68.秘めたる想い
※5/21に、諸事情のため、67話(前話)の後半に2000文字を追加しました。
大変お手数ですが、それ以前に67話を読まれた方は、前話後半からお読みいただくようお願いいたします。
アレクシスの語った内容はこうだった。
クロヴィスは長いこと、ルクレール侯爵について調べていた。国内の大きな事件を調べているうちに、その背後にルクレール侯爵家の存在があることに気付いたからだ。
結果、侯爵は十五年以上も前から、人身売買や密輸など、ありとあらゆる不正に手を染めていたことが判明した。
帝都内で定期的に起こる孤児院の火災は、子どもたちを他国へ売り飛ばすために人為的に起きたものだったし、金の密輸にも当然関わっていた。
それらの証拠を、クロヴィスは全て調べ上げた――それが丁度一年前のことだ。
けれどクロヴィスは、すぐに告発しようとはしなかった。
ルクレール侯爵の権力は皇室と言えど無視できないほど大きく、当然のことながら、不正は侯爵家単独で行われているのではなく、多くの家門が関わっていたからだ。
そんな中、その中心的な家門を潰せばどうなるか。統率者を失った組織が表の世界にまで魔の手を伸ばす恐れがある。それ以前に、潰そうとすればこちらも無事ではいられない。
そもそも、ルクレール侯爵領はあまりにも広大であるし、不正や悪事をしていることを除けば(それが最大の問題なのだが)侯爵の政治手腕は確か。失うのは、あまりにも損失が大きすぎる。
――ならばどうするか。殺すのではなく、飼いならせばいい。
そう結論づけたクロヴィスは、ずっと機会をうかがっていた。
不正は正さねばならない。悪事は滅せねばならない。その為の見せしめが必要だ。
だが、決して首は落とさぬように――その為に、今回の件を利用したのだ。
クロヴィスはルクレール侯爵に取引を持ち掛けた。
これまでの悪事を一切公にしない代わりに、一線から退くように、と。退く為の理由に、「息子の不祥事」を用意して。
――ルクレール侯爵はあっさり承諾した。彼としても、周りの目を欺くために、一線を退く正当な理由が必要だったからだ。あくまで形式的なものであろうと、「息子の不祥事の責任を取っての議長の退任」は、それを十分すぎるほど満たしていた。
とは言え、ルクレール侯爵が数多くの不正に手を染めていることは、裏の社交界では周知の事実。
法的な裁きを受けないからこそ、侯爵の議長の辞任は、エリスの不貞など全く問題にならないほどの大きな噂となり、社交界を騒がせることになるだろう。
――アレクシスは締めくくる。
「以上が、兄上が俺に話してくれたことの全てだ。ルクレール侯爵は本日付けで議長を辞任した。リアムの起こした不祥事の責任を負い、向こう三年、領地で謹慎するそうだ。加えて、リアムとオリビアの葬儀は領地で執り行うと。今後一切、二人に関わらないと念書も書かせた。君についての噂もすぐに消えるだろう。だからもう、何も心配することはない」
「――!」
“何の心配もいらない”。――その言葉に、エリスの胸の奥に張り詰めていた緊張が、ふっとほどけていく。
正直エリスはまだ、アレクシスの言葉の半分も咀嚼できていなかった。心の中は、まさか自分の知らないところで、そんなことが起こっていたなんて――という気持ちで溢れていた。
けれどそれでも、自分を安心させようと言葉を尽くしてくれるアレクシスの優しさが、とても嬉しかった。
きっと今なら、自分の気持ちを正直に言えるだろう、そう思えるくらいには。
「ありがとうございます、殿下。そのような重要なことをお話しくださって。――では、わたくしからも一つ、よろしいですか? わたくしも殿下に、どうしても謝らなければならないことがあるのです」
そう言うと、アレクシスは驚いたように眉を寄せたが、すぐに頷いてくれる。
そんなアレクシスに背中を押され、エリスは、シオンにすら言えなかった気持ちを、口にした。
「今回の件、殿下は何度も、全ては自分のせいだと仰いました。わたくしは何も悪くないと。……でも違うのです。リアム様に隙を与えてしまったのは、どう考えても、わたくし自身なのです。なぜなら、わたくしは――」
「…………」
「わたくしは、この子を身ごもったことを、心から喜ぶことができなかったのですから」
「――!」
それは妊娠が判明したその日から、エリスがずっと、心に秘めていた感情だった。
(わたしが、母親に……?)
妊娠を告げられたその瞬間、エリスの中に真っ先に芽生えた感情は、喜びではなく恐怖だった。
皇子妃として、いつかは子どもを産むことになるだろう――頭ではそう理解していても、実際はもっと先のことだと思っていたからだ。
母親になる覚悟も、準備も、何もできていない。
そもそも、アレクシスは以前、自分に子どもは必要ないと言っていた。それなのに――。
エリスは怖くてたまらなくなった。
子どもは不要だと言った、あの言葉がアレクシスの本音だったら。嫌な顔をされたら。
そのせいで、アレクシスの愛情が自分から遠ざかってしまったら。
父親から愛されなかった自分やシオンと同じ思いを、お腹の子どもにもさせてしまったら。
アレクシスを信じたいのに、どうしても信じきることができない。
シオンや使用人たちから「おめでとう」と言葉を掛けられる度、息が止まりそうになる。
「ありがとう」と答える笑顔の裏で、叫び出したくなる気持ちを必死に抑えていた。
――エリスはどうにかして気を紛らわそうとした。
子どものことを少しでも考えないように。嫌な想像をかき消すように。
そんなときだ。
リアムから、お茶会の招待状が届いたのは。
「わたくしは、すぐに参加の返事を出しました。これで少しは、先のことを考えなくても済む。そう思ったからです。つまり今回の件は、殿下だけではなく、わたくしの未熟さが招いた結果。ですから決して、殿下おひとりが責を負う必要はないのです」
「……っ」
アレクシスはエリスの告白を、目を見開いて聞いていた。
まったく予想していなかった内容に動揺を隠すこともできず――茫然と問いかける。
「今も、そう思っているのか……? 俺が、君との子どもを喜ばないと」
アレクシスは正直、ショックを禁じえなかった。
エリスにそんな風に思われていたことも。エリスをそれほど不安にさせていたことも。
リアムとの一件のことなどすべて頭から吹き飛んでしまうほどの、強い衝撃を受けていた。
だが、エリスは首を振る。
アレクシスを真っすぐに見つめ、毅然と答える。
「いいえ、思っておりません。殿下は確かに喜んでくださいました。わたくしを大切に扱ってくださいました。ですからもう、不安はありません」
「なら、どうしてこの話を俺にした? 黙っていれば……」
「黙っていたら、殿下はいつまでもご自分を責められるのでしょう? それは、わたくしの望むところではありませんから」
「……っ」
この一週間、エリスは沢山考えた。
自分を避けるアレクシスを、どうしたら振り向かせられるだろうかと。
どうすれば、前の様に接してもらえるだろうかと。
その結論が、これだった。
こうしたやり方はどうかと思うけれど、シオンに言われずとも、エリスは最初から、そうしようと決めていた。
エリスは、アレクシスの胸板にそっと手を這わせ、誘うような声で問いかける。
「殿下は、このような未熟なわたくしでも、変わらず愛してくださいますか?」
「――!」
それはエリスの決死の告白だった。誘い文句だった。
顔から火を噴きそうなほどの羞恥心を必死にやり込めて、エリスは、アレクシスの黄金色に揺れる瞳を覗き込む。
「それとも、殿下はもう、わたくしの身体に、飽きてしまわれたのですか?」
「……ッ」
すると、その瞬間だった。
今までエリスの真意を測りかねていたであろうアレクシスの瞳がギラリと揺らめき、獰猛な獅子のそれに変わったのは。
「……人の気も知らないで」
と低い声で呟いて、アレクシスの下半身が一気に硬さを持つ。
と同時に、背中にアレクシスの腕が伸びてきたと思ったら、気付いたときには天地が逆転していた。
今まで自分の下にいた筈のアレクシスが、一瞬のうちに自分を上から見下ろしている状況に、エリスはかぁっと顔を赤く染める。
そんなエリスを、尋問でも行うかの様に、鋭く見定めるアレクシス。
「君は、そんな台詞をいったいどこで覚えたんだ? 誰に教わった?」
「……あ。……そ、れは……」
「シオンか? それとも他の誰かか? 君はその言葉の意味を、ちゃんと理解しているんだろうな?」
「……っ」
理解なら当然している。情報の出どころは以前読んだロマンス小説だが、その意味を理解できないほど、自分は純情なつもりはない。
エリスは、小さく首を縦に振る。意味なら分かっている、と。
すると、アレクシスは悩まし気に息を吐いた。
「君がどう思っているのかは知らないが、俺が君に飽きるはずがないだろう。俺はずっと我慢しているんだぞ。――今だって」
エリスをめちゃくちゃにしてしまいたい衝動を、必死に抑えている。
一度始めればもう、歯止めがきかなくなることがわかっているから。
「……理解してくれないか。俺は、君の身体の負担になることはしたくないんだ」
「でも、わたくしは殿下に我慢してほしくないのです。何より……わたくしが寂しいのです。殿下がいなかったひと月の間、殿下を思い出さない夜は一日たりとありませんでした。それでも、殿下は……」
「…………」
「殿下は、わたくしを――」
――抱いてくださらないのですか?
そう言いたげに見つめられ、アレクシスはごくりと息を呑む。
ここまでされて自制し続けられるほど、アレクシスは我慢強くなかった。
「本当にいいんだな? 途中で止めろと言われても無理だぞ」
「言いません。殿下こそ、途中で怖気づかないでくださいね?」
「――ハッ。俺を煽るつもりか? 後悔しても知らないからな」
アレクシスは挑発的に唇の端を上げ、そのままエリスに口づける。
深く、深く。互いの存在を確かめるような、熱い口づけを――。
二人の鼓動が重なり、息づかいが混じり合う。
こうして、二ヶ月ぶりの長い夜は、ゆっくりと更けていった。
次話で2部完結です。