67.移り行く
それから少し後。
藍色に染まり始めた空の下で、エリスはアレクシスのエスコートを受けながら庭園を歩いていた。
散歩に誘われたからだ。
だが、せっかく待ち望んだ二人きりの時間だというのに、その表情はどこかぎこちない。
その理由は、『どうしてアレクシスはこんなに早く帰宅したのだろう』だとか、『この散歩にはどんな意味があるのだろう』だとか色々だったが、一番の理由は、今しがた学院の寮へと帰っていった、シオンの去り際の台詞のせいだった。
――ほんの数分前、シオンはアレクシスへの挨拶も早々に、エリスにこう言った。
「急用を思い出したから帰るよ。僕の分の食事は殿下に食べてもらって」と。
そして更に、エリスの耳元でこう囁いたのだ。
「そろそろ殿下の相手をしてあげてよ。先生も、ほどほどなら大丈夫って言ってたから」――と。
言われた瞬間はどういう意味かわからなかった。
けれど、シオンが背を向けた数秒後、ようやく閨のことだと理解した。
エリスはすぐに叱ろうとしたが、その瞬間振り返ったシオンがあまりにも無邪気な笑顔で、「すぐにまた来るから」などと言って手まで振るものだから、タイミングを逃してしまったのだ。
エリスはそのときのシオンの言葉を思い出し、羞恥心から顔を赤くする。
(あの子ったら、一体いつからあんなことを言うようになったのかしら。次に会ったら、ちゃんと注意しておかなきゃ。あんなこと、むやみに口にするものじゃないって)
そんな風に心の中でシオンを戒めてみるものの、どうしてもあの言葉が頭から離れない。
それは、エリス自身も少なからず気にしていることだったからだ。
ここのところ、アレクシスは自分を一切求めてこない。一緒のベッドで眠りはするものの、することと言えば、触れるか触れないか程度の、就寝前の軽い口づけだけ。
その理由は、アレクシスに避けられているからか。それとも、我慢をさせてしまっているのか。あるいは、別の理由があるのだろうかと。
すると、エリスがそんなことを考え始めた、その矢先。
不意にアレクシスの手が伸びてきて、エリスの頬に触れる。
「さっきからどこを見ている。顔が赤い様だが……寒いのか?」
「……っ」
刹那、びくりと肩を震わせて、一層顔を赤く染めるエリス。
それは当然、気まずさと恥ずかしさからくるものだったが、アレクシスは『寒さのせい』だと勘違いしたのだろう。怪訝そうに眉を寄せ、次の瞬間にはエリスの身体を抱き上げていた。
「殿下……っ、何を……」
「震えるほど寒いなら何故言わない。すぐに中に戻るぞ」
「――! いいえ、特に寒くは……!」
「嘘をつくな。風邪をひいてからでは遅い。まずは風呂だ。食事はその後にする」
「……っ」
嘘ではない。本当に寒くなどない。
一度はそう言おうとしたものの、エリスは結局、言うのをやめた。
理由は、そう。
アレクシスの腕の中に、このまま抱きしめられていたいと思ったから。
(……殿下はいつもお優しいけど、どうしてかしら。今日の殿下は、いつもより、ずっと……)
その理由はきっと、こうして早くに帰宅したことと関係があるのだろう。
先ほど散歩に誘ってくれたときも、アレクシスは何か言いたそうな顔をしていたから。
(部屋に戻ったら、きっと話してくださるわよね。それに、わたしも殿下に……)
――言わなきゃいけないことがある。
エリスは、自身の気持ちを改めて思い返しながら、アレクシスに身を委ねる。
そうして、アレクシスの温かな体温を噛みしめるように、ゆっくりと目を閉じた。
◇
「――ん……」
――それからどれくらい経っただろう。
暖炉のパチパチという音に瞼を開くと、そこは自分の寝室だった。
灯りのない暗い部屋に、暖炉の炎だけが明るく揺らめいている。
「――!」
(やだ。わたしったら、いつの間に……)
どうやら眠ってしまっていたようだ。
庭園で、アレクシスに抱き抱えられたところまでは覚えているが、その後の記憶がない。
エリスは咄嗟に身体を起こそうとした。
けれどどういうわけか身体は微動だにせず、そこでエリスはようやく気付く。
自分がベッドではなく、ソファの上――しかも、アレクシスの腕の中にいることに。
「……っ」
(これ、どういう状況なの……!?)
エリスは驚きと戸惑いに息を呑んだ。
背後から、アレクシスの腕ががっちりと腰をホールドしていたからだ。
「あ……、あの、殿下……?」
エリスは声をかけてみるが、反応はない。
きっと、アレクシスも眠っているのだろう。
だがそれも無理はない。
アレクシスはここのところ、ずっと忙しくしていたのだから。
(お忙しい殿下が、わざわざ早く帰ってきたんだもの。きっと大事な話があったはずよ。それなのに寝てしまうなんて……)
意識がはっきりするにつれ、申し訳なさが募っていく。
こんなことなら、庭園で話を聞いておくべきだった――そんな風に。
すると、その時だ。
アレクシスは目を覚ましたのか、大きく身じろぎし、深く息を吐く。そして、小さく呟いた。
「……エリス?」
その声には戸惑いが滲んでいた。
アレクシスは、どうしてエリスが自分の腕の中にいるのか分からないようだった。
けれどすぐに状況を理解したのか、エリスの腰に回していた放すと、困ったように微笑む。
「すまない。君を離しがたくて、そのまま眠ってしまった。どこか痛むところはないか?」
「――っ」
その声はあまりにも甘く、まるで夢の続きを語っているかのようだった。
(やっぱり、今日の殿下は様子が変よ)
先ほど、庭園で自分を心配したときもそうだった。
今日のアレクシスはいつもと違い、どこか物憂げな雰囲気を纏っている。
きっとこれは、宮廷で余程のことがあったのだろう。
そう確信したエリスは、顔を赤く染めながら、ふるふると首を振った。
「いいえ、どこも……。わたくしの方こそ、申し訳ございません。大事な話があったのでしょう? それなのに眠ってしまうなんて……」
「話? 俺はそんなことを言ったか?」
「いえ。でも、お忙しい殿下が早く帰ってくるなんて、そうとしか……」
暖炉の側のソファの上で、エリスはアレクシスに身体を預けたまま、冷静な声で問いかける。
するとアレクシスは、合点がいった、という顔をした。
「ああ、それはな……」
アレクシスは、エリスの腰に再び腕を回し、口角を上げる。
「明日からしばらくの間、宮で仕事をしようと思ってな。本棟への人の出入りが増えるから、君に伝えておかなければと思ったんだ」
「……え? こちらで、お仕事を?」
「ああ。そうすれば、好きな時に君に会えるだろう? 朝食も夕食も、午後のティータイムも、共に過ごせる」
「――!」
刹那、思いもしなかった言葉に、エリスは再び息を呑む。
正直、ときめきを感じ得なかった。
この一週間の間に積み重なっていた不安な気持ちが、一瞬で吹き飛ぶように思えた。
だが、それでも、どうしても違和感が拭えない。
どうしてアレクシスは急に態度を変えたのだろうと。
その理由を、尋ねてもいいのだろうか。それとも……。
――エリスがそんなことを考え始めた矢先、アレクシスはエリスの気持ちを悟ったのか、あるいは、先回りするつもりなのか、神妙な顔で続ける。
「ここしばらく、君の相手をしてあげられずにすまなかった。君は気付いていただろうが……白状すると、俺は君のことを避けていたんだ。決闘直後、君が倒れたのを見て、どう接したらいいかわからなくなってしまってな。……情けない男だろう?」
「――! そんな、決してそのようなことは……!」
「いいや、そうなんだ。事実俺は、今朝になって事態が好転するまで、君とこうして話す勇気が持てなかったのだからな」
「……!」
――事態が好転。
その言葉に、エリスはハッとする。それは間違いなく、リアムの件についてに違いなかった。
この一週間、気にし続けていたけれど、結局一度も聞けなかったこと――それを今、アレクシスは話そうとしてくれている。
それを察したエリスは、覚悟を決めて、アレクシスに問いかけた。
「そのお話、詳しく聞かせてくださいますか?」
すると、「勿論だ」と頷くアレクシス。
「君にとっては、あまり気持ちのいい話ではないだろうが――」そう前置きをした上で、アレクシスは慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと語り始めた。




