第33話:狩りの朝、火の兆し
森は、まだ朝の匂いを残していた。
湿った土。
踏みしめるたびに鳴る落ち葉。
遠くで、水の音。
ダックが、
川辺で身を低くした。
あの巨体が静かに沈み、
水面がわずかに揺れる。
俺はその頭に手を伸ばす。
「ありがとう……」
大きな頭を、
何度も撫でた。
ごしごしと。
遠慮なく。
ダックは、
小さい頃みたいにはしゃがない。
だが、
嬉しそうに、
「くるるる……」
低く、喉を鳴らした。
落ち着いた声。
成長した獣の反応だ。
「この辺りに居てくれ」
短く告げる。
ダックは動かない。
その場に座り込み、
俺たちを見送る姿勢を取った。
川を離れ、
森の奥へ入る。
音を殺す。
呼吸を揃える。
前にリヒト。
その後ろにナハト。
俺は一番後ろから、
ただ見守る。
教えない。
指示しない。
見るだけだ。
獣の気配。
枝が、
わずかに揺れた。
リヒトが止まる。
片膝をつき、
槍を構える。
距離。
風向き。
逃げ道。
迷いは、ない。
投げた。
低い音。
槍は、
獣の首元を
正確に貫いた。
倒れる音。
森が、
静まり返る。
しばらく、
誰も動かなかった。
俺は、リヒトの前に出る。
そして
頭を掴んだ。
「!?」
次の瞬間。
ごしごしと、
遠慮のない力で撫でる。
「よくやった」
低く、
だがはっきりと。
「間合いも、呼吸もいい。
躊躇がなかった」
もう一度、
頭を撫でる。
今度は少し乱暴に。
「十分だ」
それだけ。
リヒトは、
固まったまま。
耳まで赤い。
何か言おうとして、
言葉が出ない。
その横で、
「ちょ、ちょっと待てよ!」
声が跳ねた。
ナハトだ。
槍をぎゅっと抱え込んでいる。
「いまの、
オレが狙ってたんだ!」
足を踏み鳴らす。
「次! 次はオレが仕留める!」
悔しさと、
羨ましさと、
負けたくない気持ち。
全部が混ざって、
そのまま飛び出した声だった。
俺は、
そちらを見る。
一瞬だけ、
間を置く。
それから、
ナハトの頭にも、
手を伸ばした。
「順番だ」
短く。
だが、
突き放さない。
「次は、お前が狙え」
ナハトの目が、
一気に輝く。
「ほんと!?」
「ああ」
俺は、
ナハトの槍を見る。
握り。
構え。
立ち方。
まだ、甘い。
だが、
否定はしない。
「落ち着け。
狙う前に、息を殺せ」
それだけ教える。
ナハトは、
大きくうなずいた。
「わかった!」
即答だ。
リヒトは、
そのやり取りを見ていた。
胸の奥で、
少しだけ
ざわつく。
だが、
嫌な気持ちじゃない。
むしろ、
自分が立っている場所が、
はっきりした。
兄として。
先に立った者として。
「俺が手伝う」
思わず、
口に出た。
俺は、
ちらりと見る。
「余計な口出しはするな」
リヒトをいさめる。
だが、こうも告げる。
「背中は、見せてやれ」
それだけ。
リヒトは、
強くうなずいた。
ナハトは、
もう前しか見ていない。
槍を抱えて、
森の奥を
睨んでいる。
俺たち三人は、
再び歩き出した。
森は、
まだ広い。
狩りは、
まだ続く。
ーーーー
狩りは進んでいた。
だが、
成果はない。
理由は、はっきりしている。
ナハトだ。
息を殺すのがどうしても苦手だった。
踏み出す音。
草を踏む癖。
視線の動き。
全部が
早い。
速すぎる。
獲物は、
気配を感じ取る。
枝が揺れ、
影が走り、
気づけば何もいない。
それが、
三度続いた。
ナハトの歯が、
ぎり、と鳴る。
「……くそ」
声が、漏れた。
俺は、
止めなかった。
リヒトが振り返り、
何か言おうとして
やめた。
その瞬間だ。
近くの草かげが揺れた。
今までの獲物とは、
違う。
重い。
「……いた!」
ナハトの声が、
弾ける。
考えなしに、
前へ飛び出した。
「ナハト、待て!」
自分の声が、
低い。
焦っているのが分かる。
間に合わない。
ナハトは、
もう走っている。
リヒトも、
反射で手を伸ばした。
「ナハト!」
届かない。
草かげが割れた。
現れたのは、
二本の角。
太く、
前へ張り出した
双角牛。
肩は岩のようで、
蹄が地面を抉る。
目が、
赤い。
そこでようやく、
ナハトは理解した。
(……でかい!?)
だが、
止まれない。
反射で方向を変えようとして、
足が、滑った。
湿った土。
踏み外し。
地面に倒れる。
息が詰まる。
視界いっぱいに迫る角。
「っ……!」
声にならない音。
次の瞬間、
槍に火を込める。
投げる。
一直線。
空を裂き、
迷いなく飛ぶ。
槍先に、
白い火。
突き刺さる。
角の付け根。
その瞬間、
ツインホーンは燃え上がった。
内側から
爆ぜるように。
火は他に広がらない。
獣の輪郭をなぞるように、
一気に白へ変える。
咆哮は、
途中で途切れた。
倒れる音。
地面が、
低く震える。
ナハトは、
呆然と座り込んだまま。
だが、俺は見た。
ナハトの手。
震える指先。
一瞬だけ……。
そこからも、
火が漏れたように見えた。
ほんの、
火花ほど。
だが、確かに。
ナハトは、
自分の手を握り締める。
「……え?」
声が、
小さく揺れる。
俺は駆けた。
ナハトの前に立ち、
即座に庇う。
リヒトも、
遅れて来る。
ナハトを強く、引き寄せた。
「大丈夫か!」
声が、震えている。
ナハトは、
答えられない。
ただ自分の手を見ている。
俺の視線は、
そこから離れなかった。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
胸の奥が、
沈む。
(……やはり、か)
だが今は何も言わない。
槍の火を、
静かに消す。
森が急に、静かになる。
ツインホーンの骸だけが、
そこに横たわっている。
ナハトが、
ようやく息を吐いた。
「……ごめんなさい」
小さな声。
リヒトは、
強く抱き締める。
離さない。
俺は、
二人の前に立ったまま、
低く言った。
「……帰るぞ」
それだけ。
だが、これは狩りを終わらせる言葉じゃない。
もっと先の“話”を始めるための声だった。
ーーーーー
夕暮れだった。
空が、低くなっている。
昼の色が抜け、
夜が近づいてくる時間。
ダックの背で、
俺たちは村へ戻った。
森を抜け、
柱が見え、
家々の影が伸びる。
焚き火の煙が、
まっすぐ上がっている。
気づいたのだろう。
人の気配が、
門の方へ集まる。
最初に出てきたのは、
リルだった。
走らない。
だが、
足が早い。
「……おかえり」
視線が、
すぐに獲物へ向く。
二本角と鹿の骸。
一瞬、
息を飲んだのが分かった。
俺は、
短く言った。
「リヒトだ」
それだけ。
リヒトは、
背を伸ばした。
「鹿だけ。角は父が仕留めた……」
胸を張らない。
喜びを声に出さない。
だが隠しきれない。
肩の位置。
視線の高さ。
誇らしさが、
確かにそこにある。
少し離れた場所で、
ラルが立っていた。
森人の何人かと一緒に、
こちらを見ている。
表情で分かる。
あれは、
褒めている顔だ。
ナハトは、
ダックの背で
うつむいていた。
悔しさが、
そのまま形になっている。
俺は、
ナハトの頭に手を置いた。
少し、
強めに。
「……また次がある」
それだけ。
ナハトは、
顔を上げない。
だが、うなずいた。
俺はダックから降りる。
地面に足をつけ、
重さを戻す。
「ナハト。
ダックを戻してくれ」
一瞬、
迷い。
それから小さく、息を吸う。
「うん」
声が、
少しだけ明るい。
ダックも、
大人しく身を低くする。
状況を分かっている。
命令じゃない。
役目だ。
ナハトが手綱を取る。
ダックは、
従った。
誇らしげでもなく、
不満もなく。
ただ受け入れている。
俺は、
獲物を担ごうとしたリヒトを呼び止めた。
「リヒト」
足が、
止まる。
「それはいい。
任せろ」
近くにいた者を呼び、
獲物を渡す。
「……来い」
短く。
理由は言わない。
リヒトは、
何も聞かずについてきた。
門を抜ける。
村の外。
夕日が、
沈みかけている。
赤い光が、
地面を舐める。
夜が、
もうすぐそこだ。
俺は、
立ち止まった。
リヒトも、
止まる。
言葉はまだ、出さない。
父と、
長男の……火の外で、
するべき話がある。




