66.答え合わせ
――その日の夕方、空が橙色に染まりかけた頃、エリスはシオンと二人、庭園を散歩していた。
ほとんどの花が枯れてしまうこの季節、一年草のパンジーやビオラ、アイビーなどで彩られた花壇の間を歩きながら、二人は他愛のない会話を弾まていた。
「そしたら教授が彼に、"――"って言ってさ」
「まあ! それで、その方はどう返したの?」
「それがね――」
シオンはこの一週間、宮の外に出られないエリスの為に、授業が終わり次第こうして通ってくれている。
おかげでエリスは、アレクシスの帰りが遅い日も、寂しさを紛らわすことができていた。
(シオンがいてくれて良かったわ。一人だと、どうしても色々と考えすぎてしまうから)
リアムとオリビアが帝都を発って一週間。
あの日からエリスは、エメラルド宮を一歩も出ていない。
その前の週もアレクシスはエリスの外出を許さなかったので、この二週間の間に外に出たのは、決闘のときだけということになる。
正直、不満がないと言えば嘘になるが、エリスはアレクシスが外出を禁止するのは自分を守るためだと気付いていたため、アレクシスに従おうと決めていた。
とは言え、時間が有り余って仕方がないのも事実。
そんな状況で、シオンが毎日話し相手になってくれるというのは、心から有難いことだった。
「姉さん、今日も殿下の帰りは遅いの?」
「どうかしら。今朝もお見送りできなかったから」
「なら今夜も夕食を御馳走になろうかな。まだ全然話し足りないし」
「勿論、そのつもりで用意してあるわ。でも勉強の方は大丈夫なの? わたしはあなたと過ごせて嬉しいけど、今日でもう一週間よ」
「ああ、そっちの方は問題ないよ。こう見えて僕、結構要領いいんだから」
確かに、シオンはランデル王国学園で毎年次席を取っていたと聞いている。
ならば、きっと問題はないのだろう。
――それにしても。
勉強の件から、エリスは不意に思い出す。
自分はシオンに聞かねばならないことがあったのだ、と。
「ねぇ、シオン」
エリスがシオンの名を呼ぶと、シオンは夕日の眩しさに目を細めながら満面の笑みを零した。
「何、姉さん?」と、優しい声で問い返してくる弟の笑顔に、エリスは一瞬質問するのを躊躇ったが、意を決す。
「あなたは、スフィア王国に戻る気はないの?」
「――!」
刹那、予想外とばかりに、大きく見開くシオンの瞳。
「実はわたし、殿下から聞いているの。あなたが学園で次席を取っていたことや、奨学金で浮いたお金を投資していたってこと。それで、ずっと考えていたの。どうしてそんなことをしたんだろうって。そしたら、宮廷舞踏会でのあなたの言葉を思い出して……」
半年前、舞踏会の最中、中庭で四年ぶりにシオンと再会したとき、シオンは「愚かな父親を油断させておく必要があった」と確かに口にした。
つまり、成績表を誤魔化した元々の理由は、『無能な後継者でいる必要があった』からなのだろうと。
だが、父を油断させるだけなら投資までする必要はない。――となると、考えられる理由はただ一つ。
「もしかしてお父様は、あなたを家から追い出そうとしていたの? それを少しでも遅らせるために、成績表を偽造したの? それを防ぐために、お金が必要だったの?」
「…………」
「これはあくまで、わたしの想像でしかないわ。でも、リアム様の一件があって、もしかしたらって」
父は自分たちを憎んでいた。
分家から婿養子に入った父には、結婚前から慕っている女性がいた。それが継母だ。
シオンを追い出したい理由は十分にある。
「あなたを廃嫡して養子を取れば、ウィンザー公爵家は今度こそお父様のものになる。……だから、あなたは……」
公爵家を手に入れたい父にとって、優秀な後継者は邪魔な存在だ。
シオンはそれを知っていたから、無能な息子を演じていたのではないだろうか。
家門の存続のために私生児を引き取り、優秀な後継者に育てようとしたルクレール侯爵と、正統な後継者であるシオンを廃嫡し、家門を手中に収めようとしている父親。
形は違えど、二人のやろうとしていることは同じ。
「わたしはね、シオン。家を出るまでずっと、公爵家はあなたが継いでくれると信じて疑わなかった。だってあなたは正統な後継者だから。でも、必ずしもそれが幸せな結果になるわけじゃないって、今回の件で学んだわ」
「……姉さん」
「だから、あなたは好きにしたらいいのよ。もし戻りたければ、全力で応援する。きっと殿下が力を貸してくださるわ。でも、そうじゃないなら――」
エリスは、笑顔を消してしまったシオンに両手を伸ばし、そっと頬を包み込む。
「いつまでも、ずっと私の側にいていいのよ、シオン」
◇
――『ずっと側にいたらいい』
瞬間、再びシオンの目が見開く。
その内容が、一度は諦めかけた夢だったからだ。
シオンは幼少期から、エリスと共に生きたいと願っていた。その為だけに努力してきた。
成績表を偽造したのも、浮いたお金で投資をしたのも、元を辿れば、全てはエリスと共にある為だった。
けれどエリスは帝国に嫁ぎ、しかも、自分の存在はエリスの負担になってしまう――それを悟ったシオンは、エリスと一定の距離を保とうと決めたのだ。
それなのに、エリスは自分が側にいてもいいのだと言う。
「……ずっと側にいていいの? 本当に、僕の好きにしていいの?」
「勿論よ。あなたの人生だもの」
「――っ」
同情心ではない。弟に対する責任感でも庇護欲でもない。
自分を一人の人間として認め、選択を委ねるエリスの瞳に、どうしようもなく胸が熱くなる。
けれどそんな思いとは裏腹に、シオンは素直に頷くことができなかった。
なぜならシオンもまた、今回の一件で学んでいたからだ。
『ウィンザー公爵家の問題をこのまま放っておいたら、いずれ大変なことになる』と。
「…………」
(僕は姉さんの側にいたい。その気持ちは変わらない。だけど、実家の問題から目を背けるのは違う気がする)
とは言え、この場でそれを口にすれば、エリスにいらぬ心配をかけてしまうだろう。
シオンはエリスの瞳をじっと見つめ返し、どう返事をすべきか思案する。
――すると、そのときだった。
エリスの背後、宮の入り口の方角に、見覚えのある影が現れたのは。
「――!」
(あれは、殿下? もう帰ってきたのか?)
夕日に重なるその人物は、アレクシスに違いなかった。
侍女に居場所を聞いたのだろう。
庭園を見渡すような素振りをしたアレクシスは、二人の存在に気が付くと、早足でこちらに近づいてくる。
その表情は、明らかに何か覚悟を決めた様子で――シオンは直感的に悟った。
これはしばらく、自分の出番はなさそうだ、と。
この一週間、シオンは毎日エリスの元を訪れていた。
それは当然シオン自身が望んだからだったが、それ以外にも、セドリックから頼まれたからいう理由もある。
「殿下にエリス様と向き合う覚悟ができるまで、エリス様のことをお願いします」――と。
だが、アレクシスの様子からするに、その役目は今日で終わりだろう。
ならば、伝えるべきことは伝えておかなければ。
シオンは、頬に触れるエリスの手のひらに自身の両手を重ねて下ろすと、その手をそっと握りしめる。
「ありがとう。姉さんの気持ちはすごく嬉しいよ。でも、すぐには答えられないんだ。少し前の僕なら、姉さんの側にいるって即答したと思うけど、僕も、リアム様やオリビア様のことがあって、色々考えさせられたから」
祖国に戻りたいとは思わない。公爵位にも興味はない。その気持ちは以前と同じ。
だからといって、あの愚かな父親にこのまま家を明け渡すのはあまりにも危険すぎる。となれば、それを阻止するために、祖国に帰らなければならない日が、近いうちに必ず訪れるだろう。
「成績表や投資のことは、全部姉さんの言うとおりだよ。父さんは僕を廃嫡しようと考えてる。その後は養子を取るつもりなんだろうって、僕は前から思ってた。だからもしものときの為に、お金と人脈を広げておこうって始めたことなんだ。……ごめんね、姉さん。ずっと隠してて」
本当は、エリスに真実を伝えようと思ったことは何度もあった。
けれどこれを知れば、エリスは自らを責めるだろう――そんな考えに至り、隠し通すことに決めたのだ。
するとエリスは、そんなシオンの心理を汲み取ったのか、「あなたが謝ることは何もないわ」と小さく首を振る。
「殿下から話を聞いたときは本当に驚いたけど、責める気持ちは少しもなかったの。ただ、あなたがそうしなければならなかった理由がわからなくて、もしかしたらと思った後は、自分の鈍感さに呆れただけ」
「――! 鈍感だなんて、そんなこと……!」
「いいのよ。それにわたし、あなたがずっと次席を取っていたと聞いて、誇らしかったんだから。わたしの弟は、とても優秀なんだって」
「……姉さん」
「シオン、わたしはね、きっとこれからも沢山のことを見逃すと思うの。わたしはあなたほど賢くないし、お父さまの考えにすら気付かなかった。でも、これだけは言える。わたしはいつも、あなたの幸せを願っているって。どうか、それを忘れないで」
「……っ」
エリスの純粋な眼差しに当てられて、シオンの中に強い衝動が沸き上がる。
今すぐエリスを抱き締めてしまいたい、と。
けれどシオンは、その気持ちを必死に心の奥にしまい込んだ。
自分はもう、エリスを諦めると決めたのだから。
「……うん。絶対……忘れない」
そう答えると、エリスは花のような笑顔を見せる。
と同時に、「エリス」と、時間切れの合図の声がして――。