第1話:青空の下で、生き延びる
目の前には、青い空が広がっていた。
雲が流れている。
ゆっくりと、音もなく。
「……なんだ……?」
声はひどく掠れていた。
喉が乾いている感覚だけが、やけに生々しい。
俺は上体を起こした。
背中に伝わる、柔らかな感触。
草だ。短く、密で、鼻を突くような強い匂いを放っている。
周囲を見回す。
誰もいない。
人影はなく、建物もなく、道すらない。
見渡す限り、なだらかな起伏と、風に揺れる草原だけが続いていた。
――そのとき。
背後の林が、揺れた。
次の瞬間、腹の奥に響くような低い唸り声。
空気が、重くなる。
反射的に振り向く。
林の縁から、巨体が飛び出してきた。
熊のような体躯。
だが、額の中央から突き出した一本の角が、それを否定している。
太く、短く、先端が鋭く尖った角。
獣は迷わない。
最初から、俺だけを狙っていた。
「――っ」
考える暇はなかった。
俺は咄嗟に横へ跳ぶ。
次の瞬間、
角が地面を貫き、さっきまで俺が立っていた場所を突き抜けて通り過ぎた。
草が抉れ、土が舞う。
遅れて、地面が揺れる。
危なかった。
獣は勢いのまま数歩進み、
爪を立てて地面を削りながら止まる。
鼻息が荒い。
口元から涎が垂れ、糸を引く。
完全に、獲物を見る目だった。
まずい。
逃げなきゃ、死ぬ。
俺は踵を返し、走った。
草原を捨て、森の中へ飛び込む。
枝が顔を叩き、草が脚に絡みつく。
背後で、重い足音。
獣は、追ってくる。
木々の間を無理やり突き破るように、
角が枝を砕き、幹にぶつかる音が響く。
必死で走った。
肺が焼ける。
視界が揺れる。
それでも、止まれなかった。
――次の瞬間。
足元が、消えた。
「っ――」
踏み出した足が、空を切る。
落ちる。
反射的に手を伸ばした。
指先が、何かを掴む。
ごり、と皮膚が裂ける感覚。
枝だ。
崖から突き出した太い枝に、辛うじてしがみついていた。
体は宙に投げ出され、足元には何もない。
息が、止まる。
下を見る。
はるか下で、白い水しぶきが弾けている。
滝壺だ。
背後を見る。
断崖の上には、広大な森が広がっていた。
どこまでも続く、濃い緑。
空には――
羽が四枚ある、鳥のような生き物が飛んでいる。
ゆっくりと、円を描くように。
「……なんだよ、ここ……」
声が、漏れた。
そのとき。
ぴちゃ。
生温かいものが、手の甲に落ちる。
上を見る。
崖の縁から、
あの獣が顔を覗かせていた。
熊のような頭。
額の角。
口元から、涎が滴り落ちている。
前脚が、伸びてくる。
もちろん――
助けようとしているわけがない。
枝ごと折り、
引きずり上げて、喰うつもりだ。
腕が震える。
掴んだ枝が、きしむ。
このままじゃ、食われる。
下を見る。
滝壺。
白く泡立つ水面。
どうせ、助かる保証なんてない。
だったら――
俺は、枝を掴んでいた手を見た。
そして。
歯を食いしばり、
その手を――離した。
「うわぁぁぁぁぁっ――!」
叫び声は、滝の轟音に飲み込まれた。
次の瞬間、全身を叩き潰すような衝撃。
水。
冷たい。
深い。
体が、一気に沈む。
必死に手足を動かす。
肺が悲鳴を上げ、視界が白く滲む。
――ぶつかった。
水の底。
肩に、鈍い衝撃が走った。
「っ……!」
右肩に、焼けるような痛み。
息が漏れ、水が口に入り込む。
まずい。
反射的に、水面を目指して掻いた。
腕が重い。
右が、うまく動かない。
それでも――
必死で、上へ。
ようやく顔が水面を割った。
「はっ……! はっ……!」
荒く息を吸う。
肺に空気が戻り、胸が痛む。
だが、安心する暇はなかった。
流れが、強い。
体が引きずられる。
「くそ……!」
岸を探す間もなく、
再び水に引き込まれた。
落ちる。
今度は、さっきほど高くない。
衝撃と同時に、視界が揺れた。
水が跳ねる。
湖だ。
滝壺よりも穏やかだが、
それでも流れは残っている。
必死に泳ぎ、
浅くなった場所へ向かう。
指先が、泥と石に触れた。
「……っ……はぁ!」
呻きながら、這い上がる。
水から出た瞬間、全身の力が抜けた。
草の上に転がり、仰向けになる。
空が、揺れている。
胸が上下し、呼吸が整っていく。
――生きてる。
遅れて、痛みが押し寄せた。
右肩。
服が破れ、
そこから赤い血が、はっきりと流れている。
触れると、鋭い痛みが走った。
「はぁはぁはぁ……最悪だ……」
声は、かすれていた。
ここがどこかも分からない。
追ってくる獣がいるかも分からない。
そして――
右肩は、まともに使えそうになかった。
それでも。
俺は、ゆっくりと体を起こした。
湖の水面が、静かに揺れている。
その向こうには、
まだ見たことのない森が広がっていた。
――ここで、死ぬわけにはいかない。
そう思った瞬間、体が動いた。
俺はふらつきながら立ち上がり、湖畔に転がっていた石に近づく。
右肩に走る痛みで、一瞬視界が白くなる。
「……っ……!」
歯を食いしばり、石を拾い上げた。
もう一つ、硬そうな石を選ぶ。
打ちつける。
がん、と鈍い音。
欠けた破片が飛び散る。
もう一度。
ごり、と鋭い感触が伝わった。
石の縁が、刃のように尖る。
荒いが、ないよりはマシだ。
即席のナイフ。
俺はそれを地面に置き、濡れた服に手をかけた。
右肩をかばいながら、布を裂く。
布が破れる音が、やけに大きく聞こえた。
裂いた布を右腕に巻きつけ、胸の前で結ぶ。
肩を吊る形にして、重みを逃がす。
少しだけ、痛みが和らいだ。
――その瞬間。
体が、震え始めた。
寒い。
水に浸かった体から、熱が奪われていく。
歯が、かちかちと鳴る。
このままじゃ、凍え死ぬ。
俺は周囲を見回した。
倒木。
乾きかけた草。
岩陰。
火だ。
火を起こさないと、終わる。
俺は震える手で、乾いた枝をかき集めた。
右肩が悲鳴を上げるが、止まれない。
枝を組み、草を詰める。
石のナイフで、別の石を強く叩く。
一度。
二度。
火花が、かすかに散った。
「……くそ……」
もう一度。
今度は、確かに光った。
乾いた草が、ちり、と音を立てる。
息を止め、慎重に息を吹きかけた。
小さな火が、生まれる。
それは弱く、今にも消えそうだったが――
確かに、火だった。
俺は急いで枝をくべる。
ぱち、と音を立てて、炎が立ち上がる。
その光に照らされて、
初めて自分の体が、ひどく震えていることに気づいた。
火のそばに座り込み、右肩を押さえる。
血は、まだ滲んでいる。
それでも。
炎の熱が、指先に戻ってくる。
――生き延びた。
今は、それだけでいい。
意識が、落ちかける。
視界の端が暗くなり、炎の揺れが遠くなる。
まずい。
……今、倒れたら死ぬ。
そう思いながら、必死に歯を食いしばった。
火のそばから離れないよう、体を前に傾ける。
そのとき。
ふっと、匂いがした。
鼻を抜ける、清涼感のある香り。
どこか、ミントに似ている。
視線を落とすと、足元の岩陰に、背の低い草が生えていた。
細長い葉が何枚も伸びている。
俺は震える手で、そのうちの一枚をちぎった。
迷っている暇はない。
口に入れ、噛む。
次の瞬間、ひんやりとした感覚が口の中に広がった。
鼻の奥が抜け、頭がすっと軽くなる。
不快じゃない。
むしろ――逆だ。
「……こいつは……?」
右肩の痛みが、わずかに遠のいた気がした。
俺はもう一枚、葉をちぎる。
今度は、口の中で噛み潰し、苦味と清涼感が混ざった塊を作る。
それを、吐き出す。
残った葉を、手に取る。
右肩に走る痛みに顔を歪めながら、
血に濡れた傷口へ、その葉を押し当てた。
ひやりとした感触。
直後、じわりと熱が引いていく。
血の滲みが、少しだけ弱まった。
「……使える、か……」
声は、掠れていた。
完全に治るわけじゃない。
それでも、このまま放っておくよりは、ずっといい。
俺は葉を固定するように、裂いた布を巻き直した。
肩を吊る位置を調整し、動かないように縛る。
炎が、ぱち、と音を立てる。
その光の中で、
初めて、はっきりと生き残るための手段が見えた。
……助けはない。
使えるものは、確かにそこにある。
俺は火を絶やさないよう、枝をくべながら、
再び意識が遠のかないよう、じっと炎を見つめ続けた。




