005_エンターキー
それは、あとエンターキー1回のところでリンが始めた話だった。
リン「アカネ、一個聞きたい、です」
アカネ「んんー?」
いつもの視聴覚準備室。アカネは持ち込んだボロボロのソファに斜めに座っていた。その姿勢のまま、スマホから目を離さず、生返事を返す。
姿勢が悪すぎてズリ上がってきていたアカネのスカートを、リンはわざわざ立ち上がってピッと正してから、元の机に戻った。
リン「アカネは、なんでそこまで国を無くすことにこだわる、です?」
アカネのスマホをいじっていた指が止まった。
リン「アカネの言うことは分かるです。国の役割は別で代用できる、そっちの方が上手く行く。ナショナリズムが薄い日本がその成功例になれるって話は、ボクは正しいと思うです」
リンはノートパソコンのモニタに目を移した。それは、アカネと目を合わさないようにするためだったのかも知れない。
リン「でも、そういう主義が薄いからこそ、全部、人生全部かけてやり遂げようってなるのは珍しい、と思うです」
アカネ「んー……」
アカネは天井を仰いだ。
アカネ「うまく伝わるか、あんま自信ないケド……
リンちゃんはさ、日本が世界で一番古い国って話、知ってる?」
リン「紀元前に天皇が即位して、それが未だに続いてるって話、です?」
アカネ「そ。
2500年続いてる国なんて他になくて、2位は2000年も届いてなくて、ぶっちぎり」
アカネはソファに座り直した。
アカネ「それ聞いて、最初はヤベーって、マジかーって嬉しい気もしたんよ。
でも、なんつーか、それはホントはすごいことでも、良いことでもなくて、逆にちゃんとしなかった結果なんかもって思って」
リンは黙って聞いている。
アカネ「なんつーか、ホントはいつ途絶えてもおかしくないのに、だれも終わらせなかっただけなのかもって。ことなかれっつーか」
確かに、天皇家が続いていたと言っても、政治の中心にいたのは日本の歴史の前半だけなのかも知れない。貴族や武士、幕府……常に天皇は権威を高めるために利用されてきて、今では本当に象徴だ。
アカネ「一回、そう思ったらさ、そんなちゃんと向き合わない国民はさ、その、ムカつくとか嫌ってのとも違うんだけどさ……」
正確に言い表す言葉が見つからず、アカネは言いよどんだ。
アカネ「ちゃんとしろ、みたいな……」
ああ、アカネは真面目で、純粋なんだ。リンは小さく息をついた。
この本質を誤魔化して欺瞞に逃げる国民性に、本気で向き合っているんだ。
アカネ「このままで済むと思うなよ……っていうか……」
そして、その奥にごりっとした、執念のような、憎しみのような感情が見え隠れする。
リンには、それがとても愛おしいことに思えた。
アカネ「やっべ。恥っずー……なんか、語っちまったー」
アカネは顔を隠してソファの上で悶絶した。
アカネ「忘れてくれーうー……」
リン「デマゴーグではもっと熱く語ってる、です」
エンターキーを押しながらリンは小さく笑った。
自分にはアカネのような純粋な思いはない。ただただアカネのため。それはアカネの思いとは、ある意味一番遠い動機なのかも知れない。
でも、きっと後悔しない。
リンのエンターキーによって起動したマルウェアは、地元の中堅企業のシステムの破壊を開始した。
その企業の株は急落し、それは空売りをしかけたリンの口座を少なからず潤し、二人の活動資金へと変わるだろう。
おそらく、多くの人間の人生を狂わせながら。
これがリンにとって初めての、破壊を伴うハッキングだった。
もう戻れない。でも、きっと。
後悔しない。