第27話:影は来ない、とは限らない
夜
風は弱く、
火は高くも低くもならない。
安定している。
それだけで、
ここが“家”だと分かる。
俺は焚き火のそばに腰を下ろし、
刃を拭いていた。
今日使った石ナイフ。
血はもう落ちている。
だが癖で、もう一度。
火の向こうで、
子どもたちが騒いでいる。
「おい!それ俺の!」
「ちがう!さっきからあった!」
「エアが見てる!」
「「「……ッ!」」」
名前が出た瞬間、
ぴたりと静かになる。
俺は顔を上げない。
それでいい。
叱る必要もない。
火の近くには、
トゥー種もヴァル種も混ざっていた。
以前みたいな線は、
もう引かれていない。
誰がどこに立つかより、
誰が何をするかの方が
大事になっている。
肉を切る者。
皮を干す者。
骨を割る者。
役割が、
自然に分かれていた。
ルゥは焚き火の少し外。
腹に手を当て、
座っている。
重そうだが、
無理はしていない。
「今日は、あったかい」
はっきりした声。
前よりも、
言葉が整っている。
俺は頷く。
「風がないからな」
「うん」
それだけで、
会話になる。
ルゥは腹を撫でた。
ゆっくり。
何度も。
「動く」
そう言って、
小さく笑う。
「よく動く」
俺は、
それを見ていた。
言葉は出ない。
ただ――ここにいる。
それだけで、
足りていた。
焚き火の向こうで、
ラルが薪を足す。
音を立てない。
慣れた手つき。
あの槍は、
今は立てかけられている。
使うためじゃない。
ここにあるというだけでいい。
ミオとバルが、
並んで肉を干している。
動きが、
同じだ。
どちらが先でもなく、
どちらが後でもない。
時々、
視線が合う。
何も言わず、
また作業に戻る。
子どもが一人、
転んだ。
泣き声。
すぐに、
誰かが抱き上げる。
トゥー種だ。
だが、
ヴァル種の子だ。
誰も気にしない。
泣き声は、
すぐに止んだ。
焚き火は、
揺れ続ける。
消えない。
俺は刃をしまい、
立ち上がった。
空を見る。
星がある。
数が、
増えた気がする。
気のせいだ。
でも――そんな気がした。
「エア」
ルゥが呼ぶ。
俺は振り返る。
「明日も、狩り?」
「ああ」
「……気をつけて」
それだけ。
だが――今までより、
少しだけ重い。
俺は頷く。
「すぐ戻る」
約束じゃない。
ただの、
事実だ。
焚き火の火が、
ぱち、と鳴る。
子どもたちは、
眠くなり始めている。
一人、
また一人。
抱えられて、
家へ戻っていく。
夜は、
深くなる。
静かだ。
危険は、
どこにもない。
少なくとも、
今は。
俺は焚き火のそばに戻り、
腰を下ろした。
火は、
続いている。
この場所も、
続いている。
この先も…
そうだと――信じていた。
ーーーーー
朝。
外が、
ざわついている。
声。
足音。
興奮。
隣でルゥが、身じろぎする。
「……なに?」
寝起きの声。
腹に手を当て、
首をかしげた。
俺も同じだ。
嫌な匂いは、ない。
血の気配も――遠い。
「見てくる」
短く言って、
外へ出た。
空気が――軽い。
集落の中央。
人が、
集まっている。
歓声に近い声。
その中心に――ラルがいた。
角グマ。
倒れている。
でかい。
硬い毛。
欠けた角。
間違いなくゴブリン達にとっても危険な獲物だ。
ラルは、
その死体の上に乗っていた。
胸を張り、
吠える。
誇示だ。
周りでは数体が、
角グマの脚を担いでいる。
「やった!」
「ラル、すごい!」
「つよい!」
子どもたちが、
跳ねる。
トゥー種も、
ヴァル種も――関係ない。
ラルは――
俺を見た。
視線が、
一瞬――揺れる。
誇らしげに胸を張り、
槍を掲げた。
俺は――
頷いた。
それだけで、
十分だった。
角グマは――
焚き火の前へ運ばれる。
血の匂い。
だが――嫌じゃない。
祝いだ。
「……鎧、いるな」
俺が言うと、
周りがざわつく。
ラルの耳が、
ぴくりと動いた。
理解したらしい。
角グマの皮。
骨。
角。
守りになる。
俺が始めた角グマを仕留めた時のように、
鎧を頭の中で組み立てる。
戦士への贈り物として。
その日は、
久しぶりに――笑い声が多かった。
肉が焼ける。
油が落ちる。
火が鳴る。
ルゥは、
焚き火の少し後ろ。
腹を撫でながら、
座っている。
穏やかな顔だ。
「ラル、つよい」
そう言って、
少し笑った。
俺は――
焚き火の向こうを見る。
空。
この時は――
まだ、気づかなかった。
だが、その日からだ。
上空に、
影が集まり始めた。
最初は一つ。
雲の影かと、
思った。
だが――違う。
動く。
風と、
関係なく。
日が変わるごとに――増えた。
二つ。
三つ。
十。
黒い染みが、
空に浮かぶ。
だが――降りてこない。
焚き火が、
燃えている限り。
光の輪に、
近づけない。
夜。
影は――焚き火の外を、
回るだけだ。
獣のように。
試すように。
誰も――襲われない。
子どもも、
大人も。
集落は――無事だった。
だから誰も…気づかなかった。
「近づけない」のと、
「来ない」は…違うということに。
俺は焚き火を足す。
火を、
絶やさない。
空を――見上げる。
影は――
増え続けていた。
ーーーーー
昼。
集落の外れに――気配が現れた。
一体。
ヴァル種のゴブリンだ。
皆が動きを止める。
手が止まり、
声が消える。
警戒。
だが――そいつは、近づいてくる。
歩き方が、
遅い。
重い。
ラルが――前に出た。
槍を構える。
低く――唸る。
[止まれ]
ゴブリンの言葉、
鳴き声だ。
はっきりと、
通じる声。
だが――止まらない。
距離が、
縮む。
ラルは――さらに一歩、前へ。
槍先を、
向ける。
[止まれ]
もう一度。
それでも――歩みは、止まらない。
表情がおかしい…。
焦点が、
合っていない。
ラルが刺そうとした。
その瞬間。
俺は――ラルを引き戻した。
強く。
「違う」
短く言う。
「ゴブリンじゃない」
そいつは――俺を見ない。
見るはずの目が、
何も見ていない。
中に…いる。
影だ。
死体の中に、
入っている。
俺は手を上げた。
合図。
皆が一斉に、下がる。
子どもたちを、
後ろへ。
大人が壁になる。
俺は地面に立ててあった、
適当な槍を取る。
焚き火へ。
穂先を突っ込む。
火が、
走る。
赤く、
燃える。
そいつはまだ、歩いてくる。
手を――伸ばした。
俺は躊躇わない。
踏み込み、
突き刺した。
胸。
次の瞬間、
割れるような――悲鳴。
ガラスが、
砕ける音。
耳を刺す。
空気が震える。
子どもたちが耳を塞ぐ。
大人も顔を歪める。
影が――抜ける。
黒い何かが、
火に焼かれて…霧散した。
音が消える…。
倒れる。
どさり、と。
残ったのは――
ただの、死体。
腐りかけの、
ゴブリンの亡骸。
俺は槍を引き抜く。
火が、
ぱち、と落ちる。
誰もすぐには、動かなかった。
昼の光の下でそれは、起きた。
影は…夜だけのものじゃない。
俺は空を見上げた。
影は――そこに、いなかった。
だが。
(……来てる)
確実に――
近づいている。
その日。
俺は…初めて、はっきりと命令を出した。
「木を集めろ!」
短く。
強く。
意味はすぐに伝わった。
トゥー種も、
ヴァル種も、
同時に動く。
森へ。
倒木へ。
枝へ。
運ぶ。
引きずる。
積み上げる。
俺は外周を決めた。
円だ。
集落を、
一段囲う。
太い木を、
地面に打ち込む。
斜めに。
外へ向けて。
尖らせる。
即席のスパイク。
獣用。
だがそれだけじゃない。
隙間は、
狭くする。
人が、
一人通れる程度。
逃げ道は、
残す。
だが――入り口は、限る。
次に見張り台。
高い木を、
三本。
組む。
縛る。
登れるようにする。
上には火を灯す。
夜でも、
見えるように。
焚き火とは、
別の――光。
皆は何も言わない。
だが――顔が違う。
理解している。
「来る」と。
日が――沈む。
焚き火が、
赤くなる。
見張り台の火が揺れる。
静かだ。
風だけが動く。
(……正解だった)
そう思ったのは…夜が、深くなってからだ。
最初に来たのは――音。
がさ。
がさがさ。
草を踏む――重い足音。
獣だ。
だが様子が、違う。
吠えない。
唸らない。
息の音が――不規則だ。
見張りが低く、声を出す。
合図。
俺は――壁の内側で、槍を握る。
次の瞬間。
影が、
飛び出した。
狼に似た――獣。
だが…目が、黒い。
反射しない。
体が不自然に、引き伸ばされている。
影が皮膚の内側で、
蠢いている。
ただの獣じゃない。
スパイクに――突っ込んだ。
ずぶり。
肉が裂ける音。
だが――止まらない。
突き刺さったまま前へ進もうとする。
狂っている。
俺は叫ばなかった。
指示だけを――出す。
手を、
振る。
火。
見張り台から松明が、投げられる。
燃える枝。
獣に当たる。
次の瞬間――悲鳴。
昼の時と同じ音。
ガラスが割れるような、
甲高い音。
影が逃げる。
皮膚から、
剥がれるように。
獣はその場で、崩れた。
死体だ。
ただの――死体。
だがそれで、終わらない。
次、そして次。
闇の中からいくつも。
獣。
何か分からないもの。
影を宿した生き物の死体。
だが――入れない。
スパイク。
火。
高所。
全部が――効いている。
焚き火の光に――近づけない。
影は――光を、嫌う。
夜が――終わるまで。
俺たちは――守り切った。
死者は――出なかった。
だが――分かった。
これは…始まりだ。
影は、
試している。
この集落を。
俺は、壁の外に転がる獣の死体を見た。
そこに影はもう、ない。
(……次は、もっと賢いのが来る)
槍を強く、握った。
この場所はもう…狙われている。




