第35話:火の兆、そして雪
第35話:火の兆、そして雪
一日が、始まった。
朝。
火の匂い。
湿った土。
人の声。
夜が終わり、
昼が来た。
ラルがいた。
槍を肩にかけ、
皆の前に立つ。
「今日はここまでだ」
短い声。
狩りの判断。
配置。
戻る順。
父とは違うやり方。
でも、迷いがない。
皆が、
その速さについていける。
俺も、
その中にいる。
槍を持つ。
構えは、
もう身体に染みている。
それを、
ラルが見ている。
何も言わない。
ただ一度、頷いた。
それだけで、
十分だった。
昼。
作業が続く。
柵。
道具。
火の管理。
ラルは、
要点だけを示す。
細かい指示は出さない。
「考えろ」
「見ろ」
「間に合わなければ――引け」
それだけ。
俺は、
その横で動く。
ラルの背中を見て、
皆の動きを見て、
ナハトを見る。
ナハトは、
落ち着かない。
身体が先に出る。
視線が泳ぐ。
ラルが、
ちらりと俺を見る。
父に似ている……。
何も言わない。
“任せた”
そう言われた気がした。
俺は、
ナハトの前に立つ。
声は出さない。
手で、
位置だけ示す。
「ここだ」
それだけ。
ナハトは、
一瞬不満そうにして、
それでも従った。
昼が、
過ぎていく。
夕方。
影が長くなる。
ラルが、
火の方を見る。
「今日はもういい」
それで、
昼は終わる。
皆が散る。
ラルは、
俺の肩に手を置いた。
重い手。
「……よく見てたな」
それだけ。
褒めでも、
評価でもない。
確認だ。
俺は、
黙って頷いた。
夜。
空気が変わる。
それを、
俺は知っている。
父の時間だ。
ナハトも、
分かっている。
無意識に、
俺の後ろへ来る。
俺は、
一歩前に出る。
父が立っていた位置。
何も言わない。
何も振るわない。
ただ、
立つ。
夜が来る。
闇は――
寄らない。
理由は、
まだ分からない。
でも――
俺は立っている。
朝。
気づけば、
空が明るい。
夜が、
終わっていた。
父はいない。
だが――
背中は、残っている。
一日が終わった。
派手なことは、
何もなかった。
それでも――
昨日より、
少しだけ。
俺は、
“間”に立てていた。
ーーーーー
ナハトが槍を振るった。
型は、まだ粗い。
力任せで、振り下ろす。
その瞬間。
――火が出た。
右手。
槍の柄を握る指の隙間から、
ぱっと火が跳ねた。
一瞬だけ。
小さく、
鋭い光。
周囲が止まる。
誰も声を出さない。
驚きが、空気に固まる。
ナハトは、
自分の右手を見る。
目が、輝いた。
「……これ……」
嬉しそうだった。
怖がっていない。
痛がってもいない。
ただ、
“出来た”という顔。
俺は――一歩、前に出た。
理由を考えていたわけじゃない。
でも――
分かった。
これは、
今のナハトには危ない。
どうしてかは、
言葉にできない。
けれど、
確かだった。
俺は、
水桶を掴んだ。
そして迷わず、かけた。
ざばっ、と音がして、
火は一気に消えた。
白い湯気が立つ。
「――っ!?」
ナハトが、
目を見開く。
「なにすんだよ!」
声が、強い。
怒っている。
裏切られたみたいな顔。
俺は、
落ち着いて答えた。
「消した」
それだけ。
「……なんでだよ!」
ナハトは、
自分の手を見る。
もう、何もない。
俺は、
視線を外さずに言った。
「今は危ないからだ……」
短く。
ナハトは、
言い返そうとして止まる。
さっきの高鳴りと、
今のざわつきが、
胸の中でぶつかっている。
俺は、
一歩近づいた。
声を落とす。
「そのうち……」
ナハトが、
顔を上げる。
「父がちゃんと、お前に教えてくれる」
言い切らない。
約束にする。
「だから――今は、勝手に使うな」
強くはない。
でも、揺れない。
ナハトは、
唇を噛んだ。
悔しそうに。
それでも――
頷いた。
「……わかった」
小さな声。
ラルが、
何も言わずに視線を外す。
昼の空気が、
ゆっくり――戻ってくる。
ナハトは、
まだ右手を見ている。
期待を、
完全には手放していない目。
俺は、
その隣に立ったまま。
離れなかった。
昼は続く。
けれど――もう、
昨日までの昼ではなかった。
ーーーーー
村が眠りに就く。
俺は槍を手に家を出る。
右手で道を照らしながら外まで来た。
今日は――妙だった。
(空が、静かすぎる)
浮かぶ影がいない。
漂う気配が、ない。
代わりに……地上が、騒がしかった。
狼。
あちこちで、
狼の死体が倒れている。
影が、
狼の身体を使っている。
今日は、
それが――やけに多い。
数が増えている。
空を捨て、
獣を使う。
理由は、まだ見えない。
だが、
いい兆候じゃない。
夜明けが近づき、
影の動きが鈍る。
俺は、
深追いせず――引いた。
朝方、
家へ戻る。
煙の匂いがする。
嫌な予感がした。
家の先でナハトが立っていた。
両手を前に出し、
ぎこちなく……だが、はっきりと。
火を灯している。
小さい。
不安定。
だが確かに……。
「父ちゃん!」
弾む声。
「ほら! 俺もできた!」
胸が一瞬、冷えた。
「ナハト!」
声が強くなる。
ナハトが、
びくっと肩をすくめる。
「やめろ!」
踏み出す。
火が揺れ、
ナハトの手から消える。
俺は、
深く息を吐いた。
感情を……一度、飲み込む。
「……まだだ」
低く言う。
「お前には、まだ早い」
ナハトの顔が、
むっと歪む。
「だって……できたのに……」
「できることと、
使っていいことは違う」
はっきりと言う。
「時が来るまで……使うな」
ナハトは、
唇を尖らせる。
悔しそうに、
視線を逸らす。
「……つまんねぇ!」
そのまま、
家の方へ歩き出す。
俺は、
追わなかった。
代わりに、視線を感じる。
リルだ。
全部、見ていた。
何も言わず、
ナハトの後を追い……、
少ししてから、
家の中で声が聞こえた。
静かな声。
昔を語る声だ。
「……昔ね」
火のそばで、
リルは言う。
「森の民の中に、
火を持ってきた人がいた」
ナハトは、
拗ねたまま――だが、聞いている。
「すごく、きれいで、
暖かくて、
夜を怖くなくしてくれた」
少し、間。
「でもね……
火は、大きな獣を呼んだの」
ナハトの背中が、
わずかに固くなる。
「獣は、火を追ってきて、
森を荒らして、全部……燃やしてしまった」
炎が、
広がるような沈黙。
「そのままだったら……
私たちは全員……
死んでたかもしれない」
ナハトが、
小さく息を吸う。
リルは、
続けた。
「その時……
助けに来てくれた人がいた」
名は――言わない。
だが、
分かる。
「火の中から出してくれた。
獣を追い払って、
夜を、元に戻してくれた」
少し、笑う。
「だからね……
火は、悪いものじゃない」
目を閉じて、思い出すように続ける。
「でも――早すぎると、危ない」
ナハトは、
黙って聞いている。
両手を、
膝の上で握りしめて。
「……時が来たら」
リルは、
やさしく言う。
「ちゃんと……
教えてもらえる」
外で、
朝の光が強くなる。
俺は、
その気配を感じながら――
槍を立てかけた。
夜は、
確実に――形を変え始めている。
そして、
続いてきた火も――
次の段階に入った。
ーーーーー
眠りに就く前……。
村の中央。
石の柱が、光った。
刻まれた模様が、
内側から、静かに脈打っている。
俺は足を止めた。
……呼ばれている。
考えるまでもない。
俺は槍を地面に預け、
柱の前に立つ。
右手を伸ばした。
触れた瞬間――
視界が、裏返る。
闇がほどけ、
光が沈み、
上下の感覚が消える。
「……やあ、来たね」
声。
近い。
でも、触れられない距離。
「久しぶり、エア」
姿は見えない。
けれど、分かる。
忘れようとして、
忘れられなかった“気配”。
「……また、お前か」
低く言う。
声は笑った。
「“また”って言い方、ひどいな。
一応、心配してたんだけど?」
軽い。
やけに軽い。
それが逆に、
腹に引っかかる。
「……用があるなら、さっさと言え」
少し間があった。
「うん……そのつもりだよ」
声音が、
ほんの少しだけ真面目になる。
「ずっと見てた。君が戦い続けてるのも……削れていくのも……
……それでも、立ってるのも」
「やめろ」
遮る。
「そんな言葉を聞きたいわけじゃない」
「分かってる……」
即答だった。
「だから、考えてたんだ……
どうにかならないかって」
視界の端で、
線が組み上がる。
層。
重なり。
歪み。
「虚飾を抑える仕組みを作ってみた」
俺は眉をひそめる。
「……仕組み?」
「プログラム、って言った方が近いかな……?」
胸の奥が、
微かに跳ねた。
とてつもない違和感だった。
(……分かる)
その言葉の意味が。
なのに――なぜ分かるのかが分からない。
「……その言葉を、俺が理解できるのはなぜだ……?」
少し笑う気配。
「必要だから……それに、君は元々“外”を知ってる」
「知っている……だと?」
俺の疑問にそいつは答えない。
納得はできない。
だが進む……。
「たぶんね……それよりなんだけど」
声が切り替わる。
「残念ながら、それはうまく起動してない」
嫌な言い方だ。
「うまくねぇ……ならなんで今俺はお前と話せている? 平気そうに見えるが?」
「……ここじゃないのか」
「ここは何本かあるうちの一つさ。
アンカーはいくつかあって、“僕達”が世界を観測し、つなぎ止めるための物だからね」
「達? お前みたいなのが他にもいるのか?」
疑問をぶつける。だが男は相変わらずまともにとりあわない。
「ふふふ、秘密。
……もう一本、西にある」
景色が、一瞬だけ重なる。
目の裏を、見たこともない場所が入り込んでくる。
岩。
斜面。
――白。
薄く、
だが確かに。
雪。
俺は、その像から目を離さなかった。
「……雪が見えたぞ?」
短く言う。
「西だと言ったな?」
少しの間。
ほんの一拍。
それから――
少し楽しそうな声。
「鋭いね」
軽い。
「うん、西で合ってるよ」
即答だった。
「じゃあ、あの雪は何だ」
俺の声は低い。
「この辺りに、
そんな環境はない」
相手は、
少し考える素振りを見せる。
「うーん……」
間延びした声。
それから、
正直に言うように続けた。
「あっちは僕の担当じゃないんだ」
悪びれない。
「どういう目的で、
あんな土地にしたのかは、
僕もよく分からないんだ……てへ!」
俺は、何も返さなかった。
怒るほどの材料も、
納得するほどの説明もない。
「……つまり」
静かに言う。
「西に、アンカーがある。だがうまく動いていない。しかも寒い環境になってる」
「そういうこと」
即答。
「少なくとも、“位置”は合ってるね」
「それ以上は?」
少しの沈黙。
「今は、そこまでだね」
軽い声。
だが、
誤魔化しではない。
「君も分かってるでしょ?」
声音が、
ほんの少しだけ落ち着く。
「今の君は、
そこへ行けない」
俺は、柱に触れたまま動かない。
「当たり前だ……村がある」
「うん」
「子どもがいる」
「そう……だから」
声は、
はっきりしていた。
「今は動かなくていい」
――違う。
正確には。
動くべきじゃない。
「行けば、君が守るべきものが崩れる」
俺は、その意味を理解した。
「……西は」
言葉を選ぶ。
「急ぎじゃないのか」
少し、
困ったような笑い。
「急ぎじゃない、とは言わない」
正直だ。
「でも――今すぐじゃない」
「時間は、
“まだ”ある」
その“まだ”が、
いつまでかは言わない。
光が、
ゆっくりと薄れていく。
「だから今は」
声が、遠くなる。
「覚えておいて。雪のある西。
違和感のある場所……。
君が今見るべきなのは、“中身”じゃなくて――“向き”だ」
世界が、
元に戻り始める。
石の冷たさ。
土の匂い。
その直前、
もう一度だけ声が届いた。
「それと、これも覚えてて」
軽い調子。
「僕は、君の味方だよ」
断言だった。
理由も、
条件もない。
俺は言った。
「……なら」
短く。
「名前ぐらい、名乗れ」
間はなかった。
「ルクナス」
即答。
その瞬間。
胸の奥に、
小さな引っかかりが残る。
(……どこかで)
初めて聞いたはずなのに、
“知らない”と言い切れない。
考えかけた、その時。
「はい、ここまで」
声が区切る。
感覚が、
一気に引き戻された。
光が沈み、
上下が反転し、
光と闇が重なる。
俺は、
石の柱の前に立っていた。
右手は、
まだ触れている。
村は静かだ。
何も変わっていない。
それなのに――
胸の奥に、
名前だけが残っている。
(……ルクナス)
噛み合わない歯車が、
どこかで回り始めた。
そんな感覚だけが、
消えずに残った。第35話:火の兆、そして雪
一日が、始まった。
朝。
火の匂い。
湿った土。
人の声。
夜が終わり、
昼が来た。
ラルがいた。
槍を肩にかけ、
皆の前に立つ。
「今日はここまでだ」
短い声。
狩りの判断。
配置。
戻る順。
父とは違うやり方。
でも、迷いがない。
皆が、
その速さについていける。
俺も、
その中にいる。
槍を持つ。
構えは、
もう身体に染みている。
それを、
ラルが見ている。
何も言わない。
ただ一度、頷いた。
それだけで、
十分だった。
昼。
作業が続く。
柵。
道具。
火の管理。
ラルは、
要点だけを示す。
細かい指示は出さない。
「考えろ」
「見ろ」
「間に合わなければ――引け」
それだけ。
俺は、
その横で動く。
ラルの背中を見て、
皆の動きを見て、
ナハトを見る。
ナハトは、
落ち着かない。
身体が先に出る。
視線が泳ぐ。
ラルが、
ちらりと俺を見る。
父に似ている……。
何も言わない。
“任せた”
そう言われた気がした。
俺は、
ナハトの前に立つ。
声は出さない。
手で、
位置だけ示す。
「ここだ」
それだけ。
ナハトは、
一瞬不満そうにして、
それでも従った。
昼が、
過ぎていく。
夕方。
影が長くなる。
ラルが、
火の方を見る。
「今日はもういい」
それで、
昼は終わる。
皆が散る。
ラルは、
俺の肩に手を置いた。
重い手。
「……よく見てたな」
それだけ。
褒めでも、
評価でもない。
確認だ。
俺は、
黙って頷いた。
夜。
空気が変わる。
それを、
俺は知っている。
父の時間だ。
ナハトも、
分かっている。
無意識に、
俺の後ろへ来る。
俺は、
一歩前に出る。
父が立っていた位置。
何も言わない。
何も振るわない。
ただ、
立つ。
夜が来る。
闇は――
寄らない。
理由は、
まだ分からない。
でも――
俺は立っている。
朝。
気づけば、
空が明るい。
夜が、
終わっていた。
父はいない。
だが――
背中は、残っている。
一日が終わった。
派手なことは、
何もなかった。
それでも――
昨日より、
少しだけ。
俺は、
“間”に立てていた。
ーーーーー
ナハトが槍を振るった。
型は、まだ粗い。
力任せで、振り下ろす。
その瞬間。
――火が出た。
右手。
槍の柄を握る指の隙間から、
ぱっと火が跳ねた。
一瞬だけ。
小さく、
鋭い光。
周囲が止まる。
誰も声を出さない。
驚きが、空気に固まる。
ナハトは、
自分の右手を見る。
目が、輝いた。
「……これ……」
嬉しそうだった。
怖がっていない。
痛がってもいない。
ただ、
“出来た”という顔。
俺は――一歩、前に出た。
理由を考えていたわけじゃない。
でも――
分かった。
これは、
今のナハトには危ない。
どうしてかは、
言葉にできない。
けれど、
確かだった。
俺は、
水桶を掴んだ。
そして迷わず、かけた。
ざばっ、と音がして、
火は一気に消えた。
白い湯気が立つ。
「――っ!?」
ナハトが、
目を見開く。
「なにすんだよ!」
声が、強い。
怒っている。
裏切られたみたいな顔。
俺は、
落ち着いて答えた。
「消した」
それだけ。
「……なんでだよ!」
ナハトは、
自分の手を見る。
もう、何もない。
俺は、
視線を外さずに言った。
「今は危ないからだ……」
短く。
ナハトは、
言い返そうとして止まる。
さっきの高鳴りと、
今のざわつきが、
胸の中でぶつかっている。
俺は、
一歩近づいた。
声を落とす。
「そのうち……」
ナハトが、
顔を上げる。
「父がちゃんと、お前に教えてくれる」
言い切らない。
約束にする。
「だから――今は、勝手に使うな」
強くはない。
でも、揺れない。
ナハトは、
唇を噛んだ。
悔しそうに。
それでも――
頷いた。
「……わかった」
小さな声。
ラルが、
何も言わずに視線を外す。
昼の空気が、
ゆっくり――戻ってくる。
ナハトは、
まだ右手を見ている。
期待を、
完全には手放していない目。
俺は、
その隣に立ったまま。
離れなかった。
昼は続く。
けれど――もう、
昨日までの昼ではなかった。
ーーーーー
村が眠りに就く。
俺は槍を手に家を出る。
右手で道を照らしながら外まで来た。
今日は――妙だった。
(空が、静かすぎる)
浮かぶ影がいない。
漂う気配が、ない。
代わりに……地上が、騒がしかった。
狼。
あちこちで、
狼の死体が倒れている。
影が、
狼の身体を使っている。
今日は、
それが――やけに多い。
数が増えている。
空を捨て、
獣を使う。
理由は、まだ見えない。
だが、
いい兆候じゃない。
夜明けが近づき、
影の動きが鈍る。
俺は、
深追いせず――引いた。
朝方、
家へ戻る。
煙の匂いがする。
嫌な予感がした。
家の先でナハトが立っていた。
両手を前に出し、
ぎこちなく……だが、はっきりと。
火を灯している。
小さい。
不安定。
だが確かに……。
「父ちゃん!」
弾む声。
「ほら! 俺もできた!」
胸が一瞬、冷えた。
「ナハト!」
声が強くなる。
ナハトが、
びくっと肩をすくめる。
「やめろ!」
踏み出す。
火が揺れ、
ナハトの手から消える。
俺は、
深く息を吐いた。
感情を……一度、飲み込む。
「……まだだ」
低く言う。
「お前には、まだ早い」
ナハトの顔が、
むっと歪む。
「だって……できたのに……」
「できることと、
使っていいことは違う」
はっきりと言う。
「時が来るまで……使うな」
ナハトは、
唇を尖らせる。
悔しそうに、
視線を逸らす。
「……つまんねぇ!」
そのまま、
家の方へ歩き出す。
俺は、
追わなかった。
代わりに、視線を感じる。
リルだ。
全部、見ていた。
何も言わず、
ナハトの後を追い……、
少ししてから、
家の中で声が聞こえた。
静かな声。
昔を語る声だ。
「……昔ね」
火のそばで、
リルは言う。
「森の民の中に、
火を持ってきた人がいた」
ナハトは、
拗ねたまま――だが、聞いている。
「すごく、きれいで、
暖かくて、
夜を怖くなくしてくれた」
少し、間。
「でもね……
火は、大きな獣を呼んだの」
ナハトの背中が、
わずかに固くなる。
「獣は、火を追ってきて、
森を荒らして、全部……燃やしてしまった」
炎が、
広がるような沈黙。
「そのままだったら……
私たちは全員……
死んでたかもしれない」
ナハトが、
小さく息を吸う。
リルは、
続けた。
「その時……
助けに来てくれた人がいた」
名は――言わない。
だが、
分かる。
「火の中から出してくれた。
獣を追い払って、
夜を、元に戻してくれた」
少し、笑う。
「だからね……
火は、悪いものじゃない」
目を閉じて、思い出すように続ける。
「でも――早すぎると、危ない」
ナハトは、
黙って聞いている。
両手を、
膝の上で握りしめて。
「……時が来たら」
リルは、
やさしく言う。
「ちゃんと……
教えてもらえる」
外で、
朝の光が強くなる。
俺は、
その気配を感じながら――
槍を立てかけた。
夜は、
確実に――形を変え始めている。
そして、
続いてきた火も――
次の段階に入った。
ーーーーー
眠りに就く前……。
村の中央。
石の柱が、光った。
刻まれた模様が、
内側から、静かに脈打っている。
俺は足を止めた。
……呼ばれている。
考えるまでもない。
俺は槍を地面に預け、
柱の前に立つ。
右手を伸ばした。
触れた瞬間――
視界が、裏返る。
闇がほどけ、
光が沈み、
上下の感覚が消える。
「……やあ、来たね」
声。
近い。
でも、触れられない距離。
「久しぶり、エア」
姿は見えない。
けれど、分かる。
忘れようとして、
忘れられなかった“気配”。
「……また、お前か」
低く言う。
声は笑った。
「“また”って言い方、ひどいな。
一応、心配してたんだけど?」
軽い。
やけに軽い。
それが逆に、
腹に引っかかる。
「……用があるなら、さっさと言え」
少し間があった。
「うん……そのつもりだよ」
声音が、
ほんの少しだけ真面目になる。
「ずっと見てた。君が戦い続けてるのも……削れていくのも……
……それでも、立ってるのも」
「やめろ」
遮る。
「そんな言葉を聞きたいわけじゃない」
「分かってる……」
即答だった。
「だから、考えてたんだ……
どうにかならないかって」
視界の端で、
線が組み上がる。
層。
重なり。
歪み。
「虚飾を抑える仕組みを作ってみた」
俺は眉をひそめる。
「……仕組み?」
「プログラム、って言った方が近いかな……?」
胸の奥が、
微かに跳ねた。
とてつもない違和感だった。
(……分かる)
その言葉の意味が。
なのに――なぜ分かるのかが分からない。
「……その言葉を、俺が理解できるのはなぜだ……?」
少し笑う気配。
「必要だから……それに、君は元々“外”を知ってる」
「知っている……だと?」
俺の疑問にそいつは答えない。
納得はできない。
だが進む……。
「たぶんね……それよりなんだけど」
声が切り替わる。
「残念ながら、それはうまく起動してない」
嫌な言い方だ。
「うまくねぇ……ならなんで今俺はお前と話せている? 平気そうに見えるが?」
「……ここじゃないのか」
「ここは何本かあるうちの一つさ。
アンカーはいくつかあって、“僕達”が世界を観測し、つなぎ止めるための物だからね」
「達? お前みたいなのが他にもいるのか?」
疑問をぶつける。だが男は相変わらずまともにとりあわない。
「ふふふ、秘密。
……もう一本、西にある」
景色が、一瞬だけ重なる。
目の裏を、見たこともない場所が入り込んでくる。
岩。
斜面。
――白。
薄く、
だが確かに。
雪。
俺は、その像から目を離さなかった。
「……雪が見えたぞ?」
短く言う。
「西だと言ったな?」
少しの間。
ほんの一拍。
それから――
少し楽しそうな声。
「鋭いね」
軽い。
「うん、西で合ってるよ」
即答だった。
「じゃあ、あの雪は何だ」
俺の声は低い。
「この辺りに、
そんな環境はない」
相手は、
少し考える素振りを見せる。
「うーん……」
間延びした声。
それから、
正直に言うように続けた。
「あっちは僕の担当じゃないんだ」
悪びれない。
「どういう目的で、
あんな土地にしたのかは、
僕もよく分からないんだ……てへ!」
俺は、何も返さなかった。
怒るほどの材料も、
納得するほどの説明もない。
「……つまり」
静かに言う。
「西に、アンカーがある。だがうまく動いていない。しかも寒い環境になってる」
「そういうこと」
即答。
「少なくとも、“位置”は合ってるね」
「それ以上は?」
少しの沈黙。
「今は、そこまでだね」
軽い声。
だが、
誤魔化しではない。
「君も分かってるでしょ?」
声音が、
ほんの少しだけ落ち着く。
「今の君は、
そこへ行けない」
俺は、柱に触れたまま動かない。
「当たり前だ……村がある」
「うん」
「子どもがいる」
「そう……だから」
声は、
はっきりしていた。
「今は動かなくていい」
――違う。
正確には。
動くべきじゃない。
「行けば、君が守るべきものが崩れる」
俺は、その意味を理解した。
「……西は」
言葉を選ぶ。
「急ぎじゃないのか」
少し、
困ったような笑い。
「急ぎじゃない、とは言わない」
正直だ。
「でも――今すぐじゃない」
「時間は、
“まだ”ある」
その“まだ”が、
いつまでかは言わない。
光が、
ゆっくりと薄れていく。
「だから今は」
声が、遠くなる。
「覚えておいて。雪のある西。
違和感のある場所……。
君が今見るべきなのは、“中身”じゃなくて――“向き”だ」
世界が、
元に戻り始める。
石の冷たさ。
土の匂い。
その直前、
もう一度だけ声が届いた。
「それと、これも覚えてて」
軽い調子。
「僕は、君の味方だよ」
断言だった。
理由も、
条件もない。
俺は言った。
「……なら」
短く。
「名前ぐらい、名乗れ」
間はなかった。
「ルクナス」
即答。
その瞬間。
胸の奥に、
小さな引っかかりが残る。
(……どこかで)
初めて聞いたはずなのに、
“知らない”と言い切れない。
考えかけた、その時。
「はい、ここまで」
声が区切る。
感覚が、
一気に引き戻された。
光が沈み、
上下が反転し、
光と闇が重なる。
俺は、
石の柱の前に立っていた。
右手は、
まだ触れている。
村は静かだ。
何も変わっていない。
それなのに――
胸の奥に、
名前だけが残っている。
(……ルクナス)
噛み合わない歯車が、
どこかで回り始めた。
そんな感覚だけが、
消えずに残った。




