第19話:代わりに、立つ
夜が明けた。
静かだった。
あれから――
影は、来なかった。
川の方を見る。
焼け残った体。
黒く焦げた地面。
火の跡が、そのまま残っている。
(燃やしきれなかったか……まあ、いい)
全部消える方が、
かえって不自然だ。
「……さすがに、眠いな」
目の奥が重い……視界が、少し霞む。
一晩中、
起きていた。
火を見て、
森を見て、
川を見て。
音が変わるたびに、
体を起こした。
何も来なかった。
それだけだ。
寝床の方で、
気配が動く。
新しく用意した、マルタの屋根を並べた小屋。
そこから――
ルゥが、顔を出した。
目が合う。
一瞬、
ためらいが走る。
それでも――
視線は逸らされない。
「……エア」
名前だけが、
はっきり聞こえる。
それ以外は、
まだ曖昧だ。
意味じゃない。
音として。
呼ぶことだけを、
覚えたみたいに。
距離は――
前より、近い。
俺は、
何も言わずに立ち上がる。
槍を取る。
軽い方だ。
細くて、
取り回しがいいやつ。
柄を、
ルゥに向ける。
「……これ、持ってろ」
短い言葉。
全部は、
分からなくていい。
渡す。
守る。
それだけ伝われば。
ルゥは、
一瞬きょとんとした顔をして――
それから、槍を見る。
俺を見る。
もう一度、槍を見る。
それから、
両手で受け取った。
意味じゃない。
動きで、覚える。
「……う」
声とも、
返事ともつかない音。
でも――
離さない。
それで、
十分だった。
俺は、
寝床の方へ向かう。
体が――
正直だった。
重い。
だるい。
まぶたが、勝手に落ちようとする。
寝床に入る直前――
三人が目に入った。
まだ、
完全に起きていない顔。
ぼんやりしたまま、
俺を見て――
次の瞬間。
そそくさと、
外へ出ていく。
視線を合わせない。
足早に。
音を立てないように。
(……まあ、そうなるよな。)
気にしない。
寝床に体を落とす。
草が、
ざわりと音を立てた。
火の音。
川の音。
朝の匂い。
全部が、
一気に遠くなる。
「……起きたら……考えるか」
ただの独り言。
誰かに届かなくていい。
俺は、
目を閉じた。
意識は、
すぐに沈んでいった。
―――――
エアから槍を、
持たされた意味は――
分かった。
守れ、じゃない。
代わりだ。
エアが、寝る。
代わりに自分が、
ここに立つ。
それだけ。
夜の間、
火は消えなかった。
エアは、
動かなかった。
立ったまま。
火と、森と、川を見て。
一度も、
横にならなかった。
三人は、
寝ていた。
新しく作られた寝床で。
枝と草の匂いの中で。
自分も――
寝床をもらった。
火から、
少し離れた場所。
でも、
暗くない。
怖くない。
それは――
エアが、
そこに立っていたから。
ずっと。
朝まで。
エアは、
怖かった。
動き。
力。
違う奴らを壊したときの音。
火の中で、
何も感じていないみたいな顔。
あれは――
怖い。
でも。
ルゥは、
知っている。
エアは、
守る。
火を持つのは、
エアだ。
影を見るのも、
エアだ。
誰かが起きているなら、
それは――自分だ。
いつも全部、
エアがやる。
だから、
みんなは寝られる。
だから、
朝が来る。
ルゥは、
槍を握った。
ぎゅっと。
逃げないためじゃない。
戦うためでもない。
「代わり」を、
受け取ったから。
エアが守る。
それは、
変わらない。
怖くても。
ルゥは、
それを知っている。
知っているから――
目を閉じることが、できた。
背後で、
気配が動いた。
三人だ。
まだ少し、
ぎこちない動き。
目が覚めきらないまま、
火の方を見る。
そして――
一人が、口を開いた。
「……にく、ない?」
小さな声。
探るような響き。
ルゥの胸が、
きゅっと縮んだ。
……は?
振り返る。
視線が、
鋭くなる。
睨む。
今までで、
いちばん強い。
「ない」
短く。
冷たい。
言葉を続ける。
「きょう、めし、ない」
三人が、
一瞬だけ黙る。
理由は、
分かっているはずだ。
夜。
影。
火。
エアは、
動かなかった。
狩りに行かなかった。
行けなかった、じゃない。
行かなかった。
守る方を、
選んだから。
ルゥの喉が、
小さく鳴る。
怒りが――
胸の奥から、上がる。
怯えていた。
怖がっていた。
昨日は、
あんなに距離を取って。
それなのに――
朝になったら、
まずそれか。
頼る。
当然みたいに。
「エア、ねてる」
言葉が、
少し強くなる。
「つかれてる」
槍を、
ぎゅっと握る。
「だから」
一拍。
「じぶんで、やる」
ルゥの友達が、
すぐにうなずいた。
「……うん」
視線は、
エアじゃない。
ルゥを見る。
「じぶんたちで、やる」
もう一度、
はっきり。
残りの二人は――
顔を見合わせた。
目を伏せる。
今度は、
何も言わない。
罰が悪い。
……分かっている顔。
ルゥは、
その様子を見て――
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
……あぁ、そうか……。
気づく。
さっきの怒り。
それは――
自分にも向いている。
怖かった。
エアが、
怖かった。
なのに――
助けられるのは、
当たり前みたいに思った。
守ってくれると、
分かっているから。
それに――
甘えた。
三人だけじゃない。
自分も、
同じだ。
ルゥは、
一瞬だけ視線を落とす。
槍を見る。
自分に渡されたもの。
意味は、
分かっている。
代わりだ。
守る代わりに、
自分が立つ。
全部を、
エアに預けないために。
顔を上げる。
今度は、
声を落とした。
「……あとで」
短く。
「……いく」
狩り。
自分たちで。
三人のうち、
ルゥの友達が、
一歩だけ前に出る。
それから――
首を傾けた。
「……ねえ」
小さな声。
「……さっき」
指で、
エアの方を示す。
「……いってた」
探るように。
「……あなた、ルゥ……」
間。
言葉を選ぶ。
「?」
名前。
ルゥは、
少しだけ間を置いた。
それから――
答える。
「なまえ」
短く。
「エア」
友達の目が、
わずかに開く。
「……エア?」
繰り返す。
「……くれた?」
ルゥは、
うなずいた。
小さく。
でも、はっきり。
寝ている背中を見る。
動かない肩。
それでも――
そこにいる。
「エア、くれた、ルゥ、名前」
それだけ。
三人は、
もう一度――
顔を見合わせた。
今度は、
昨日より静かに。
視線は、
森へ向かう。
狩りに行く方向。
誰も――
エアを起こそうとは、
しなかった。
三人は、
何も言わなかった。
それぞれ――
昨日、地面に置かれていたものへ手を伸ばす。
石の斧。
石の刃。
歪んだ弓。
どれも、
立派とは言えない。
重さも、
揃っていない。
それでも――
誰も、文句を言わなかった。
一人が、
石斧を持つ。
確かめるように、
柄を握り直す。
もう一人は、
石刃を腰に差す。
最後の一人は、
弓を取って――
弦を、そっと引いた。
ぎ、と小さな音。
使える。
ここには、
オスはいない。
頼れる背中は、
今――
眠っている。
だから。
自分たちで、
やるしかない。
ルゥの友達が、
小さく息を吐いた。
「いく」
短い言葉。
逃げでも、
命令でもない。
確認だ。
ルゥは、
一度だけ――
寝床の方を見る。
エアは、
動かない。
でも、
いる。
ルゥは、
槍を持ち直した。
昨日より――
少し、強く。
「すぐ、もどる」
誰に言うでもなく。
それから、
四人は――
音を殺して、森へ向かった。
―――――
……静かだ。
獣の気配が、
まるでない。
焼けた匂い。
灰。
折れた枝。
三人のうち、
二人が小さく言う。
「……獣、いない」
「……火から、逃げた」
誰のせいとは言わない……。
でも……わかってる。
その言葉が、
ルゥの胸に――
ちくりと刺さる。
聞きたくなかった。
友達の一人が、
少しだけ――
うつむいた。
ルゥは、
前を見る。
止まらない。
肉がないなら、
探すだけだ。
燃えた森でも――
全部が、死ぬわけじゃない。
ルゥは、
焼け残った木の前で止まった。
外側は黒い。
中は――
まだ、生きている。
爪を立てる。
がり、と。
焦げた皮が剥がれる。
中の木は、
湿っていた。
さらに――
もう一度。
ぱき。
「……いた」
白い。
太い。
うねるもの。
幼虫だ。
脂がある。
腹に入る。
「……めし」
短く言って、
指でつまみ出す。
逃げない。
動きも遅い。
袋に入れる。
一匹。
二匹。
三匹。
量は少ない。
でも――
ゼロじゃない。
三人も、
それを見て動き出した。
焼けた倒木。
割れた根元。
半分土に埋もれた幹。
爪で剥がす。
石で割る。
指を突っ込む。
「……いた」
「……こっちも」
小さな声。
肉じゃない。
でも――
食べ物だ。
後ろで、
ひそひそ声。
「あそこ……」
「……小さい獣、いた」
ルゥは、
振り返った。
視線が――
鋭くなる。
睨む。
「あれ、ダック。
食べたら――エア、怒る」
「ギョワ?」
短く。
はっきり。
二人は、
それ以上言わなかった。
追ってきた奴ら。
立ち上がった死体。
火。
悲鳴。
青くなる顔。
分かっている。
触ってはいけないもの。
越えてはいけない線。
ルゥは、
また前を見る。
木を剥がす。
土を掘る。
石を返す。
エアは、
肉しか見ない。
大きな獣。
血の出るもの。
でも――
ここは、草の森だ。
この森で生きてきた、
身体が――
食べられるものを、知っている。
幼虫。
小さな根。
焼け残った実。
少しずつ、
袋が重くなる。
今日を越える分は、
集まる。
ルゥは、
槍を背負い直した。
「……もどる」
小さく言う。
四人は、
来た道を――
音を殺して、引き返した。
肉はない。
それでも――
生きる分は、ある。
それでいい。
今は、それで……。




