背中が、
動かない。
(……あ)
喉が、
詰まる。
足が、
止まる。
父ちゃんは、
母ちゃんを見ていた。
触れていない。
呼んでもいない。
ただ、
そこにいる。
槍が、
手から落ちた。
ーーーーー
夜は、
静かに落ちてきた。
泣き声はない。
誰も叫ばない。
木で作られた寝床が、低く、確かに燃えている。
母ちゃんの火。
昼の火とも、
夜に残す火とも違う。
あたたかい色で、
ゆっくりと燃えていた。
俺は、
その前から動けなかった。
涙が、
止まらない。
理由は、
一つじゃない。
(……違った)
ずっと、
思っていた。
母ちゃんは、
兄ちゃんのために話してたんだって。
リヒトが特別だから。
ラルに託されたから。
だから――俺には、
もう言うことがなかったんだって。
勝手に、
そう決めていた。
でも、
違った。
母ちゃんは、
ずっと“俺達”を見てた。
火の前で、
何度も。
俺が、
聞かなかっただけだ。
俺が、
背を向けただけだ。
あの時の言葉が……今になって刺さる。
あの時、
ちゃんと座っていれば。
目を逸らさなければ。
『またその話かよ』
なんて言わなければ。
(……ごめん)
声に出ない。
喉が、壊れているみたいだった。
涙が、
勝手に落ちる。
止めようとすると、
余計に溢れる。
俺は、
膝を抱えた。
世界が、
狭くなる。
そのとき――
外で、
足音が走った。
「……西の見張り台だ!」
短い声。
「来る! 獣だ!」
影だ。
夜の外れが、
ざわつく。
火の色が、
一瞬、揺れた。
父ちゃんが、
立ち上がる。
でも――振り返らない。
母ちゃんの方も、
俺の方も、
見ない。
ただ、
外へ向かう。
背中だけが、
そこにあった。
槍を持つ音。
歩く音。
止まる音。
門の外へ。
父ちゃんは、
闇の方を向いたまま、
低く言った。
「……ナハト」
名前だけ。
俺は、
顔を上げた。
涙で、
前が歪む。
「……よく見てろ」
父ちゃんは、
振り返らない。
背中のまま。
「これが――ダメな使い方だ」
次の瞬間。
火が、
爆ぜた。
広がる、じゃない。
引き剥がすみたいに。
夜が……削ぎ落とされる。
荒野が、一気に白く染まる。
草が燃える。
土が割れる。
影が、消える。
逃げる間もない。
触れた瞬間、
最初から存在しなかったみたいに、
焼き尽くされる。
でも……止まらない。
敵が消えても、
火は進む。
怒り。
喪失。
後悔。
(……ちがう)
分かる。
昼に教わった火じゃない。
選ばない火。
抑えない火。
戻らない火。
父ちゃんは、
影を見ていない。
守るものも、
見ていない。
ただ、外だけを見ている。
荒野は、文字どおり火の海になった。
境目が、
消える。
どこまでが村で、
どこからが外か、
分からない。
「これが……戻れない」
背中のまま、
父ちゃんが言う。
「守るものを失った瞬間……ただ、世界ごとすべてを焼き払う火だ……」
火は……夜が終わるまで消えなかった。
影はいない。
敵もいない。
それでも、
荒野は燃え続けた。
俺は、
その背中を見ていた。
涙が、
止まらないまま。
母ちゃんの火と、
父ちゃんの火。
同じ火なのに、
まるで違う。
(……覚える、絶対に忘れない)
この夜を。
母ちゃんの声を、
聞かなかった後悔を。
そして――
父ちゃんが、
“やるな”と言った理由を。
火は、
強いからじゃない。
怖いからでもない。
――戻れなくなるからだ。
俺は、
その意味を、
この夜に刻まれた。
ーーーーー
朝。
村の外には、
草が一本もなかった。
黒い地面。
灰の匂い。
静かすぎる朝。
でも、
村の中で――
もう一つ、
火が灯る。
小さい火。
送るための火。
ラルは、
夜を越えなかった。
リヒトが前に立つ。
槍は持たない。
火打ち石を打つ。
一度。
二度。
三度目で、
火がついた。
静かな火。
ラルを、
送る火。
父ちゃんは、
少し離れて立っている。
俺は、
その背中を見る。
リヒトは、
何も言わない。
火が、
安定した頃だった。
父ちゃんが、
ゆっくり歩き出す。
迷いはない。
でも、
急がない。
まず、
兄ちゃんの前に立った。
何も言わない。
声も、
合図もない。
ただ、
肩に手を置いた。
それだけ。
……なのに。
兄ちゃんの身体が、
わずかに揺れた。
一度。
それから、
もう一度。
喉の奥で、
何かが詰まる音がした。
「……っ」
短い。
でも――
確かに、崩れた音だった。
兄ちゃんは、
泣かなかった。
すぐには。
火を見たまま、
歯を食いしばったまま。
ずっと、
そうしてきたみたいに。
でも、
肩が下がる。
力が抜ける。
父ちゃんの手が、
そのまま肩を引き寄せた。
今度は、
逃げない距離まで。
そこで、
兄ちゃんは声を上げた。
大きくない。
乱れもしない。
ただ、
抑えていたものが、
一気に抜け落ちた音だった。
その瞬間――
胸が、
変なふうに詰まった。
理由は分からない。
悲しい、とも違う。
悔しい、とも違う。
ただ――分かったんだ。
(……ああ……そうなんだ)
兄ちゃんは、いつも……ずっと先の遠くにいた。
でも、それも違った。
分かっていた。
見ていた。
耐えていた。
泣かないまま。
それが、
当たり前みたいに。
父ちゃんの腕が、
そのまま動く。
兄ちゃんを抱いたまま、
今度は俺も包む。
力は強くない。
でも、
離さない。
その腕の中で、
声が出た。
自分の声だ。
止めようとしても、
止まらない。
理由を探す前に、
身体が先に反応していた。
兄ちゃんの泣き声と、
重なる。
違う音なのに、
同じ場所から出ている気がした。
父ちゃんは、
何も言わない。
慰めもしない。
説明もしない。
ただ、
背中を丸めて、受け止めている。
昨日の、
火の中の背中じゃない。
でも、
優しいとも違う。
……ただの父ちゃんだ。




