第30話:白の中で、託されたもの
白い世界は揺れて、静まった。
音が、
一段遠くなる……。
俺は、
立ったままだ。
痛みは、
ない。
疲れも、
ない。
だが、軽くなってはいない。
胸の奥に、
全部、残っている。
「これは……夢か?」
そう言うと、
背後の気配が少し、動いた。
「夢なら、
君は立っていない」
淡い声。
近いのに、
距離がある。
振り返る。
そこにいる。
人の形。
だが、
境目が、曖昧だ。
影でも、
光でもない。
「……お前は、誰だ」
問う。
名を――
「今は教えられない……」
短い否定。
真剣な声で、
静かに男は首を振る。
だが次には、
柔らかい声色を発した。
「時間が、ないからね」
一拍。
そしてまた、
真剣な声で告げる。
「東へ行きなさい」
はっきりとした喋り方で、
淡々と続ける。
「そこに、
“アンカー”がある。
辿り着ければ、
あの子は、助かるかもしれない」
「……助かるのか?!」
問いは、
震えていない。
だが、
答えを、恐れている。
「約束は、できない……」
即答。
「でも、
立ち止まれば、
何も残らない」
白い空気が、
わずかに軋む。
「君の場所は、
もう、分かっている。
急ぎなさい」
世界が、
崩れ始める。
白が、
割れた。
ーーーーー
次の瞬間、
名前が落ちてくる。
「……エア……!」
近い。
必死に抑えた声。
俺はゆっくり、
目を開いた。
森。
湿った土。
覆いかぶさる影。
リルが、
すぐ傍にいる。
その後ろ、
ラル。
立ったまま、
何も言わず、
こちらを見ている。
俺は起き上がろうとして、
頭を押さえた。
……重い。
靄が、
まだ、残っている。
視界が少し遅れて、
ついてくる。
「……平気か?」
ラルの声。
低い。
俺は一度、
息を吐いた。
「……ああ」
だが、
確信はない。
胸の奥に、
白が、残っている……。
言葉。
方向。
“東”。
(……考えるな)
今は考える時間じゃない。
俺は立ち上がった。
ダックの方へ向かう。
背に積まれた荷。
革袋。
干し肉。
道具。
全部、
外した。
一つずつ、
地面に置く。
「……エア?」
リルが、
戸惑った声を出す。
俺は振り返らない。
「ここで休め」
荷を全部、下ろす。
軽くなったダックが
一歩、前に出た。
俺はその背に乗る。
そして、
皆を見る。
リル。
ラル。
子どもたち。
「東へ行け」
はっきりと。
槍で地面に、
線を引く。
「……俺は、この先にいる」
間を置く。
言葉を選ばない。
「十分休んでから、来い」
ラルが、
何か言おうとして、
口を閉じた。
理解した目だ。
俺はダックの首を叩く。
合図。
次の瞬間――
走り出した。
森が後ろへ、
流れる。
風が、
頬を打つ。
振り返らない。
振り返れば、
迷う時間が生まれる。
だから、
前だけを見る。
東。
ただ、
それだけだ。
ーーーー
ダックは黙って、
走り続ける。
背でルゥを、
支えながら。
揺れは、
最小限。
だが呼吸は、
浅い。
俺は首元に手を回し、
体を寄せた。
離れないように。
落ちないように。
森は途切れない。
木。
枝。
影。
だが、
風が変わった。
湿り気が、
薄れる。
匂いが違う。
俺は前を見る。
森の向こう、
空に向かって
一本だけ、伸びている。
異様に、
まっすぐ。
近づくにつれ、
それが
影ではないと分かる。
石。
巨大な石の柱。
根元は、
まだ見えない。
森を突き破り、
空へ突き刺さっている。
上は雲に、
届いている。
(……高すぎる)
自然じゃない。
俺は無意識に、
息を止めていた。
胸の奥が、
ざわつく。
“アンカー”。
(……これか)
だが確信はない。
確信できるほど、
優しい形をしていない。
石の表面は、
削られている。
ダックが、
わずかに速度を落とした。
本能だ。
警戒している。
俺はその首を、
軽く叩いた。
「……大丈夫だ」
自分に言うように。
石の柱は、
音を立てない。
風を遮るだけだ。
だが、
そこだけ、
空気が違う。
冷たくもない。
暖かくもない。
(……重い感じだ)
俺は、
ルゥを見る。
目は、
閉じたまま。
だが、
指が、
わずかに動いた。
俺の服を掴む。
弱く。
確かに。
「……来たぞ」
誰に向けた言葉か、
分からない。
石の柱は黙って、
そこに立っている。
逃げ場ではない。
だが避けても、
意味はない。
俺はルゥを抱えて、
ダックから降りた。
すると、
柱に刻まれた刻印が
光を放つ。
呼ばれている気がした。
意思の柱に近寄ると、
光が、
あふれた。
目を閉じる間もなく、
視界が白に、
塗り潰される。
落ちてはいない。
抱いた感触が、
まだ、腕にある。
重さ。
温度。
息。
ルゥだ。
俺は、
離さない。
白の中で、
足裏に感触が戻る。
地面。
土じゃない。
石でも、
草でもない。
“場所”そのものだ。
前に、
人がいる。
今度は、
曖昧じゃない。
輪郭がある。
表情がある。
年は分からない。
若く見える。
ただ目だけが、
静かだ。
優しい。
「ちゃんと辿り着けたね」
声ははっきりしている。
遠くない。
近すぎない。
俺は睨んだ。
「……お前が、呼んだのか」
答えは、
少し、遅れた。
否定でも、
肯定でもない。
「“呼んだ”というより、
“待っていた”のほうが正しいかな?」
いや、違う。
そんなことが聞きたいんじゃない。
一歩、
踏み出す。
抱いた腕に、
力を込める。
「ルゥは、どうなる?」
男がゆっくり、
手をかざした。
触れない。
触れられない距離。
白が、
ルゥの輪郭をなぞる。
一瞬。
男の表情が、
わずかに揺れた。
「……残念だけど」
その声は、
誤魔化さない。
「肉体は、
“アレ”に深く侵されている」
俺の喉が、
鳴った……。
否定の言葉は、
出ない。
出せない。
分かっていた。
走っている間も。
息を感じている間も。
分かっていた。
「……治せないのか?」
短く、
吐き出す……。
男は首を振った。
小さく。
確実に。
「戻すことは、できない。
肉体はもう、
この“世界に属していない”」
胸の奥が、
沈む……。
だが、
終わりじゃない。
俺は腕を、
緩めなかった。
「……じゃあ、
無駄だったってことかよ…」
男は俺を見る。
逃げない目で。
「魂は、
まだ、ここにある」
ルゥの胸元を示す。
「アレを僕たちは、
“虚蝕”と呼んでいる。
世界のすべてを削る存在だ。
でも、
まだこの子の魂にまでは、
届いていない……だから」
白の中で、
空気が静まる。
「この子の魂は、
僕が預かろう」
俺の指が、
震えた。
「……預かる?」
「守る。
壊れない場所で」
優しい声。
「この世界は、
もう、内側に
虚蝕が入り込んで、
削られている」
一歩、
男が近づく。
「僕は、
虚蝕をどうすることもできない」
その目に、
長い時間が映っている。
「だから、
君に、頼みがある」
来る。
分かっている。
代償のある優しさだ。
それでも、
聞く。
「……何だ」
男は、
少し微笑んだ。
「僕の代わりに、
この世界を守ってほしい」
白が、
わずかに軋む。
「入り込んでいる虚蝕は、
どうにもできない。
でも、
世界の内側にいる君なら、
対処できる」
俺は、
視線を落とす。
腕の中。
ルゥ。
呼吸はもう、
浅い……。
俺は顔を上げた。
「……それだけか?」
声は低い。
「代償は?」
白の中で男は、
目を伏せた。
誤魔化さずに告げる。
「強いて言うなら――」
目を開き、
こちらを見る。
「君は、
永劫に近い時間を、
生き続けることになる」
言い切り。
救いの言葉じゃない。
事実を並べるように続ける。
「終わりは、
選べなくなる」
白が、
静かに重くなる。
「守るという行為を、
“終われない形”で、
続ける」
俺は笑わなかった。
「……終わりのない地獄か……」
男は小さく、
息を吐いた。
「そうだね……」
否定しない。
「でも」
視線が、
ルゥへ落ちる。
「その代わり、
約束しよう」
白が、
ほんのわずか柔らぐ。
「君は、
また、この子に会える」
俺の指が、
強く握られた。
「魂は、僕が守る。
そして生まれ変わる。
その先も、
必ず僕が見守る」
声が、
確かになる。
「世界が続く限り。
君が役目を果たす限り」
俺はルゥを見た。
呼吸は、
ほとんど分からない。
それでも温もりは、
まだあった……。
俺は、
ゆっくり息を吸った……。
そして言った。
「……やる」
迷いは、
もうない。
「守る。
全部だ」
男は、
深く頷いた。
「ありがとう」
その言葉は、
託す声だ。
白が、
ほどけていく。
腕の中で、
ルゥの体が、
さらに軽くなった。
……いや。
違う。
軽くなったんじゃない。
「……」
俺は息を止めた。
ルゥが、
わずかに目を開いた。
焦点は合っていない。
もう、
世界をちゃんと見ていない。
俺を、
見た。
口元が、
ほんの少し動く。
声は出ない……。
けれど、
分かる。
笑っている。
次の瞬間。
その視線が、
ゆっくり下に落ちた。
俺も反射的に、
追う。
……そこに。
腕の中。
俺と、
ルゥの間に、
小さな命があった。
泣いていない。
動いてもいない。
ただ確かに、
そこにいる。
温かい。
どんな陽射しより。
どんな炎よりも。
柔らかくて、
優しい温もり。
胸の奥が、
壊れた。
「……あぁ、
……わかった」
その先は、
声にならない。
視界が、
歪む。
落ちた。
一滴。
頬を伝って、
その温もりに、
吸い込まれる。
ルゥが、
もう一度笑った。
今度は、
はっきりと。
そして、
消えた。
音もなく。
抵抗もなく。
最初から、
そこにいなかったみたいに。
残ったのは――
腕の中の、
小さな重さ。
俺は、
動けなかった。
泣き声も。
言葉も。
ただ、
抱き締めた。




