第37話:月の夜に、背を渡す
今日も――月がなかった。
空は暗く、
雲が低く垂れている。
星も、見えない。
(……また、来るな)
そう思った。
最近は、そうだ。
影は空を使わない。
獣に入って、
数で押してくる。
ほとんどが狼だ。
鋭い牙で、俺を殺そうと必死に向かってくる。
村へ向かわせないために、
俺は外で叩く。
最近はそれが普通だった。
槍を握り直す。
肩の力を抜く。
呼吸を整える。
覚悟は、出来ていた。
その時。
背後――
村の方で、光が走った。
石の柱が……光っている。
文様が、
内側から浮かび上がる。
蒼い。
火の色じゃない。
星のように、
静かで、
優しい光。
「……」
思わず、
息を止めた。
次の瞬間。
雲が、ほどける。
裂けるように、
夜空が開く。
月が――現れた。
満ちてはいない。
だが、確かに。
白い光が、
村を覆う。
影が、遠ざかる。
気配が……薄れていく。
(……何だ?)
槍を下ろす。
空を見る。
(ルクナスか……)
あいつが言っていた言葉が、
頭をよぎる。
“仕組み”
“向き”
だが、分からない。
これが、
あいつの手なのか。
それとも――
この柱自身の反応なのか。
答えは出ない。
けれど。
胸の奥で、
確かに感じる。
(……今日は)
小さく、
息を吐く。
「少し……休めるな」
誰に言うでもなく、
呟いた。
槍を肩に担ぐ。
歩き出す。
門へ。
村へ。
月明かりの中――
人影が一つ、立っていた。
リヒトだ。
門の内側。
槍を持ち、
外を見ている。
姿勢は静かだが、
眠ってはいない。
俺は、
足を止めた。
(……やっぱり、起きてるか)
月光が、
リヒトの横顔を照らす。
背は高い。
村の中では、もう一番だ。
ルゥ達の血を引いているが、
骨格は俺に近い。
肩幅はまだ細い。
だが、手足はよく伸びている。
成長の速さはゴブリン並。
だが、向かう形は人間に近い。
俺ほど大きくはならないだろう。
それでも、「子ども」と呼ぶには、
もう無理がある。
(……また、デカくなったな)
そんなことを思う。
俺は、
何も言わずに歩み寄った。
しばらく、
並んで立つ。
夜は、
珍しく静かだった。
やがて――リヒトが、口を開いた。
「……父さん」
低い声。
もう、子どもの音じゃない。
「昼に……ラルに呼ばれた」
俺は、
視線を外さずに聞く。
「何を言われた?」
少しの間。
リヒトは、
言葉を選んでいる。
「……もし、ラルがいなくなったら」
胸の奥が、
わずかに軋んだ。
音のない衝撃。
心臓を、
内側から叩かれたような感覚。
(そうか……来たのか……)
頭のどこかで、
そう思う。
だが……表には出さない。
息が乱れそうになるのを、
喉の奥で押し殺す。
リヒトの声は、
まだ続いている。
ここで、
俺が崩れるわけにはいかない。
「皆に、教えろ……って」
言葉は短い。
だが、重い。
月光の下でも、
リヒトの表情はよく見えた。
迷い。
戸惑い。
それでも逃げていない目。
(……こんな顔もできるんだな……俺の息子は……)
一瞬、
責任が胸を刺す。
だが――今は、違う。
俺は、
視線を外さずに立つ。
肩の力を、
意識的に落とす。
「それから……?」
声は、思ったより落ち着いていた。
リヒトは、
少し驚いたように俺を見る。
たぶん、
もっと強い反応を想定していたのだろう。
だが、
俺は頷くだけだった。
「続けろ……」
それだけ。
リヒトは、
一拍置いてから話し出す。
「……俺には、よく分からない」
正直な言葉。
「何を、どう教えればいいのか……、
ラルみたいに出来る気がしない……」
言い切ったあと、
リヒトは黙った。
言葉を探しているというより、
出てしまうのを待っている顔だ。
俺は、
月を一度だけ見上げた。
雲は、もうない。
白い光が、
村と門と、
俺たちを等しく照らしている。
……思い出す。
門の外。
夕暮れ。
木札。
震える指。
あの時と、
よく似た夜だ。
俺は、
ゆっくり息を吐いた。
「……前にも、言ったことを覚えているか?」
リヒトの視線が、
俺に戻る。
「お前は……ラルになる必要はない」
言葉は、
強くも、重くもない。
ただ、
事実を置くように言った。
「ラルはラルだ。
俺は俺だ。
……お前は、お前だ」
リヒトの目が、
わずかに揺れる。
「教えろと言われたからって、
同じやり方をする必要はない」
俺は続ける。
「真似をしなくていい。
背中をそのまま引き継がなくていい」
月明かりの中で、
リヒトの肩はまだ細い。
だが、
立ち方はもう、
誰かの後ろじゃない。
だからこそ、
答えを簡単に与えてはいけない。
「今……お前には何が見える」
リヒトは、
少し考えてから答えた。
「……分からない」
即答じゃない。
逃げでもない。
本当に、
分からない顔だった。
俺は、
それを否定しなかった。
「……そうだろうな」
短く言う。
月明かりの下で、
リヒトは少しだけ驚いた顔をした。
否定されると、
思っていたのかもしれない。
「誰かに何かを教えるってのは、
簡単じゃない」
言葉を選ぶ。
「正解を知っているから出来るわけでもない。
経験が多いから出来るわけでもない……」
門の外を見る。
森は静かだ。
だが、完全に眠っているわけじゃない。
「分からないまま向き合うことの方が……ずっと多い」
一拍。
「……だから、今はそれでいい」
リヒトは、
黙って聞いている。
「ラルは“流れ”を見ている。
種がどう残るか、村がどう続くか」
俺は、
リヒトの横顔を見る。
「だが……お前は、いつも“目の前”を見ている」
子ども。
弟。
倒れた仲間。
泣いている誰か。
「それは……間違いじゃない」
月光の中で、
リヒトの指が少しだけ緩む。
俺は、
少し間を置いてから言った。
「なあ、リヒト」
呼び方を変える。
父として。
一人の人間として。
「……お前から見て、
俺はどう見えている?」
リヒトは、
はっきりと戸惑った。
「父さん……?」
「そうだ」
視線を合わせる。
「強いか、正しいか、皆を導いているように見えるか」
一つずつ、
確認するように言う。
「それとも……ただ、槍を持って、夜に出ていくだけの男に見えるか」
月が、
ゆっくりと雲の縁をなぞる。
「……答えなくてもいい」
すぐには、
求めない。
「だがな」
静かに、
続けた。
「お前が人に何かを教える時、
それは“正解”を渡すことじゃない」
一歩、
半歩だけ近づく。
「お前自身が、どう見えているかを、
そのまま置くことだ」
風が、
二人の間を抜ける。
「……お前が見ている世界でいい」
言い切った。
「それを、
言葉に出来なくてもいい」
そしてあの時と同じように、目を見て伝える。
「迷っているなら、迷っているままで立て」
俺は、
リヒトを見る。
「それが出来るなら、
お前はもう、誰かの前に立てている」
少しの沈黙。
リヒトは、
すぐには答えなかった。
槍の柄に、
指が触れている。
握るでもなく、
離すでもなく。
考えているというより――
胸の奥で、何かを確かめている顔だ。
俺は、
そこで言った。
「俺は……何かを教えてきたわけじゃない」
言葉を選ばない。
飾らない。
「正しいことをしたつもりもない」
月を見る。
静かな光。
「俺はただ……守ってきただけだ」
それだけ。
「目の前にあるものを、手の届く範囲を、
失わないように、失わせないように……立っていただけだ」
リヒトの目が、
わずかに揺れる。
「それ以上のことは、
何一つ出来ていない」
否定でも、
謙遜でもない。
事実だ。
「だから……お前が、
何をするか分からなくてもいい」
視線を戻す。
「お前が立つ場所が、
俺と違ってもいい」
一拍。
「それでも守ろうとしたなら……、
迷いながらでも、誰かの前に立ったなら……」
言葉を切る。
「それはもう、
お前自身のやり方だ」
俺は、
それ以上言わなかった。
答えを、
渡さなかった。
月は、
静かにそこにある。
門の内側で、
リヒトは立っている。
子どもでも、
大人でもない姿で。
夜は、
まだ終わらない。
だが、
今夜は戦わなくていい。
俺たちは、
しばらくの間、
月の下に立っていた。




