58.エリスの声援
二人が案内された建物は、巨大なコロシアムだった。
直径二百メートルほどの円形闘技場と、それをぐるりと取り囲む客席。
その外側の薄暗い通路を、二人は軍人に前後を挟まれながら、奥へ奥へと進んでいた。
「ねぇシオン。ここってコロシアムよね? 昔、剣闘士が戦っていたっていう……」
「そうだね。建築様式から考えると、千年以上前の建物だと思うけど」
「千年? そんなに?」
「まぁ、帝国の歴史は長いから。でもまさか、こんなに古い建物が残っているとは知らなかったよ。この基地、ちょっと変な位置にあるなと思ってたけど、文化遺産保護のためだったのかもしれないな」
「……確かに素晴らしい建築物だものね。……でも、そんなに歴史のある場所で決闘をされるなんて……」
それだけ、アレクシスはこの決闘に本気だということなのだろうか。
まさかこのような施設で決闘を行うとは思っていなかったエリスは、再び不安に襲われた。
けれど、そんなエリスの気持ちを感じ取ったのか、シオンが優しく手を握ってくれる。
「大丈夫だよ、姉さん。確かにここは闘技場だけど、少なくとも、見世物にはならないはずだから」
「どういうこと?」
「だって、ここから見る限り観客はひとりもいないし、さっきから誰ともすれ違わないだろう? きっと貸し切りなんじゃないかな。それにさっき、入り口に『立ち入り禁止』の札が立ってたし。むしろ殿下は、人目を避ける為にこの場所を選んだんじゃない?」
(……人目を、避けるため)
確かにシオンの言う通り、このコロシアムに入ってからずっと、人の気配がない。
つまり、アレクシスとリアムの決闘が、大勢の前で娯楽のように消費されることがないのは確かなのだろう。
エリスはそれを理解し、少しばかり安堵する。
(殿下はリアム様に罰を与えると仰っていたけれど、それを大っぴらにする気はないのかもしれない。これは殿下なりに、お二人のことを考えてくださっている……ということなのかしら)
エリスは、これ以上オリビアとリアムの置かれた状況が悪くならないようにと祈りながら、軍の人間に案内され、シオンと共に、石造りの長い廊下を進んでいった。
二人が案内された先は、闘技場の二階席だった。
今日は曇り空のせいで視界が悪いが、本来なら広い闘技場を隅々まで見渡せるであろうその席は、要人専用なのだろう。他の客席とは違い、しっかりとした屋根と壁で囲われている。
その空間には、今朝運び込まれたばかりと思われる、埃っぽい闘技場には不似合いな、座り心地のよさそうな椅子が四脚並び、そのうちの一つに、マリアンヌが腰かけていた。
「エリス様、ごきげんよう」
「……! マリアンヌ様……!」
マリアンヌが来るとは聞いていなかったエリスは、驚きに目を見張る。
「ふふっ、驚きました? クロヴィスお兄さまに頼んで、連れてきてもらったの。エリス様にお会いしたくて」
「わたくしに、ですか?」
「ええ。先日はきちんとお別れの挨拶もできなかったでしょう? それに、アレクお兄さまがエリス様を宮に閉じ込める指示を出したと聞いて、心配だったものだから」
「……マリアンヌ様」
(どうして、こんなにお優しいの……?)
図書館の一件で、マリアンヌには沢山の迷惑をかけてしまったというのに、それでも彼女はこうして自分を気にかけてくれる。
その有難さに、エリスは思わず涙を零してしまいそうになった。
けれどエリスは、その感傷を必死に堪える。
たとえ感動の涙であろうと、泣くのはまだ早すぎる、と。肝心の決闘は、これからなのだから。
「ありがとうございます、マリアンヌ様。わたくし、実は今日が来るのを恐ろしく思っておりましたの。そのせいで、今朝、殿下をきちんと見送ることもできなくて……。でも、マリアンヌ様のおかげで元気がでましたわ」
――本当は、全ての不安が払拭されたわけではない。
シオンにいくら励まされようと、マリアンヌが心配してくれようと、アレクシスをいつも通り見送ることのできなかった後悔は消えはしない。
けれど、過ぎたことをいくら後悔しても仕方がないということを、エリスはちゃんと理解していた。
今自分ができるのは、アレクシスを信じることだけである、と。
するとマリアンヌは、エリスのそんな気持ちを見透かしたのか、そっと手を取る。
「大丈夫よ。ああ見えて、お兄さまには情け深いところがあるの。こんなことになってしまったけれど、ルクレール卿はお兄さまの数少ない友人ですもの。きっと、すべて丸く収まりますわ」
そう言って、エリスの視線を誘導するように闘技場を見下ろした。
それに釣られたエリスの瞳がアレクシスの姿を捉えたことを確認し、このように付け足す。
「それに、声援なら今からでも間に合いますわよ。声をかけてみてはいかが? きっと、お兄さまも喜びますわ」
◇
エリスとマリアンヌがそんな会話をしている一方で、アレクシスは闘技場の端に立ち、リアムの訪れを待っていた。
エリスのいる二階席から、直線距離三十メートルほど離れた地上部で、黒のグローブをしっかりとはめ直しながら、闘技場入り口付近を睨むように見つめていた。
(まだ来ないのか? 開始までもう五分とないぞ)
決闘の開始時刻は午前十一時。
もし時間になってもリアムが現れなけば、ルール上、アレクシスの不戦勝となってしまうが……。
(セドリックの話では、リアムは夜のうちに屋敷を出たということだったな。……まさか、この期に及んで逃げ出したのか?)
そんなことはあり得ないと思いながらも、時間ギリギリになっても姿を現さない対戦相手に、アレクシスの中で苛立ちが募り始める。
すると、そんなアレクシスの元にセドリックが駆け寄ってきた。
「殿下、リアム様の入場記録の確認が取れました。午前六時前に基地に入っていると」
「……そうか」
ということは、リアムが基地内にいるのは確実だということだ。
きっとどこかの訓練場で、決闘前の精神統一でもしているのだろう。
(あいつ、ギリギリまで俺に顔を見せないつもりだな)
話し合いを避けたいのか。はたまた別の理由か。
「人をやって探させますか?」
「いや、いい。時間までに現れなければ、こちらの勝利というだけだ。何も問題はない」
――そう。何一つ問題はない。
戦わずして勝利する。それは今回について言えば大いに不本意であるが、既にリアムへの罰の内容を決めているアレクシスにとって、勝ち方など問題ではなかった。
セドリックは、そんなアレクシスの考えを知っているからか。「それもそうですね」とあっさり返し、「ところで」と声色を変える。
「先ほどエリス様が到着されたようですよ。ほら、上に」
「……!」
「エリス様、ずっと殿下を見ておられますよ。ここはひとつ、手でも振って差し上げたらいかがですか?」
「なっ……、手だと……!? 何を馬鹿なことを……!」
「いいではありませんか。先日の話し合い以降、ほとんどお話できていないのでしょう? レディを安心させるのも、紳士の務めだと思いますけどね」
「…………」
刹那――セドリックの言葉が刺さったのか、アレクシスは顔を曇らせる。
確かにアレクシスはここ二日、まともにエリスと会話できないでいた。
それは、『リアムを許してあげてほしい』というエリスの願いを、すぐには受け入れられなかったからだ。
『俺はリアムを許すことはできない』――そんな言葉でエリスを突き放してしまったことに、負い目を感じていたからだ。
「……わかっている。俺の態度が、エリスを不安にしていることは。――だが」
そのときの言葉は紛れもなく自分の本心であったし、その考えは今とて変わらない。
リアムに対する怒りの炎は未だ大きく、この先も完全に消え去ることはないだろう。
たとえ決闘の末の決断が、客観的に『リアムを許す選択』であったとしても、それイコール、『リアムを許した』ということにはならないのだから。
それに、だ。
「まだ結果は出ていないんだ。すべてはリアムとオリビア次第。どんな結末を迎えるかは終わってみるまでわからない。……俺はエリスにぬか喜びをさせたくないんだ。わかるだろう?」
「ええ、理解できます。ですが、ときには結果よりも過程が大切なこともあると、私は思いますよ」
「…………」
「まぁ、無理にとは言いません。そもそも手を振るというのは例えですから。クロヴィス殿下ならともかく、殿下には似合いませんしね」
「……お前な」
――こんなときに冗談か?
アレクシスは溜め息をつきながら、それでも、一応セドリックの忠告を受け入れたのか、エリスの方に視線を向ける。
手を振るのはナシとしても、目くらいは合わせておくべきだろうと。
すると、その瞬間だった。
アレクシスが顔を上げると同時に、待ちわびていたかのようなエリスとしっかり目が合って――。
「で……、んか……っ!!」
と、地上からでもはっきりと聞き取れるほど、大きな声で名前を呼ばれたと思った、次の瞬間。
「殿下の勝利を、お祈りしております……っ!」
――恥ずかしさからか、顔を真っ赤に染め上げた愛らしいエリスの姿が、アレクシスの瞳に飛び込んできたのは。
決闘を始める予定がそこまでいきませんでした…。次こそは…!