水婿
豊潤十年、夏。
南嶺の奥深く、翠川県にある小さな村・潤林にて、一夜にして村人全員が姿を消した。
井戸だけを残して。
その少し前ーーー
その村には、代々「潤しの井」と呼ばれる古井戸があった。井戸の水は枯れることなく清らかで、干ばつの折にも水が絶えたことはない。村人たちは井戸を神の贈り物として祀り、供物を欠かさず捧げていた。中でも「水婿」と呼ばれる若者を生贄に捧げる古習わしがあったという。
「水は清めるが、飲み過ぎれば人を殺す。水神もまた、気まぐれなものよ」
旅の文人、許文達はそう記された書物を手に入れ、興味を持った。彼は好事家として、各地の風習や伝承を求めて旅をしており、潤林村の奇妙な慣習を聞きつけ、山深く分け入った。
村は静まり返っていた。
家屋は整然と並び、かつての夕餉らしきもの残っている。しかし人の気配がない。炊事の途中のような竈、洗濯物が揺れる物干し竿、さされた碁石──人が突如として掻き消えたようだった。
文達は村の中央にある井戸に近づいた。
苔むした石組の中から、音もなく、澄んだ水面がのぞいていた。
「これが……潤しの井か」
覗き込んだ瞬間、背筋をなでるような冷気が這い上がる。
水面に映る己の顔が、少しだけ──笑っていた。
文達ははっとして後ずさったが、井戸の水面は元に戻り、ただの清水をたたえているだけだった。
気のせいだ。
そう思い、彼は村の中を調べることにした。
ある家の中で、一冊の古い記録を見つけた。黄ばんだ竹簡に、くずし字でこうあった。
「水は命を与え、命を返り求む。
七年ごとに水婿を捧げぬれば、井より黒き泡立ち、子らの喉を裂く。
水婿は十六歳、穢れなき童に限る。井に沈め、水神に帰すべし。
さすれば村に水絶えず、雨も程よく、田は実り多し。
婿の悲鳴は水神の歓び、されば耳を塞げ、母よ」
文達は青ざめた。村が最後に水婿を捧げた年を数えれば、今年がまさに七年目だった。
だが、すでに村は──消えていた。
夜になると、村には風が吹いた。
どこか濡れたような匂い、濃い土と青藻が混じったような臭気が、風とともに忍び寄る。
文達は用心のため、宿として選んだ空き家の戸を締め切り、火を焚いて眠りについた。
──水音がする。
夜更け、夢の中で何かが滴っている。
ぽとり、ぽとり。
音はやがて、どんぶり、どんぶり、と大きな波紋に変わっていく。
眼を開けると、部屋の床一面が……水で濡れていた。
天井から水が滴っている。壁が湿っている。畳がたわんでいる。
ぞくりと寒気が走った。
もはや、これまで。
文達が部屋を出ようとしたそのとき──
あの井戸が、部屋の真ん中にあった。
どこからともなく移動してきたかのように。
そして、井戸の中から……白い腕が伸びていた。
まるで、水の中から誰かが這い出てこようとしている。
滴る水音。
濡れた髪。
張りつめた静寂の中、かすかに「う……う……」という呻きが聞こえた。
「誰だ……! 何者だ!」
文達が叫ぶと、井戸の中からゆっくりと、目がのぞいた。
赤く爛れた片目が、じっと彼を見ている。
気づけば、文達は村の外れで倒れていた。
夜はすでに明け、井戸も、家も、全て──消えていた。
あとに残されていたのは、一面の水たまりだけだった。
その水たまりの中に、村人の履き物が、いくつも沈んでいた。
文達はその後、都に戻ると高熱に倒れ、数日のうちに亡くなった。
死ぬ前、彼はこう呟いたという。
「……井戸が笑った……あれは……水ではない……水神などいなかった……あれは……飢え……」
それ以来、潤林村の所在は地図からも記録からも失われ、誰一人として、再びその村を見つけることはなかった。
ただ、南嶺の山中で雨に降られるとき、どこからかこう囁く声が聞こえるという。
「……おまえ、水婿か……?」