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ベリーバレー支所


「それでは、こちらにお名前をいただけますか?」

 よどみなく歌うような口調で言いながら、ミズキちゃんは受付カウンターの向こう側から所定の手続き用紙を滑らせて寄越した。なんともしなやか、なおかつ優雅な仕草だった。


 大いに結構。バクローは思った。

 連合国の出先機関である、このベリーバレー支所のナンデモ窓口受付パーソンとしても、シンプルにひとりの妙齢の女性としても、ミズキちゃんはかなり◎、バクローのお気に入りだった。


 敢えてマイナス点を挙げるとすれば、今日のミズキちゃんの応答が少しばかり杓子定規に過ぎるところか。

 お名前をいただけますか?とミズキちゃんは言った。

 オレの名前を覚えてないってのかい?そりゃないだろ。


 バクローは内心、そう言いたくて堪らなかった。なにしろ、このベリーバレー支所のナンデモ窓口へ、はるばる山ひとつ越えて出向き、運転免許証の更新手続きをしたのはつい二週間前のことなのだ。

 シチュエーションもまるで同じだった。うららかな秋の陽ざしに心地よく温もった受付カウンター、その前にミズキちゃん、左右と後方に一人ずつの職員、そしてこちら側にはバクローのほか数人の待ち人がいた。

 昼時のせいか、それとも、いつもこうなのか。知る由もないが、やや閑散とした光景だった。もちろん、ギュウ詰め状態で押し合いへし合いするよりはずっとマシ、バクローには閑散の方がよほど好ましかった。


 あの日のミズキちゃんの接客態度は、まったくもって申し分なかった。免許の更新に来たんだが。バクローが告げると、ミズキちゃんはニッコリと微笑んだ。まるで、大輪のバラが倍速で花開いたようだった。温かな歓迎の気持ちがこもっていて、こちらもつい、つられてニンマリしてしまうような値万金の笑顔だった。


 バクローの生年月日欄を見たときも、ミズキちゃんの鉄壁の笑顔はビクともしなかった。一九四五年八月十六日。前世紀、日本国が第二次世界大戦に於ける敗北を認めた日の翌日だ。実際に生まれたのは十五日の真夜中過ぎだったので、朝から陣痛に苦しんでいた母親は、正座して天皇陛下の玉音放送を聴けなかったことを悔やみ、後々まで語り草にした。


 バクローがだいぶ大きくなった頃に、父親がこっそりと耳打ちした。あの当時、一町内に一台きりの割り当てだったラジオは真空管がすっかりイカれていたから、玉音放送だろうが玉砕警報だろうが、どのみち聴けやしなかったんだ、お前のせいじゃないさ、と。


 その日、バクローの運転免許証更新手続きは、粛々と進んだ。職員たちは誰ひとり、“返納”のヘの字も口にしなかった。年齢などハナから不問の受け入れ態勢だった。何歳だろうと生きている限り、運転免許更新手続きをするのは当然である、そう言ってもらえた気がした。自分の運転技術が優れていると認められたようでもあって、バクローは大いに気をよくした。


 するとその代わりのように、あれやこれやと覚えられない名前のついた検査をいくつも勧められた。甚だ厄介だったが、ミズキちゃんのやさしい語り口と笑顔を前にして、やりたくないとは言いそびれ、ついつい言われるままに応じたのだ。


 その結果全部の手数料を合算すると、半端ない金額になった。バクローが七十年余りに渡って繰り返し払い続けてきた、運転免許更新手数料史上、最多の金額だった。支払う段になって初めて、ほとんど全部の検査が断ってもいいものだったと知らされた。甚だ面白くなかった。結果、クレジットカードや電子マネーを使わない主義のバクローの財布はほぼカラになり、気分はどん底まで沈んだ。


 それでも、ミズキちゃんの明るく爽やかな笑顔を思い浮かべると、バクローの気分は再び、すぐさま上向いたのだった。あんなにやさしいミズキちゃんが勧めてくれたのだから、どの検査も自分に必要なものだったに違いない。そう信じることが出来た。


 ところが、どうだ。

 いまカウンターの向こう側で、さも厭わし気に細い眉をきつくひそめている受付パーソンが、あのミズキちゃんと同じミズキちゃんだとは、とても思えなかった。

「だから。ご用件をここに書いてくれないと、受付けは出来ないんです」

 なんたる言い草かと、バクローは思った。スラスラと紙に書けるようならこんなに困りはしないし、他人に助けを求めたりもしないのだ。


 返す言葉に詰まり、固まってしまったバクローは、ミズキちゃんから矢のように放たれた冷たい視線にカッとなり、余計に言葉がもつれた。

「ちょっとあの。外に出てみて、くれんかね?」

 丁重に頼んだつもりだったのに、ミズキちゃんはスベスベの頬を引き攣らせ、慌ただしい手招きで後方の職員を呼んだ。渋々と立ち上がって来たのは、新入りらしく見覚えのない顔だった。二週間前に来たときにいなかったのは確かだと、バクローは思った。


「こちらの方のお困りごとを聴いてあげてくれない?イチコさん。外回りの仕事はお得意でしょ。(そしてバクローに向き直り)この職員はリハビリ中ですけど、保全課のパトロール業務をしていたので、きっとお役に立てると思いますから、遠慮なくなんでもお申し付けください」


 ミズキちゃんは高らかに歌い上げる小鳥のようにさえずった。そして、どんな用件か知りたくもないし、どのみちしつこく食い下がって迷惑に違いない高齢者のバクローを、目下負傷療養中でこれといった仕事のない降格職員イチコに丸投げして、まんまと難を逃れたのだった。


 ベリーバレー支所の受付カウンターから駐車場までの道すがら、バクローはあてがわれた新入り職員をとっくりと観察した。取りつくシマもない仏頂面でだるそうな身のこなしや、ウンともスンともろくすっぽ返事のない不愛想ぶりが、受付カウンター越しではだいぶ気に障ったのだ。

けれどもこうして外を歩く姿を見れば、あっと驚き、ストンと腑に落ちた。この新入りはまさしく怪我人で、それも相当な重傷者だった。


 右腕にギプスをつけ、左手に持った杖で支えた左脚を引きずっている。見るからに痛々しい。ニコリともしない仏頂面は、よく見たら青タンと擦り傷だらけ、これじゃ口を開くたびにいちいち痛むことだろう。

 痛いというのは、いかん。バクローは思った。痛い思いをするのは超絶苦手だった。さらによく見れば新入り職員は、まだ子どもかと思うほど若いのだ。図らずもバクローは、満身創痍で若すぎるこの新入り職員に同情と好奇心を覚えた。柄にもなく、やさしい口調で話しかけてみた。


「そのケガ、ひょっとして事故ったのかい?」

 新入りは案外素直にハイとうなずいた。

「ケガ人は、アンタひとりで済んだのか?」

 新入りはつと歩行を止め、大きくかぶりを振った。

「そりゃそうだろ。ひどいケガだ。死人も出たか?」

 新入りはこくんとうなずき、絞り出したような低い声で言った。

「…知り合いの子どもが。五歳の」

「ほう。五歳の子どもが。そうかそうか」


 意外にもバクローはその場に立ち尽くし、こうべを垂れた。会ったこともない五歳の子の死を、心底から悼んでいるようだった。真摯なその姿は、イチコをたじろがせた。驚きに見開かれた両の目に、うるうると涙が溢れた。言うつもりのなかった言葉が滑り出た。


「わたしの犬も亡くなりました。ドーリーという子が」

「なんと。犬もかい。そりゃいかん。そりゃあ、キツイな」

 バクローの大きな手がイチコの左肩を軽くポンポンと叩いた。その拍子に、両目に溜まっていた涙の粒がポロポロと零れ落ちた。まるで蓋が外れたように、涙は後から後からとめどなく湧き上がり、流れ続けた。


 どんな事故だったのか、バクローはひと言も尋ねようとしなかった。イチコはそれを、なによりありがたく思った。86号車の転落事故からつい最近まで、保全課の上司と保険会社の担当者とドクターギョートクに対し、同じ状況説明を何度も繰り返さなければならなかった。そのたびに、ひどく消耗した。泣こうにも泣けなかった。自分はどこかおかしくなってしまったのかも知れない。そう感じていた。


 事故に至るまでの一部始終が記録されたドラレコ映像があり、関係者の全員がそれを見たにもかかわらず、イチコはやはり責められた。どうして、止められなかったのか。たった五歳の子どもの悪ふざけを。なぜ、防げなかったのか。転落する前に、安全な場所に停車すべきだったのではないか。


 安全な場所なんて、どこにもなかった。

 抗弁したい気持ちを胸に収め、イチコは試練の時を遣り過ごした。

 

 どうしたって事故は起こるんだから、しょうがないのさ。

バクローの見解はその一言に尽きた。神様の気まぐれだか確率の問題だか知らんが、人がどう頑張っても事故は毎日どこかで起きる。自分の身に降りかかるか、そうでないか。大きな違いはそれだけだ。つらい思いをしているのは、アンタひとりだけじゃないだろ。


 バクローの脱力系なもの言いは、ピンと張りつめたイチコの心の琴線をほぐし、ゆるめた。何者なのかもわからない、だいぶヘンテコな人だけど、このジイサンはなんか面白い。そう思える余裕が生まれてきた。


 一体何に困っているのか、バクローは前もって語ろうとしなかった。それでも駐車場の隅に止め置かれた軽ワゴン車に行きつくまで、イチコは敢えて尋ねようとせずに待った。バクローは何ごとか考え込んでいる様子だったが、ふいに思いついた調子で訊いた。


「それじゃアンタ、免停中なのか?」

「そうですけど」

「そりゃそうだな。なら、公道に出なけりゃいいのか、ここは広いし」

「はあ?」

「なあアンタ、このクルマをちょいと動かしてみてくれんかな」

「え?でもわたし、免停中だし。メカにも詳しくないです」

「だから。ちょいとだ。あっちの列の端っこまでさ。道路には出ない。クルマに不調はなんもないんだ」

「でも。まだ運転できる気がしなくて」

「そんなら、エアってやつでいいさ。アンタのリハビリにもなるだろ」


 エアだって?バクローの申し出はあまりに突拍子もなくて、イチコは思わず吹き出した。やっぱり相当にヘンテコなジイサンだ。でも、ちっともイヤな感じはしない。だってわたし、あのベリーバレー支所にいても、できることはなんにもない。イチコは思った。はっきり言ってなるべく長時間、戻りたくない。


 突拍子もないことばかりを連発するこのヘンテコなジイサンは、ミズキさんからあてがわれた要注意人物だった。つまり、この人に絡まれているかぎり、わたしは戻りたくないベリーバレー支所へ戻らずに済む。そういうことになるはずだと、イチコは思った。


 いくらか乗り気になってイチコは、自分よりも年長と思われる軽ワゴン車の運転席を覗き込んだ。ドアロックが掛かっていないどころか、左右のウィンドウが全開だった。無防備なことこの上ないけれど、おかげで陽ざしの熱がこもっていないのは助かった。

存分に使い込まれた軽ワゴンの車体にはなんの表示もなく、車内に荷物のひとつもないがナンバープレートは黒色だった。どうやらこのクルマは、運送業務に使われているものらしい。


 このジイサンが運送業者だって?まさかでしょ、こんな大年寄りなのに。甚だ違和感を覚えつつ、イチコは運転席に座った。ごく一般的なオートマチック車の仕様で、パトロールEVと比べて戸惑うような違いはない。これならモンダイなくイケるだろうと、気持ちが軽くなった。


 ギアをドライブに合わせたイチコの手の動きを、助手席に座ったバクローがじっと見ていた。やけに熱いまなざしだった。右脚でアクセルを踏みながら左手でサイドブレーキを外したときは、バクローの右脚と左手も同じタイミングで動いた。それから得心した面持ちで深くうなずき、ひとり言のようにつぶやいた。


「OKOK。思い出したぞ。なんだ、これでいいのか。いいんだな?」

「え?忘れていたんですか、運転のやり方を?そんな、まさかでしょ」

「いんや。まさに、そのまさかなのさ。なんたってオレも驚いたんだ。ここまではふつうに来た。トイレ休憩してミズキちゃんの顔見て、さあ行こうとしたら、やり方がわからなくなった。アホみたいな話だ。

いまは思い出してるけど、また忘れそうな気がしないでもないから、ちっと困ってる。アンタ、ヒマだろ?これからオレのドライブに、つき合ってくれんかな」


 運転操作を忘れてしまうかも知れないと言い切る高齢者から、同乗を依頼されて断る口実は思いつかなかった。降格処分を受けて負傷療養中の身であっても、イチコはまだ保全課員だった。市民の安全を守ることが職務なのだ。自分の身が危険にさらされる恐れは、二の次だ。その点に関しては、もはや破れかぶれの心境だった。







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