61.降りしきる雨の中
一方、アレクシスは雨空の下、二階席のエリスの姿を視界の端に捉えながら、リアムの剣を受け流していた。
表情を曇らせ、こちらに不安げな視線を送ってくるエリスの様子に、小さな違和感を抱いていた。
(……エリス? 何故あんな顔を……)
そう言えば今しがた、エリスはクロヴィスと何かを話しているように見えた。
もしや、クロヴィスから不安を煽るようなことを言われたのではないだろうか。
(兄上め。――だから嫌だったんだ、エリスを兄上に会わせるのは)
もともと、アレクシスはエリスの立ち合いに反対だった。
その最たる理由は、エリスに決闘などという野蛮な場面を見せなくなかったからだが、もう一つの理由は、エリスをクロヴィスに会わせたくなかったからだ。
クロヴィスは人当たりがよく女性に紳士的だが、何を考えているかわからないところがある。
もし自分のいないところで、エリスにおかしなことを吹き込まれでもしたら――そう思うと、どうしても気が進まなかった。
だからアレクシスは、本来呼ぶ予定でなかったシオンを同席させることにしたのだ。
それに、急遽マリアンヌも一緒ということになり、それなら大丈夫だろうと安易に考えていた。
だが、そうは問屋が卸さなかったようである。
アレクシスが今度はクロヴィスに視線をやると、クロヴィスはそれを待っていたかのように目を合わせ、ほくそ笑む。
その意味深な笑みに、アレクシスは悟らざるを得なかった。
(――ハッ! 早く終わらせろ、という意味か……!)
クロヴィスはおそらく、『エリスにちょっかいを出されたくなければ一刻も早く片を付けろ』と言いたいのだ。
その理由は分かっている。
今しがた降り出した、この煩わしい雨のせい。
――そう思った刹那、リアムから繰り出された鋭い一撃が、アレクシスを襲った。
「決闘中によそ見とは余裕だな、アレクシス……!」
「――ッ」
同時に、ギィン――と重い金属音を立て、二人の剣がぶつかり合い、拮抗する。
(……ッ、想像以上にやり辛い……! リアムが腕を上げているというのもあるが、それよりも……)
戦いづらい理由は明白だ。
リアムが、むやみに間合いを詰めてくるからである。
――通常、間合いとはめったに詰めるものではない。
詰めすぎると、刀剣の武器としての攻撃特性を出せないからだ。
だから実戦で接近戦になった場合、攻めよりも防御を優先するし、反撃する場合は体術を使うことになる。
殴るか、蹴るか。力に任せて投げ飛ばすか。
だが、決闘では体術の使用が許可されていない。そのため、適度な間合いを保ちつつ戦うのが通常の形なのだが、リアムは『そんなこと構うか』とでも言いたげに突っ込んでくる。
そんなリアムの無謀とも呼べる戦い方は、剣術と体術の複合戦闘を得意とするアレクシスにとって、やりづらいことこの上なかった。
(こいつ、さっきから俺の剣に突っ込んでくるような動きばかり。セドリックの言った通り、こいつの本当の目的は……)
アレクシスは二秒ほど押し合いをした後、半身ずらしてリアムの剣を横に流し、改めて間合いを取り直す。
――セドリックは昨夜言っていた。
リアムの目的は『死』そのものではないかと。
後継者死亡に伴う、『家門の衰退』なのではないか、と。
アレクシスはそれを聞かされたとき、まさかと思った。
だが同時に、全ての糸が繋がった気がした。
わざわざリアムが使用人たちの前で出生の秘密を明かし、自分やエリスを侮辱したのは、自分への恨みだけではなく、後継者としての正統性を周りに疑わせるためだったのではと。
アレクシスは一挙動でリアムの懐に飛び込み剣を薙ぎながら、本降りになった雨音に搔き消されないよう、声を張り上げる。
「お前の目的は、家門の滅亡か……!?」
父親から暴力を受けて育ったリアムにとって、オリビアだけが唯一の救いだった。
そんなオリビアを手放さなくてはならなくなったリアムは、未来への希望を一切持てなくなったのだろう――セドリックはそう語った。
「答えろ、リアム! お前は自らが家門の汚点となり、不名誉な死を遂げることを望むのか!」
――『家門の滅亡』『不名誉な死』
その言葉に反応したのか、リアムが再び踏み込んでくる。
「黙れアレクシス! お前に私の気持ちが分かるものか――!」
「……ッ!」
刹那、アレクシスの頬を掠める、リアムの剣先。
アレクシスはそれをギリギリのところでかわすと、剣を正面から振り抜き、押し合いに持ち込んだ。――リアムを説得するために。
「聞け、リアム! お前が死んでもルクレール侯は困らない! 分家から養子を迎えるか、第二、第三のお前を用意するだけだ!」
「だったらどうしろと言うんだ! 屈辱に堪えながらこの先も生きろと!?」
「違う! 最後まで戦えと言っているんだ! 死は決して救いではない、軍人たるお前はよく知っているはずだ! 残される者の気持ちを考えろ!」
「オリビアだと? お前がその名を口にするな――!」
全身から怒りを迸らせ、リアムはアレクシスの剣を力任せに押し返す。
その力は、かつてリアムと対戦した試合からは想像もできないほどの強さだった。
「――ッ!」
(こいつ、まだこんな力が……! それにこの殺気――、死にたいのか!)
事実、リアムが死を望んでいるのは間違いない。
だがそうと分かっていても、心の中で叫んでしまう。
(その殺気を今すぐ収めろ!)
と。
試合開始から五分余り。
アレクシスは、リアムを斬り殺してしまわないようにするのに必死だった。
リアムが強い殺気を放つ度、本能的に反応しかける右腕を止めることに、神経をすり減らしていた。
――そもそも、アレクシスはこの試合に『峰打ち』で勝利するつもりでいた。
寸止めは通用しない。怪我もできる限り負わせたくない。
そう考えたとき、勝利する最も確実な方法は『峰打ち』しかないと。
とはいえ、リアムは簡単に背後を取らせてくれるほど弱くはない。
ならば、ある程度体力を削ってやればいい。アレクシスはそう考えていた。
そのための五分のつもりだった。
けれどリアムは未だ勢いの衰えを見せず、しかもやたらと殺気を放ってくる。
アレクシスはそれが、煩わしくて仕方なかった。
(怪我をさせないことが、これほど難しいとはな)
その上、雨まで降ってくる始末。――正直、気分は最悪だ。
アレクシスは次々に繰り出されるリアムの剣撃を受け流しながら、苛立ちに顔をしかめる。
アレクシスは雨が嫌いだった。
雨は火薬を駄目にする。足場も視界も悪くなる。敵も味方も、あらゆる人間の気配を消してしまう。
何よりも、忌まわしい記憶を呼び起こす。
母親の不貞現場を目撃したときも、その母親が馬車の事故で死んだと知らされたときも、窓の外には激しい雨が降っていた。
ちょうど、今と同じように。
(……ああ、くそッ。――鬱陶しい!)
アレクシスは一瞬の合間に、瞼に溜まった雨粒を袖で拭い去る。
するとそんなアレクシスに何を思ったか、リアムはニィと唇の端を持ち上げた。
「そう言えば、お前は昔から雨が嫌いだったな。雨の日は必ず予定を変えていただろう?」
「――だったら何だと言うんだ」
「わからないのか? 天は私に味方しているということだ」
「…………」
「私はな、アレクシス。そもそもお前に勝つつもりなどなかった。実力差は歴然、戦わずとも勝敗は決している。お前の指一本でも落とせれば十分だとな。だがお前はエリス妃の情に絆され手を抜いた。そこにこの雨。となれば、この機会を逃すわけにはいかないだろう?」
「つまりお前は、俺をここで殺すと?」
「ああそうだ。お前を殺して私も死ぬ。……それで全ては終わる。――そうだろう、アレクシス!!」
「――ッ」
土砂降りの中、殺意に満ちたリアムの剣がアレクシスに襲い掛かる。
攻めに百パーセント振り切った斬撃が、何度も何度も繰り出される。
アレクシスはそれを、ギリギリのところで受け続けていた。
今の季節は十一月――身体を濡らす雨の冷たさのせいか、どうしても思い出される嫌な記憶に苦しみながら、どうにか理性を保っていた。
(……早く終わらせなければ。このままでは、俺はこいつを殺してしまう。そうなるくらいならいっそ利き腕を……――いや、駄目だ。治療が必要なほどの傷を与えては、計画に差し支える)
リアムはこの雨を、アレクシスを殺すチャンスだと捉えていた。
だが、実際は逆だ。
雨は、アレクシスから理性を奪う。
怒りと悲しみの記憶が、アレクシスの生存本能を刺激する。
つまり、もし今アレクシスが『命の危機』を感じたら、本能に従いリアムを斬ってしまう可能性が高いということだ。
クロヴィスがアレクシスに『早く片を付けろ』と合図をしたのも、これが理由だった。
クロヴィスが危惧したのは、アレクシスが負けることではなく、リアムを斬ってしまうこと――。
(駄目だ、これ以上は待てん。こちらから仕掛けるしか――)
自身の中の理性が脅かされていることを悟ったアレクシスは、最早一刻の猶予もないと、反撃を決意する。
――だが、軸足を踏み込んだそのときだった。
ぬかるみに足を取られ、アレクシスはほんのわずかに体勢を崩す。
と同時に、その隙を狙ったリアムの剣が、アレクシス目掛けて振り下ろされ――。
(――しまッ……)
刹那、アレクシスの中で何かが途切れる音がした。
それは、命の危険を察知したアレクシスの脳が、理性より本能を優先した瞬間だった。
カッ、と全身の血がたぎり、アレクシスは反射的にリアムの剣をはじき返す。
そして気付けば、リアムの胴を真っ二つにせんほどの勢いで、剣を大きく振りかぶってしまっていた。