第34話:木札の裏、父と長男
門の外。
夕日は、沈みかけている。
俺は立ち止まり、
リヒトだけを呼んだ。
「リヒト」
振り返る。
俺は、
首に下げた木札に触れた。
「お前も……同じものを持っている」
俺はそれを外し、
リヒトの前に差し出した。
「裏を見たことはあるか?」
リヒトは、
一瞬だけ考える。
「……ある」
当然だ。
「これに、罪の数を刻んで……
三つで……ここにはいられなくなる……」
淡々とした声。
俺はうなずいた。
「それだけか?」
リヒトは、
木札を裏返す。
刻まれた線を見つめ、
首を振る。
「……それ以上は、知らない」
俺は、
静かに言った。
「裏にある模様を見てみろ」
リヒトの視線が、
俺に戻る。
「ここに刻まれているのは……文字だ」
空気が、止まる。
「名前を刻むためのものだ」
俺は指でなぞった。
「ここには……ルゥと刻まれている」
リヒトの指が、
木札の縁を強く掴む。
「これは……お前の、もう一人の母のものだ」
リヒトの目が大きくなる。
「ルゥ……そう刻んである」
声が出そうになって、飲み込む。
俺は続けた。
「お前が生まれる前……
俺は、まだ……この力を持っていなかった」
槍の柄を、
指でなぞる。
ざらついた感触が、
嫌に現実を引き戻す。
「守るための力が、足りなかった……」
言葉が、
硬くなる。
「そして……守りきれなかった」
リヒトが、
短く息を吸う。
俺は目を伏せた。
「……ルゥは死んだ」
飾らない。
慰めも、
言い訳もしない。
それをした瞬間、
全部が嘘になる。
「俺が……間に合わなかった」
手の中に、
何も残らない感覚。
あの時の空っぽ。
俺は続けた。
「リルは……残った。
お前も……残った」
リヒトの眉が、
わずかに動く。
「……弟の母は?」
聞けないまま、
零れた問い。
俺は答えた。
「ナハトは……リルの子だ」
俺は向き直り、
肩に手を置いて、
目を見て話す。
「だがお前もリルの子だ……分かるな?」
リヒトは、
まっすぐ俺を見る。
頷いた。
「ナハトは……俺が、この力を得た後に生まれた」
だから。
「だから……ナハトだけが、違う?」
「そうだ……この力を……、
最初から持っている可能性がある」
沈黙。
受け止めようとしている。
だが、簡単じゃない。
俺は名を呼ぶ。
「リヒト、お前は……リルに似ている」
目が、
わずかに揺れる。
「ものわかりがよくて、
我慢ができて、
周りを……よく見てる」
苦く息を吐く。
「正直……助かる」
父として正しいかは、
分からない。
だが本音だ。
そして、逆を言う。
「ナハトは……ルゥに似ている」
睫毛が、震える。
「まっすぐで、
我慢が下手で、
考えるよりもまず……走る」
今日もそうだった。
草かげを見た瞬間の目。
止まらない足。
滑った土。
迫る角。
俺は槍を投げた。
間に合った。
だが、
その瞬間、
ナハトの手からも火が見えた。
偶然か。
恐怖の反射か。
それとも……芽か。
俺ははっきり言う。
「リヒト、ナハトには力があるかもしれない」
夕暮れが、
夜を先取りする。
「だが……それは、特別ってことじゃない」
俺は続けた。
「力を持つってのは、
選ばれたって意味じゃない。
ただ……危険が増えるだけだ」
槍を、
少しだけ強く握る。
「火は……燃えれば止まらない。
燃やすものを、選べない」
最初は、特に。
「だから……弟を見てやれ」
命令じゃない。
頼みだ。
「そのときが来れば分かる……
守れじゃない。支えてやれ」
言葉を重ねる。
「弟が、怖がったら……
怖がっていいと言え」
一つ。
「失敗したら……
失敗していいと言え」
二つ。
「悔しがったら……
悔しがっていいと言え」
三つ。
リヒトは黙って聞いている。
拳が、
かすかに震えている。
俺は、
頭を下げた。
深くはない。
だが、確かに。
「……すまない」
声が掠れる。
「本当なら……俺が教えなければならない。
力のことも……
火のことも……
……生き方も」
排他分の息を吸い込む。
そして、まっすぐに息子の目を見る。
「そして……お前にも、だ」
顔を上げる。
夕日の最後の光が、
リヒトの頬に残る。
「本当なら……
お前と、もっと話して、
お前と、もっと歩いて、
お前と……遊んでやりたかった……」
その言葉が、
胸の奥に沈みきる前に、
リヒトが、
ようやく口を開く。
「……俺は……」
止まる。
息を吸い直す。
「……父に……嫌われたくなくて」
目が潤む。
「だから……ちゃんと……
ちゃんとしないとって……」
声が崩れる。
「……俺が……我慢すれば……
……父が……家族や皆が……楽になると思って……」
それが、
一番、痛かった。
次の瞬間、
身体が動いた。
抱き締める。
強く。
逃げられないくらい。
「……馬鹿」
低い声。
責めじゃない。
止めるためだ。
「そんなこと、気にするな……」
言い切る。
「お前は……もっと、わがままを言えばいい」
腕に、
確かな力を込める。
「誰が何と言われようが、
お前は……俺の息子だ。
……誇りだ。俺とルゥの証だ」
間を置かない。
「他より出来るからじゃない。
わがままも言わず、一人で出来るからでもない」
額に、
軽く触れる。
「お前が……お前だからだ」
声が、少し柔らぐ。
「失敗を怖がるな。
恥を怖がるな」
抱きしめた腕に、
もう一度力を込める。
「どんな結果でもいい。
やりたいことがあれば、沢山やれ。
わがままを言って、それでいっぱい失敗をすればいい」
身体を離し、リヒトを見る。
「どんな事があっても、お前は……俺の自慢の息子だ」
その瞬間。
リヒトが泣いた。
声を殺せない。
腕が回る。
俺にしがみつく。
赤子みたいに。
俺は離さない。
離したら、リヒトはまた、同じ顔で耐える。
だが……。
空気が冷えるのを感じた。
闇が、動く。
俺はすぐに分かった。
「……下がれ」
短く、強く。
リヒトを背後へ押す。
背中から涙声で、届く。
「……また…………父と……狩りがしたい……」
俺は振り返らない。
だが、確かに答えた。
「……ああ、約束だ」
夜が来る。
俺が立つべき世界が、
本来の顔を取り戻す。
俺は一歩、前へ出た。
ーーーーー
夜は、長かった。
俺は父の背中だけを、見ていた。
槍を構える背中。
一歩、また一歩、正面から闇に近づいていく姿。
声はない。
振り返りもしない。
それでも、分かった。
あれは、
俺を前に出さないための背中だ。
闇が動くたび、
炎が揺れる。
赤く。
低く。
静かに。
父の火は、
叫ばない。
燃え上がらない。
ただ、
必要な分だけ、そこにある。
俺は息を殺していた。
怖かった。
闇が、じゃない。
父が、
このまま戻ってこない気がして。
でも、
背中は崩れなかった。
夜が削れていく。
黒が薄れ、
冷たい青が滲みはじめる。
朝が来た。
父は、
最後まで前を向いたまま、
闇を追い払った。
それから、
何も言わずに、戻ってきた。
「……帰るぞ」
それだけ。
俺は頷いた。
言葉は、
まだ喉に引っかかっていた。
村に戻ると、
最初に見えたのは、母だった。
リル。
走ってきて、
俺の前に立つ。
何も言わない。
ただ、
俺の首元を見る。
木札。
一つじゃない。
二つ、下がっている。
母は、
すぐに分かった。
何も聞かず、
俺を抱きしめた。
強く。
でも、優しく。
逃がさないように。
「……リヒト」
声が、
少しだけ震えている。
俺は抱き返した。
そのまま、
小さく聞いた。
「……母さん……ルゥは……どんな人だった?」
母の腕が、
一瞬だけ固くなる。
でも、すぐ緩んだ。
「私の……大事な友達」
そう言って、
少し笑った。
「勇敢だった」
空を見る。
朝の光を、
目で追う。
「どこからか……
見たこともないくらい、
おっきな人を連れてきたの」
その目は横にずれる。
「……あなたの父をね」
胸の奥が、
じんわり熱くなる。
知らなかった人。
会えなかった母。
でも、確かに繋がっている。
首の木札が、
少しだけ重く感じた。
それでも、嫌じゃなかった。
朝は、
ちゃんと来た。
父は戻った。
俺は、一人じゃない。
ーーーーー
ナハトは、
父の真似をしていた。
槍をそれっぽく構える。
危なっかしい。
俺は止めようとして、止まった。
昨夜、
見た背中が重なる。
前に出て、
何も言わずに立つ姿。
俺は同じ場所に立った。
ナハトの前。
父がいた位置に。
一歩、
前に出る。
足の置き方を、
少しだけ広くする。
腰を落とす。
腕を伸ばさず、
肘を残す。
握りは強すぎず、
逃がさず。
振らない。
まず、
構えだけ。
ゆっくりと、
同じ形を見せる。
ナハトの視線が、
俺の手に落ちる。
真似をする。
ぎこちない。
でも、
さっきより、ずっといい。
俺は、一度だけうなずいた。
「……こうだ」
それだけ。
ナハトは、
もう一度、構え直す。
さっきより、
少しだけ静かに。
俺は視線を外さず、
そのまま、前に立っていた。




