62.決着
殺せ、と本能が告げていた。
殺らなければ、殺られるのはお前の方だ――と、誰かが自分を嘲笑っていた。
お前はこの男を殺したがっていたじゃないか。何より、こいつ自身が死を望んでいる。いったい何を躊躇う必要がある? ――そう、ほくそ笑んでいた。
理性の吹き飛んだ、まるで真っ暗闇な思考の中で、「殺せ」と、その言葉だけが、何度も何度もこだまする。
(……殺す? だが、俺は……)
確かにアレクシスは、エリスに諭されるまで、リアムを殺してしまっても仕方がないと思っていた。
自分のオリビアへの仕打ちを差し引いても、関係のないエリスを巻き込み、不貞の噂を流したリアムの罪は重い。
それに、命と名誉を掛けて行う決闘に『命の駆け引き』なしで臨むことは、神聖なる決闘に対する冒涜である――そう考えていた。
けれど、アレクシスはその考えを改めたのだ。
二日前の夕食で、エリスの気持ちを聞いたアレクシスは、自身の怒りの矛先をリアムだけに向けることを止めた。と同時に、たとえリアムにどのような態度を取られようと、どんな暴言を吐かれようと、「決して殺さない」と決めたのだ。
それなのに、こんなに簡単に、その決意を不意にしてしまっていいのだろうか。
(……俺、は……)
アレクシスは自問する。
本当に殺してしまっていいのか、と。
殺せ――と、本能が放つ警鐘に、抑制された僅かな理性で、どうにか抗おうとする。
すると、そのときだった。
闇の中で葛藤するアレクシスの耳に、「お兄様!」と声が届いたのは。
「――ッ!」
瞬間、アレクシスはハッと理性を覚醒させた。
そして絶句した。
本能のまま振り下ろし始めた自身の剣の前に、オリビアが立ちふさがっていたからだ。
先ほど剣を弾いたときの衝撃で、尻もちをついたリアムを庇う様にして、仁王立ちで自分を睨みつけるオリビア。
その姿に、アレクシスの背筋が凍りつく。
――ああ、不味い。
このままではオリビアを斬ってしまう。
かと言って、今さら振り下ろした剣をどうにかできるわけもなく。
(――くそッ!)
アレクシスは、突然飛び込んできたオリビアに強い怒りを覚えながらも、少しでも剣の軌道を逸らそうと、身体の重心を後ろにずらす。
と同時に、理性を取り戻した頭で、リアムの表情をしっかりと捉えていた。
妹の背中を瞳に映し、こちらを呆然と見上げるリアムの姿を。
完全に戦意を喪失し、最愛の妹に迫りくる『死』に恐れを抱く、絶望に染まったその顔を。
そして、次の瞬間――。
◇
「オリビア様ッ!」
エリスがそう叫んだのと、アレクシスの剣が止められたのは、ほぼ同時だった。
アレクシスの放った刃は、オリビアに届く寸でのところで、ジークフリートによって防がれたのだ。
二階席のエリスたちは、その一部始終を上から見ていた。
今しがた、ジークフリートと共に闘技場に姿を現したオリビアが、止める間もなくアレクシスの前に飛び出していったところを。
そんなオリビアを追いながら、ジークフリートが剣を抜いた瞬間を。
正直エリスはその場面を見たとき、もう駄目だと思った。
ジークフリートは間に合わないのではないか。間に合ったとしても、アレクシスの剣を防ぎきれないのではないか、と。
けれど、ジークフリートは防いでくれた。
それを見届けたエリスは、ほっと胸をなでおろす。
「……良かった」
(オリビア様に怪我はないみたい。……でも、この状況って……)
正直、エリスは今の状況を、どう判断すればいいのかわからなかった。
激しい雨音に掻き消され、二階席には下の会話が聞こえてこないからだ。
眼下では、どういうわけかアレクシスとジークフリートが揉めだしており、そこにセドリックが仲裁に入っている様子だが、内容は少しも聞き取れない。
だが少しして、アレクシスに剣を向けられたリアムが、地面に項垂れたまま小さく首を振ったのを見て、クロヴィスが教えてくれる。
「ルクレール卿が負けを認めたようだ。これ以上は戦えないとな」
「では、殿下の勝利、ということですか?」
「ああ、そうなるだろう」
アレクシスの勝利――それを聞いたエリスは、心から安堵する。
正直なところ、エリスはずっと気が気ではなかった。
リアムの剣がアレクシスを掠める度、心臓が止まる思いだったのだ。
けれど、エリスが気を緩めたのも束の間、クロヴィスの一言が、エリスを現実に引き戻す。
「さて、私は下に降りるとしよう。賭けの結果を見届けなければな」
「――!」
(賭け……。そうよ、まだ終わりじゃないんだわ)
決闘に気を取られて忘れていたが、そもそもこの決闘は『敗者が勝者の望みを叶える』という賭けの元に行われている。
つまり、これからアレクシスがリアムに何らかの望み、あるいは命令を下すということなのだ。
(殿下は、リアム様に何を望まれるのかしら……)
クロヴィスは決闘が始まる前、「悪いようにはならない」というような趣旨のことを言っていたが、本当にそうだろうか。
エリスは不安に思いつつも、覚悟を決めて、クロヴィスらと共に下へと向かう。
だが、そんなエリスを待っていたのは、あまりにも衝撃的な光景だった。
土砂降りとも言える雨の中、地面に両ひざをついたまま項垂れるリアムと、それに寄り添うオリビア。
そんな二人を冷たく見下ろして、アレクシスは言ったのだ。
「リアム。お前には、ここで死んでもらう」と。
そして、こう続けた。
「オリビア、お前はどうする? 兄と共に逝くか――今すぐ選べ」