第11話:戻す場所
まだ夜の冷えが残る時間帯だった。
焚き火は落とさない。
だが、火を見つめることもなく――
俺は荷をまとめた。
言葉は、かけない。
ルゥは、
何かを察したのか、
黙ったまま俺の動きを見ていた。
「……行くぞ」
それだけ。
ルゥは、
一瞬だけ首を傾げ、
それから小さく頷いた。
森へ入る。
昨日とは違う道。
獣道でも、川沿いでもない。
食ゴブ植物――
ルゥが最初に捕まっていた、
あの場所へ向かう。
何度か、
立ち止まり、
周囲を確認し――
確信を持って、進む。
やがて、
あの場所へ辿り着いた。
俺は、地面にしゃがみ込み、
小枝を拾う。
そして、
絵を描いた。
丸。
いくつも。
その横に、
尖った耳の形。
仲間。
ルゥは、
すぐには首を振らなかった。
少しだけ――
迷った。
それから、
俺の顔を見る。
じっと。
確認するように。
次の瞬間。
ルゥは、
俺の手を掴み――走り出した。
「……っ!」
引かれるまま、
草の中へ。
視界が、
一気に塞がれる。
背丈ほどの草。
密集した葉。
風じゃない。
草が――
揺れている。
止まる。
ルゥが、
草の奥へ向かって――
声を出した。
「…ォオゥ!」
呼びかけ。
間。
一拍。
ざわ――。
草が、揺れる。
一か所じゃない。
いくつも。
葉が割れ、
影が現れる。
黄色い目。
尖った耳。
ゴブリン。
五……六体。
距離を保ち、
こちらを囲むように立つ。
警戒。
だが、
襲う構えじゃない。
その中に――
子供を抱えた個体がいた。
小さな体。
眠っているのか、
泣き声はない。
守るように、
強く抱えられている。
俺は、そこで気づいた。
……ルゥ。
並ぶゴブリンたちと比べて、
小さくない。
同じだ。
体格も、
立ち姿も。
――大人だ。
草の奥で、
短い声が交わされる。
警戒の合図。
確認の音。
ルゥは、
俺の手を引いた。
草の奥へ。
「……」
一歩。
俺は――
進まなかった。
もう一度、
引かれる。
「……ルゥ」
振り返るルゥ。
誘う目。
“一緒に”という動き。
だが――
俺は、
その手を振りほどいた。
「……行け」
低く。
冷たい声。
感情を、
落とした音。
ルゥの目が、
見開かれる。
それでも――
ルゥは戻ってきて、
俺の前に立った。
草の向こうから、
ざわり、と空気が動く。
警戒が、強まる。
「……来るな」
俺は、
一歩、下がる。
「……戻れ」
今度は、
はっきりと。
ルゥが、
俺に近づこうとする。
その瞬間――
「来るな!!」
声が、跳ねた。
睨む。
感情を、
全部、切り落とした目で。
ルゥが――
足を止めた。
草が、揺れる。
ゴブリンたちが、草陰に隠れた。
ルゥは、
俺を見る。
何かを言おうとして――
言葉が、出ない。
俺は、
もう見なかった。
背を向ける。
「……戻れ」
それだけ言って、
森の外へ歩き出す。
草の向こうで、
ざわ、と音がした。
それ以上は、
振り返らなかった。
ーーーーー
草の群生地を抜けると、
森の空気が、急に重くなった。
足取りが、
自然と遅くなる。
振り返らない。
振り返れば、
戻れなくなる。
俺は、
深く息を吐いた。
「……これで、よかったんだ……」
誰に言うでもなく、
自分に向けて。
言葉にしないと、
崩れそうだった。
森を、帰る。
一人分の足音だけが、
やけに大きく聞こえる。
さっきまで――
すぐ後ろにあった気配が、
もう、ない。
胸の奥が、
じわじわと冷えていく。
……慣れてるはずだ。
一人で森を歩くことなんて。
なのに――
足が、重い。
俺は立ち止まり、
空を見上げた。
枝の間。
鳥が一羽、
木に止まっている。
そのすぐ上――
巣。
「……巣、か……」
視線を細める。
枝の組み方。
位置。
高さ。
……取れる。
俺は、
ゆっくり木に取り付いた。
枝を確かめ、
体重を分散させながら登る。
巣を覗く。
卵。
白く、
少し斑点がある。
「……三つか……」
一つ残し、
二つを腰袋に入れる。
久々に卵が食える、少しは気が晴れるな。
そう思い、
降りようとした――
その時。
下から、
視線を感じた。
……?
首を傾げ、
真下を見る。
「うをぉ!?」
――いた。
巨大な影。
だちょうに似た体躯。
太い脚。
長い首。
オウムのようなくちばし。
そして――
丸い、
緑色の目。
瞬きもせず、
俺を見上げている。
「……な、なんだ……?」
声が、
思わず漏れた。
その瞬間。
生き物が、
首を傾げた。
ぐきり、と。
不自然な角度で。
目だけが、
こちらを追う。
……まずい。
直感が、
そう告げる。
俺は、
反射で枝を掴み直し、
さらに上へ登った。
「……っ!」
枝が軋む。
だが――
構わない。
距離を取る。
俺は、
枝の上で体勢を立て直し、
背中から槍を引き抜いた。
構える。
生き物は、
動かない。
ただ、
じっと――
その丸い緑の目で、
俺を見ている。
逃げる様子も、
威嚇もない。
それが、
逆に――気味が悪い。
「……」
森の音が、
消えた気がした。
風が、
枝を揺らす。
だちょう型の生き物が、
一歩前に出た。
片足で木を揺らす、確かめるように。
そして…
だちょう型の生き物が、姿を森に消していった――
そう、思った瞬間だった。
森の奥から、
クゥククククククク!!!
空気を裂く、狂ったような鳴き声。
同時に、
地面が――爆ぜた。
砂煙。
倒れる草。
一直線に迫る影。
「――っ!?」
考える暇もない。
だちょうもどきが、
とんでもない速度で突っ込んできた。
次の瞬間――
どんっ!!!
俺のいる木を、
下から蹴り倒した。
「のわぁ!?」
世界が、
反転する。
枝が砕け、
視界が宙を舞う。
そして――
がしっ。
右腕に、
とてつもない圧力。
「――っ!!?」
噛まれた。
くちばしだ。
硬い。
締まる。
骨ごと砕きにくる力。
次の瞬間、
身体が――振り回された。
ぐるん。
ぐるん。
視界が、
天地も方向も失う。
まるで、
ボロ雑巾だ。
「ぐぁあああああ!?!?」
肩が悲鳴を上げる。
腕が、抜ける感覚。
――やばい。
このままじゃ、
引きちぎられる。
俺は歯を食いしばり、
必死に腰をひねった。
左手が、
空を掻く。
……槍。
指先が、
穂先に触れた。
掴む。
「――離せ!!」
叫びながら、
無理やり体を引き寄せ――
狙いを変えた。
首でもない。
嘴でもない。
あの――
気味の悪い、丸い目。
槍を、
思い切り突き上げた。
ぐちゅっ。
はっきりした感触。
柔らかい。
潰れる。
次の瞬間――
クギャアアアアアッ!!!!
甲高い絶叫。
噛む力が、
一気に抜けた。
俺の身体が、
放り投げられる。
どさっ!!
地面を転がり、
背中から叩きつけられた。
「……っ、が……!」
息が、
肺から強制的に抜ける。
だが――
腕は、ある。
右腕は激痛で痺れているが、
まだ――ついてる。
視線を上げる。
だちょうもどきが、
首を振り回している。
片目。
左の丸い緑の目が――
潰れていた。
黒い液体と血が混じり、
頬を伝って落ちている。
残った片目が、
こちらを睨む。
だが――
さっきまでの殺気が、
一瞬だけ、揺らいだ。
だちょうもどきは、
首を低くし、
一歩――下がった。
「……?」
俺は槍を構えたまま、
動かない。
右腕は震え、
感覚が鈍い。
「オォオオオオオオオ!!」
俺は吠えた。
だが戦えるほどの状態でもない。
しかし…追えない。
追えば――ただでは済まさない。
獣も、
それを悟ったのか。
だちょうもどきは、
低く、喉を鳴らした。
クゥ……クゥゥ……
警戒とも、
苛立ちともつかない音。
(あぁ、そうだ…来るならもう一つえぐってやるよ…)
そして――
一瞬、地面を蹴った。
だが、
こちらには来ない。
横へ。
さらに奥へ。
草を裂き、
木々を避け、
森の中へ――消えた。
砂煙だけが、
しばらく空中に漂う。
「……っ……」
俺は、
しばらくその場から動けなかった。
槍を下ろすと、
腕から力が抜ける。
どさり。
膝をつく。
片目を潰した。
――殺せなかった。
だが、それでいい。
俺は、
荒い息を整えながら、
森の奥を見つめた。
……追ってこない。
完全に、
逃げた。
「……はぁ……」
深く、
長い溜め息が漏れる。
俺の周りには、
もう誰の気配もない。
さっきまで、
手を引いていた温もりも。
今は――風と葉擦れだけだ。
一人分の音だけが、
森に溶けていった。




