第16話:騒がしくて、静かな、朝
夜明けは、静かだった。
焚き火はまだ生きている。
赤い芯だけを残して、ぱちぱちと小さく鳴っていた。
石の上に腰を下ろし、煙で炙った肉を噛む。
硬いが、腹には入る。
向かいにルゥがいる。
火に近づきすぎない距離で座り、
その足元を――
ちょろちょろと、小さな影が動く。
ダックだ。
首を伸ばし、焼けた脂の匂いを追っている。
落ち着きがない。
「うろちょろすると、焼き鳥になるぞ……」
「ギョワ?」
言っても意味はない。
短く鳴いて、ルゥの膝に頭を押し付けた。
ルゥは追い払わない。
小さく鼻を鳴らすだけだ。
静かだ。
だが、森はまだ焼けている。
匂いも、消えていない。
その時――
足音。
軽い。
数が多い。
川の下からだ。
噛んでいた肉を止め、視線だけを向ける。
ルゥも気づいた。
一瞬、
表情が明るくなる。
声にならない声で、何か叫びかけ――
すぐに、顔が曇った。
喉が鳴る。
「ゥウウウウ゛ッ!」
低い唸り。
走ってきた影が、焚き火の範囲に入ってくる。
ゴブリンだ。
小さい体。
成体だが、胸の下あたりの高さしかない。
数人。
顔に疲労。
腕や脚に、逃げた痕。
連中は俺を見るより先に、
ルゥの後ろへ回り込んだ。
隠れる。
それらを追って、
別の影が川岸に現れた。
……違う。
一目で分かる。
肩が張っている。
腕が締まっている。
頭が大きい。
顎が前に出て、牙が見える。
骨格が違う。
俺は、立ち上がっていた。
連中は俺を見て止まった。
視線が、下から上へ動く。
胸。
肩。
顔。
理解した。
大きさが違う。
それだけで足を止めさせるには十分だった。
(……ルゥたちとは、別だ)
物語で見る、
あのゴブリンに近い。
だが、武器はない。
持っているのは、棒と石だけ。
それでも――
追う側だ。
面倒だ。
近くの少し体より大きめの岩に手を掛ける。
しゃがまない。
持ち上げる。
ごり、と音がして、
岩が浮いた。
……軽い。
一瞬、引っかかる。
(あ?……こんなもんだったか?)
考えない。
喉の奥から声を出す。
わざとらしく――
「ゥ゙ゥオオオオオオオッ!!」
腹の底から。
意図的に、大きく。
連中は完全に止まった。
一体が後ずさり、
次が振り返る。
逃げる。
森へ。
川沿いへ。
すぐに、気配が消えた。
静かになる。
岩を下ろし、焚き火の前に戻る。
手を開く。
握り直す。
……やっぱり、軽い。
確信はない。
理由も分からない。
だが――
昨日とは違う。
考えるのをやめる。
ルゥを見る。
仲間たちは、まだ震えている。
ルゥは、俺を見上げて――
小さく息を吐いた。
足元で、ダックが鳴く。
「ギョ」
何事もなかったように。
焚き火の煙が、
真っ直ぐ空へ上がっていた。
(なるほどな……)
逃げてきた影――
追ってきた連中とは、やはり違う。
姿形は、ルゥと同じ。
背は低い。
胸元くらい。
耳が尖り、肌は緑。
だが――
傷がある。
頬。
腕。
脇腹。
どれも、
深すぎない。
だが、
雑でもない。
いたぶった、というより――
使ったあと、放り出されたような傷。
女だ。
三人。
「……!」
一人が、
ルゥを見た。
次の瞬間――
顔が、ぱっと明るくなる。
叫ぶ。
意味は分からない。
だが――
喜びだ。
そのまま、
ルゥの腕を掴む。
強く。
離すまいとするみたいに。
ルゥは――
一瞬だけ、笑った。
本当に、
一瞬。
それから、
その笑顔は消える。
目線が、
落ちる。
腕を掴まれたまま、
うつむく。
動かない。
……ああ。
分かる。
燃えた森。
散り散りになった仲間。
逃げる途中で寄ってきた獣。
呼び寄せた音。
全部――
自分が動いた“結果”だ。
助かった。
でも――
守れなかった。
きっとそれは、
罪悪感だ。
俺は、
口を挟まない。
慰めない。
触れもしない。
そういうのは、
外から入れるもんじゃない。
三人の女は、
俺を見る。
警戒。
恐怖。
だが――
さっき逃げた連中よりは、
ずっと人に近い目だ。
俺は、
視線を逸らす。
焚き火の方を見る。
ダックが、
串の肉を狙って、
首を伸ばしている。
「……食うなよ」
小さく言うと、
「ギョ」と鳴いて引っ込んだ。
背後で、
ルゥが深く息を吸う音。
それから――
ゆっくり、顔を上げる。
まだ、
迷ってる顔だ。
俺は、
岩に腰を下ろした。
「……他にも、いるかもな」
独り言みたいに、
呟く。
その言葉で、選択肢はある程度絞れる。
助けるか。
逃げるか。
関わるか。
……面倒だな。
俺は、
焚き火の近くに戻って――
腰を下ろした。
すぐ横で、
ダックが首を伸ばす。
串の肉。
目が、
完全にそれを追っている。
「くぉらっ」
「ギョワ!?」
驚いたように、
首を引っ込める。
……分かりやすい。
俺は、
串を一本、手に取った。
それから――
空いている手で、
三人を呼ぶ。
指を曲げる。
一度。
二度。
言葉は使わない。
焚き火の反対側――
少し離れた地面を指差す。
ここ。
ルゥが、
俺を見る。
一瞬だけ、
迷う。
それから――
小さく、笑った。
本当に、
かすかな笑み。
掴まれていた腕を、
引き抜く。
そのまま、
友達の手を取って――
俺の横に座らせる。
焚き火の熱が、
間に流れる。
残りの二人は、
立ったままだ。
視線が、
俺と火を行き来する。
警戒。
戸惑い。
……無理もない。
俺は、
何もしない。
串を、
焚き火の上で回すだけだ。
じゅっ、と音。
肉の脂が落ちる。
それを見て――
二人が、ゆっくり動いた。
一歩。
半歩。
慎重に。
逃げられる距離を残したまま。
やがて、
地面に腰を下ろす。
俺は、
焼けた串を差し出す。
一本。
また一本。
言葉はない。
だが――
拒まれない。
三人とも、
串を受け取る。
匂いを嗅ぎ、
少しだけためらい――
噛む。
咀嚼。
目が、
わずかに見開かれる。
こりゃ……腹、減ってたな。
焚き火の前で、
音は減る。
噛む音。
火のはぜる音。
ダックが、
また首を伸ばす。
「……見るだけだ」
「ギョ……」
納得してない顔だが、
座り直す。
ルゥは、
串を持ったまま――
火を見ている。
何かを考えている顔。
だが、
背中は丸まっていない。
三人の友達も、
黙って食べ続けている。
今は――
それでいい。
言葉は、
いらない。
朝は、
こういうので十分だ。
ーーーーー
俺は、
最初に食い終えた。
だがまだ、
一切れだけ残しておいた。
それを――外す。
串から、
指でつまみ上げて。
「……ほら」
軽く放る。
空中を、
弧を描いて――
「ギョッ!」
パク。
正確に、
ダックが咥え取った。
一瞬、
誇らしげな顔。
それから、
もぐもぐと咀嚼。
「……よし」
それだけ言って、
俺は立ち上がる。
食事は、
終わりだ。
焚き火から離れ、
岩陰へ向かう。
骨の鎧を取る。
獣の肋骨。
肩を覆う板骨。
腹を守る重ね。
拾い集め、
削って、
紐で留めただけの代物。
慣れた手つきで、
身に着ける。
重さを確かめる。
……問題ない。
次に、
槍。
いつもの一本――
ではなく、
もう一本。
細く、軽い方だ。
俺は、
それをルゥに差し出した。
言葉はない。
柄を、
向けるだけ。
ルゥは一瞬きょとんとし、
それから――
理解した顔で受け取る。
続けて、
使っていない石ナイフ。
それから、
石斧。
最後に、
矢の残りが少ない弓。
まとめて、
地面に置く。
俺は、
三人の女を指差す。
次に、
それらの道具。
それから――
地面を指し、
手のひらを下へ向ける。
ここに残れ。
動くな。
ルゥは、
強く頷いた。
三人も、
ルゥを見る。
同じように、
頷く。
俺は、
自分を指し、
槍を一本だけ持つ。
それから――
森を指差す。
奥だ。
何も言わず、
歩き出す。
音を殺し、
影に紛れ――
森へ消える。
……はずだった。
「お前は来るなって」
背後で、
小さな足音。
「ギョ?」
止めない。
ダックは、
勝手に俺の後をついてきた。
朝の森が、
俺たちを飲み込む。
「……食いぶちが、増えたな」
今日の狩りは、
ここからだ。




