57.決闘の朝
――『どうかお二人を、引き離さないでいただけないでしょうか?』
エリスがアレクシスにそう頼んでから、二日が経った決闘当日の朝。
エリスは、今にも雨が降り出しそうな曇天の下、シオンの迎えの馬車に乗り、決闘場所である帝都第二陸軍基地へと向かっていた。
もうまもなく開始される決闘に大きな不安を抱えながら、この二日間のことを思い出していた。
(結局、あれから殿下とはほとんど話もできないまま、この日を迎えてしまったわ。今日の決闘、どうなってしまうのかしら……)
◆
二日前、エリスはアレクシスに、『オリビアをリアムと引き離さないでほしい』とお願いした。
決闘には反対しない。けれど、二人を共にいさせてあげてほしい、と。
それは事実上、『リアムを許す』ということと同義だった。
リアムに深手を負わせずに勝利し、尚且つリアムに重い罰を与えない、という意味に他ならなかった。
――アレクシスはそう解釈したのだろう。
やや気分を害した様子で、エリスに尋ねる。
「君は、俺にリアムを許せと言うのか? あいつに罰を与えるなと?」
「そこまでは申しておりません。わたくしはただ、お二人が共に歩める方法があるのではと」
「それが許せと言う意味だろう」
「……っ」
「君には悪いが、俺は――」
まるで畳み掛けるようなアレクシスの声に、エリスは思わず言葉を呑み込む。
「リアムを許すことはできない」
「――!」
「あいつには、それ相応の罰を与えなければ」
「…………」
「とはいえ、君の言うことも一理ある。命だけは取らないと約束しよう。だが、それ以上の返事はできない。理解してくれ」
「……っ」
(……命、だけは……)
それは事実上の拒絶だった。
少なくとも、エリスにはそう聞こえた。
命だけは見逃してやる――だが、それ以外は譲れない。
と同時に、これ以上口を出すなと、壁を作られた気がした。
その後のことは、よく覚えていない。
アレクシスの言葉が思いの他ショックだったのか、それとも自身の不甲斐なさに打ちひしがれたのか。
食事の終わり際に何か質問された記憶はあるのだが、何を聞かれたのか、自分がどう答えたのか、何も思い出せなかった。
気付いたときには食事は終わっていて、アレクシスは席を立った後だった。
◇
(あの後、殿下はいつものようにわたしの元を訪れてくれたけれど、何だか気まずくて……。結局、あれ以降『決闘』のことは何も話せないまま、今日を迎えてしまった)
――話そうと思えば、機会はいくらでもあったというのに。
(自分がこんなにも意気地なしだったなんて。……それに)
それは今より二時間ほど前の、朝食が終わる頃のこと――エリスは突然、アレクシスからこのように伝えられた。
「今日の決闘だが、シオンに迎えを頼んでおいた。俺はセドリックと先に行くから、君はシオンと後で合流してほしい」と。
エリスは驚いた。
てっきり、アレクシスと一緒に行くと思っていたからだ。
「……え? 一緒に行かれるのではないのですか?」
エリスが困惑気味に尋ねると、アレクシスは申し訳なさそうに眉を下げる。
「すまない。集中したいんだ」
「――!」
この言葉に、エリスはショックを受けざるをえなかった。
『集中したい』――たったそれだけの言葉なのに、アレクシスに拒絶されたような気分になった。
その後エリスは、結局まともな返事もできないまま、アレクシスの背中を見送ったのだ。
(わたし、殿下に避けられたのかしら。それとも、わたしの気まずい気持ちを悟られてしまった? だから、殿下はわたしに気を遣ったの……?)
アレクシスに、オリビアについての自分の気持ちを伝えたことに後悔はない。
リアムの命だけでも保証されたことは、喜ぶべきことかもしれない。
でも、アレクシスとこんな雰囲気になるのは予想外だった。
(わたし、殿下をちゃんと送り出すことすらできなかったわ。『いってらっしゃいませ』って……一度も欠かしたことがなかったのに。その上、オリビア様の力にもなってあげられない……)
エリスは、自分のあまりの不甲斐なさに顔を曇らせる。
馬車に揺られながら、膝の上で拳をぎゅっと握りしめ、瞼を臥せっていた。
するとそんなエリスを見かねたのか、シオンの指がエリスの拳に触れる。
「姉さん、大丈夫だから力を抜いて。爪、食い込んじゃうよ。せっかく綺麗な手なのに」
「……っ」
その声にハッと顔を上げると、シオンがいつもと変わらぬ優しい顔で微笑んでいた。
「殿下のことを考えてるの? それともオリビア様のこと? どちらにしろ心配はいらないよ。少なくとも殿下は、姉さんを悲しませるようなことはしないから」
「……どうして、そう言い切れるの?」
「そりゃあ、殿下は姉さんを愛しているからね。それに、僕は殿下と約束したんだ。『姉さんを泣かせるようなことがあれば、僕が姉さんを貰います』って。だから大丈夫だよ」
「…………」
(……今の、冗談よね?)
口調や表情からして、きっと冗談なのだろう。
けれど、普段冗談を言わないシオンから「大丈夫」と言われると、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。
「……そうね。きっと大丈夫よね」
「そうだよ。それに殿下は、ああ見えて優しい方だ。宮に許可なく忍び込んだ僕を、こうして何の罰も与えずに許してくれたんだから。きっと今日の決闘も、上手く収めてくれるよ」
「…………」
それはあまりにも楽観的な意見だった。
どう考えても、シオンとリアムのしたことでは罪のレベルが違うだから。
それでも、シオンがあまりにも自信満々に言うものだから、信じていいかという気になってくる。
「ありがとう、シオン。――でも、何だか少し変な気分ね」
「変って?」
「だって、あなたはリアム様のこと、絶対に許さないって言っていたじゃない」
「……ああ、それは……」
エリスが心のままに呟くと、シオンはスッと目を細めた。
そうして、話すべきか迷うような素振りをした後、教えてくれる。
「実は今朝、リアム様と少しだけ話をしたんだ。今朝と言っても、日が昇る前だから深夜と言った方が正しいかもしれないけど」
「リアム様と話せたの?」
「うん。流石に決闘当日に部屋から出ないわけにはいかないだろう? だから僕、昨夜からリアム様の部屋を見張ってて。出てきたところに声をかけて、オリビア様の気持ちを伝えたんだ。オリビア様が心から一緒にいたいのは、殿下ではなくあなただって」
「……! それで、リアム様はなんて?」
「少し驚いた風ではあったけど、それについては特に何も。ただ……」
「……ただ?」
「リアム様、悲しそうに笑ったんだ。『君がオリビアの相手であれば』って」
「……っ、……それって」
刹那、エリスは心臓を鷲掴みにされたような気分になった。
『君がオリビアの相手であれば』と口にしたときの、リアムの苦しい心の内を想い、胸が痛んだ。
(……『君がオリビアの相手であれば、幸せになれたかもしれないのに』)
きっとリアムは、そう言いたかったのだろう。
「……それで、あなたは何と答えたの?」
「そんなの決まってるよ。『オリビア様はそんなこと望んでない。彼女の気持ちに応えなければいけないのは、あなただろう』って。そもそも僕とオリビア様はそういう関係じゃないからね。周りからは、どう見えているかわからないけど」
「……そう」
「でも、僕はあの目を見て確信したんだ。リアム様は、オリビア様を変わらず大切に思ってるって。そしたらさ、何かもう、よくわからなくなっちゃって。今もリアム様のことは許してないけど……そもそも姉さん本人が、少しも気にしてないんだもんなぁ」
「……シオン」
――シオンが呆れたように肩を竦めたところで、丁度目的地へと到着したようだ。
巨大な鉄格子のような外門の前で馬車が停止して、扉をコツコツと叩かれると、衛兵から基地内への『立ち入り許可証』の提示を求められる。
エリスは緊張しながら、今朝アレクシスから手渡された、アレクシスのサイン入りの許可証を二枚、シオン経由で衛兵に提示した。
すると、まるで地響きのような音がして門が開き、再び馬車が動き出す。
その後馬車はいくつかの角を曲がり、今度は内門で再度許可証を提示して、更にしばらく進んでから、闘技場らしき建物の手前で停止した。
今度こそ、本当に目的地に到着だ。
「姉さん、準備はいい?」
「……ええ、大丈夫よ。行きましょう」
エリスはシオンにエスコートされ、慎重に馬車を降りる。
そうして、馬車の外に待機していた軍人四人に前後を挟まれながら、闘技場内へと足を踏み入れた。