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第2話:火は、まだ生きていた


火は、まだ生きていた。


灰の下で赤く燻る光を見て、俺は小さく息を吐く。

夜が来たのか、空は薄く色を変えている。


俺は立ち上がり、そばに立てかけていた一本の棒を手に取った。


先端は尖っている。

石で削り、火で炙っただけの、簡素な槍だ。

重さも、バランスも、正直よくはない。


それでも――ないよりは、ずっといい。


俺はそれを握ったまま、右肩に視線を落とした。


……違和感がある。


布を解く。


血に濡れていたはずの傷口は、

すでに塞がっていた。


完全に跡が消えたわけじゃない。

皮膚はまだ赤く、触れれば痛む。


だが――

あの深さの傷が、これだけで済んでいるのは、おかしい。


俺は、昨夜使った葉を見た。


噛み潰し、傷に当てた、あの草。

火のそばに、まだ数枚残っている。


拾い上げ、指先で弄ぶ。


「……コイツのおかげか……?」


答えはない。


だが、否定する理由もなかった。


この世界では、

生き延びた事実だけが、正解だ。


俺は槍を肩に担ぎ、湖の周囲を見回した。

静かだ。


水面には、何かが跳ねた痕跡。

小さな生き物だろう。


――食える。


そう考えた瞬間だった。


ぐぅ。


腹が、はっきりと鳴った。


「……そうだな……」


昨日から、何も口にしていない。

体はまだ熱を取り戻しきっていない。


食わなきゃ、動けない。

動けなきゃ、死ぬ。


俺は槍を握り直し、湖畔へと歩き出した。


足取りは、まだ不安定だ。

だが、止まる気はなかった。


火。

水。

刃。

薬になる葉。


この世界には、

使えるものが、確かにある。


それを拾い、

組み合わせ、

生き延びる。


それだけだ。


湖面に、小さな影が走る。


俺は息を殺し、槍を構えた。


――狩りだ。


湖面は、思ったよりも澄んでいた。


浅瀬の方へ近づくと、

水の中を小さな影が走るのが見える。


魚だ。


細長い体。

群れで動き、時折、光を反射させる。


俺は息を殺し、膝を折った。

水面に映る自分の影が、ゆらりと揺れる。


――焦るな。


槍を構え、動かない。


魚は、人の気配を知らないのか、

それとも、この世界ではまだ「恐れる」という概念が薄いのか。


ゆっくりと、間合いに入ってくる。


一瞬。


腕を振り下ろした。


水が弾ける。


「……っ!」


手応え。


槍の先が、何かを貫いた感触。


引き上げると、

銀色の魚が、ばたばたと暴れていた。


小さいが、確かに――獲物だ。


「……よし」


声が、自然と漏れた。


岸に戻り、石で頭を叩いて動きを止める。

内臓を取り出し、水で洗う。


手はぎこちない。

だが、不思議と嫌悪感はなかった。


火のそばに戻り、

尖らせた枝に魚を刺す。


炎の上にかざすと、

じゅ、と音を立てて脂が落ちた。


匂いが、立ち上る。


焼けた皮。

温かい油の香り。


ぐぅ、と腹が鳴る。


待ちきれず、口を近づけた。


熱い。


だが、構わない。


歯を立てる。


ぱり、と皮が裂け、

中から柔らかな身が現れる。


「……うまい」


思わず、そう呟いていた。


塩もない。

味付けもない。


それでも、

口の中に広がる熱と脂が、

体の奥へ染み渡っていく。


噛むたびに、

命を取り込んでいる感覚が、はっきりと伝わってくる。


胃に落ちていく重み。

体が、内側から温まっていく。


「あぁ……」


知らず、息が漏れた。


生きている。


今、この瞬間、

確かに俺は、生きている。


空を見上げる。


雲は、相変わらずゆっくりと流れている。

何も知らない顔で。


だが、もういい。


この世界が何であれ、

ここにある命を食い、

火を起こし、

傷を癒し、

また腹を空かせる。


それでいい。


俺は骨だけになった魚を、火の中へ放り投げた。


炎が、ぱち、と弾ける。


次は、もっと大きい獲物だ。

あるいは――

別の食い方かもしれない。


槍を握り直し、

俺は再び湖の方へ視線を向けた。


――その先。


上から見た時、

森はどこまでも広がってた。


果てが見えないほどの緑。


だが――

水がある。

どこから流れ出す川がある。


水があれば、生き物が集まる。

生き物が集まるなら――

どこかに、同じように生きている存在がいるかもしれない。


俺は火を見下ろし、残った枝の量を確かめる。

石のナイフの刃を、指先でなぞる。

槍の先端を、もう一度だけ火で炙る。


準備は、まだ足りない。

だが、整えながら進むしかない。


「……もう少し、だな……」


呟きは、誰にも届かない。


もう少し準備を整えたら――

川を下る。


なんとか、ここから出ないと……。


そう考えながら、俺は森の中へ足を踏み入れた。


湖から離れるにつれ、空気が変わる。

湿り気が増し、土と葉の匂いが濃くなる。

足元は柔らかく、踏みしめるたびに小さく沈んだ。


俺は周囲を注意深く見回しながら、昨夜使った薬草を探した。

あの清涼感のある匂い。

覚えている。


岩陰。

倒木の根元。

湿った土の上。


同じ草が、いくつも見つかった。


葉を数枚ちぎり、腰に巻いた布に包む。

動きは慎重だが、もう迷いはない。


――使える。


そう判断したものは、確保する。

それだけだ。


さらに森の奥へ進むと、

低い枝の先に、丸い実がぶら下がっているのが目に入った。


青い。


表皮は硬そうで、表面に薄い粉を吹いている。

リンゴに似ているが、見たことのない色だ。


俺は一度立ち止まり、匂いを確かめた。


……甘い。


鼻をくすぐる、はっきりとした果実の香り。

腐敗臭ではない。

刺激もない。


槍の先で軽く突く。

実は簡単に落ち、地面に転がった。


拾い上げる。


重みは十分。

表皮に傷を入れると、ぱき、と音がした。


割れた。


中は――紫だった。


濃く、深い色。

だが、そこから立ち上る香りは、さらに甘い。


俺は少しだけ指で掬い、舌に触れさせる。


……問題ない。


思い切って、かじった。


しゃく、と音がして、

果汁が口の中に広がる。


甘い。


酸味は弱く、えぐみもない。

体に、すっと染み込んでいく感じがする。


「……食えるな……」


もう一口。


噛むたびに、疲労が少しずつ薄れていく気がした。

腹の奥が、静かに満たされていく。


俺は残りの実も確認し、いくつか採って布に包んだ。


魚。

果実。

薬草。


これで、少しは持つ。


森の奥から、風が吹いた。


葉が擦れ、どこかで枝が鳴る。


俺は槍を握り直し、反射的に周囲へ視線を走らせた。


……違う。


音は、地上じゃない。


空だ。


直感がそう叫んだ瞬間、背筋が冷えた。


俺は咄嗟に焚き火を蹴り崩し、森の影へ身を投げた。

燃え残った枝が転がり、火が小さく散る。


次の瞬間。


空気が、震えた。


ばさり、という音。

いや、そんな軽いものじゃない。


重い。

空そのものが叩き落とされるような圧。


巨影が、頭上を覆う。


俺は息を殺し、木の根元に身を押し付けた。


――降りてきた。


大きい。


翼を広げれば、木々を超える。

羽毛は黒く、ところどころに硬い鱗のようなものが混じっている。

嘴は太く、先端が鋭く曲がっていた。


怪鳥だ。


それは地面に降り立ち、まず焚き火の跡を見た。


首を傾げる。

不思議そうに、灰と燻る炭を覗き込む。


低く、喉を鳴らす音。


次に、周囲を見回した。


俺の方を見るな。

そう祈るように、体を縮める。


怪鳥は視線を巡らせたあと、

湖へ歩み寄り、首を伸ばして水を飲んだ。


ごくり。

ごくり。


喉が動くのが、はっきり見えた。


やがて、興味を失ったのか、

大きく翼を広げる。


風が巻き起こり、葉が舞った。


一度。

二度。


そして――


怪鳥は、空へ舞い上がった。


羽音が遠ざかり、

再び森に、静けさが戻る。


俺は、しばらく動けなかった。


心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。


……今のは。


焚き火を見た。

水を飲んだ。

それだけだ。


だが。


もし、俺を見つけていたら。


そう思っただけで、喉が乾いた。


俺はゆっくりと息を吐き、

再び槍を握り直した。


火は、もう派手には使えない。


――この世界では。


空も、安全じゃない。

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