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56.エリスの願い



(……ミートパイ、か)



 アレクシスは食事を開始して早々、前菜と同じタイミングで運ばれてきた自身の好物ミートパイを見て、鋭く目を細めた。


 その裏にあるのは、自分はいったいどんな気持ちでこの料理を口に運べばいいのだろうか、という、複雑な感情だった。



(約束したこととはいえ、こうして俺の好物を出してくれるということは、エリスは俺に怒ってはいないということか?)


 アレクシスは、パイにナイフを入れながらそう考えて、けれどすぐに手を止める。


(いや、エリスは義理堅い女性だ。たとえ俺に不満を抱こうと約束は守るだろう。つまり、もしここで俺が能天気な顔でこの料理を食べたりすれば、エリスは俺を察しの悪い男だと思うのではないか?)



「…………」


 ――流石にそれは考えすぎか。


 だが頭ではわかっていても、気にせずにはいられない。


 エリスが好物を作ってくれたことは間違いなく嬉しいはずなのに、手放しで喜べないことが歯がゆくて仕方ない。



 そんな葛藤に苛まれたアレクシスは、ナイフとフォークを握りしめたまま、皿の上のパイをじっと見つめ、しばしの間固まっていた。


 すると、そんなアレクシスの態度を変に思ったのだろう。

 不意に、エリスが問いかける。


「あの……殿下? 今日はパイの気分ではありませんでしたか?」


「――!」


 その声にハッと視線を上げると、エリスが不安げな顔でこちらを見ていた。


 アレクシスは慌てて否定する。


「い、いや、そんなことは……。少し考え事をしていただけだ」

「そう、ですか? でももし、お口に合わなけれ「いや、君の作ったものが口に合わないなんてあるわけがない。いただこう」


 アレクシスはエリスの声に被せ気味に答えると、急いでナイフとフォークを動かし、一口サイズに切り分けたパイを口に運ぶ。


 そうしてすぐに「美味い」と伝えたのだが、明らかに取ってつけたような反応だったせいか、エリスは傷ついたような顔をして、俯いてしまった。



 そんなエリスの表情に、アレクシスは再び罪悪感に襲われる。


(ああ、俺はいったい何をやってるんだ……)


 エリスの作ったパイが美味しくないはずがない。

 実際、味はいつもと変わらず美味しいし、何より、エリスが自分の好物を作ってくれたということに喜びを感じている。


 だがどうしても、素直に喜べない自分がいた。


 まだエリスに決闘のことを伝えられていないこと。

 それに、エリスが言った『大切な話』の内容――それが気になって、全てがぎこちなくなってしまう。



(俺は、エリスにこんな顔をさせるために内緒にしていたわけではないというのに)


 そもそも、決闘について秘密にしていた一番の理由は、エリスに心労をかけたくなかったからだ。


 他にも、エリスに恐れられたくなかっただとか、リアムに対して優しさを発揮してほしくなかっただとか、別の理由も含まれていたが、一番の理由は、エリスを守りたかったから。


 だが、今の状況は……。


「…………」


(本当は、食事の途中で話そうと思っていたが……)


 エリスにこんな顔をさせたまま、これ以上食事を続けることはできない。


 アレクシスはそう判断し、ナイフとフォークを皿に置いて、唇を開く。



「エリス、もしや君の話というのは――」

「――!」


 刹那、驚いた様に瞼を開き、顔を上げるエリス。

 

 アレクシスはそんなエリスを真正面に捉え、どうか違っていてほしい、と心の奥底で祈りながら、

 けれど、きっとそうに違いないと覚悟を決めて、問いかける。



「決闘のこと、なのか?」



 ◇



「……っ」


 瞬間、エリスは肩を震わせた。


 アレクシスに『話』の内容を言い当てられたことに。

 何もかもを見透かしたような鋭い眼差しに、動揺を隠せなかった。

 


「その反応、やはりそうなんだな。となると口留めの内容は、大方シオンあたりが関係しているのか」

「……っ! 殿下……、それは……!」

「いい。君に情報を漏らしたのが誰であろうと責めるつもりはない。そもそも、君に秘密にしようとしたこと自体が間違いだったんだ。最初からきちんと話していれば、君にそんな顔をさせることもなかった。……俺が悪かった、すまない」


「…………」


(どうして、殿下が謝るの?)


 すまなそうに自分を見つめるアレクシスの眼差しに、エリスは酷く混乱する。


(殿下は気分を害していたわけではなかったの? それに、シオンのことに気付いていながら咎めないなんて……)

 


 ――エリスは今この瞬間まで、アレクシスは機嫌を悪くしていると思っていた。


 アレクシスは、使用人に口留めした自分に対し怒っているのだと。

 あるいは、『大切な話』の内容がリアムに関わることだろうと勘づいて、苛立っているのではないかと。


 でなければ、帰宅時にハグがなかったことや、パイになかなか口をつけなかったことに説明がつかない。そう考えていた。


 だが、アレクシスは今、自分に謝罪した。


 リアムの件に口を出されたくないが故に、自分を宮に閉じ込め、シオンを出禁にし、手紙のやり取りさえも禁止した口で、『もっと早くに話しておくべきだった』と、後悔を口にしたのだ。


 エリスはそれが、にわかには信じられなかった。



「――だが、これだけはわかってくれないか。俺はただ、君の心身にこれ以上負担をかけたくなかっただけなんだ。俺がリアムと決闘することを知れば、君は自分を責めるだろうと思った。そんな必要はないと伝えたところで、君はきっと納得しないだろうと。そしてその考えは間違っていなかったと、俺は今確信している。……どうだ、違うか?」

 

「…………」


 ――違わない。

 全くもってその通りだ。


 エリスは昼間、シオンからリアムやオリビアのことを聞かされて、たった数時間の間にとても悩んだ。


 自分に隙があったせいでこんなことになってしまったのではと。

 アレクシスにその尻ぬぐいをさせてしまっているのではと、自分を責めた。


 だが、エリスはそれ以上に、アレクシスが自分を守ろうとしてくれていることを知っていた。


 アレクシスの優しさを、自分に対する愛情を、十二分に理解していた。


 だからこそエリスは決意したのだ。アレクシスに、ありのままの気持ちを伝えようと。



「わたくし、殿下のお気持ちは理解しているつもりです。殿下はわたくしを守るために、リアム様との決闘の件を内緒にしてくださっていたのだと……。殿下がこの件について、わたくしに口を出されたくないことも……すべて承知の上で、それでも、殿下にお伝えしたいのです。聞いていただけますか?」


 エリスが尋ねると、アレクシスはピクリと眉を震わせて、ほんの一瞬、厳しい表情を見せる。


 だが彼は、エリスの言葉を少しも否定することなく、頷いた。


「ああ、勿論だ。聞こう」と。


 それを受けたエリスは、言葉を選ぶようにして、慎重に口を開く。


「実は今日の正午頃、シオンとオリビア様が訪れたのです」



 ◇



 エリスは語った。

 

 自分のもとを訪れたオリビアが酷く憔悴しょうすいしきっていたことや、温室で倒れてしまったこと。

 倒れたオリビアをシオンが介抱し、自分に話してくれた内容を、覚えている限り全て。

 

 ただ一つ、『オリビアがアレクシスを慕っていたのは嘘だった』ということを除いては――。



 アレクシスはそんなエリスの話を、終始黙って聞いていた。

 一言も口を挟まず、驚く素振りも見せず、ただ静かに聞いていた。


 エリスはそんなアレクシスの様子を見て、この人は全てを知っていたのだと悟った。


 シオンがオリビアの屋敷に滞在していることも。

 多くの使用人がルクレール家の屋敷を辞めていったことも。

 リアムの悲惨な生い立ちも。


 なぜなら、アレクシスが唯一驚いたのは、一番初め。オリビアが宮を訪れたことを伝えたときだけだったからだ。


 実際、昼間のことを一通り話し終えたエリスが、事実確認のため、「今の話に間違いはありませんか?」と尋ねると、アレクシスはこう言った。


「間違いない」と。


 まるで何かを諦めたかのような顔で、そう答えたのだ。



 エリスには、アレクシスのその表情の意味はわからなかった。 

 今アレクシスがどんな気持ちで自分の話を聞いているのか、このまま話を続けていいものか、何もわからなかった。


 けれど、止められないということは、続きを話せということなのだろう。


 エリスはそう判断し、言葉を続ける。



「では……これはご存じでしたか?」



 これを言ってしまえば、今度こそアレクシスを怒らせるかもしれないと、ギリギリまで頭を悩ませながら、それでも、自身の心を必死に奮い立たせ、エリスは口を開く。

 


「オリビア様は、殿下を慕ってはいなかった……と」


「――何?」


「オリビア様が、シオンに泣いて話したそうなのです。全ては嘘だったと。彼女はただ、リアム様と一緒にいたかっただけなのだと。そのために、殿下を慕っている振りをしていたと。……自分のせいで、愛する兄を死なせてしまうかもしれないと……」


「…………」



 エリスは、大きく顔をしかめたアレクシスを見据え、懇願する。



「突然こんなことを言われても信じられないのはわかります。難しいことも承知の上です。――それでも、お願いです、殿下。どうかお二人を引き離さないでいただけないでしょうか? このままでは、オリビア様があまりに不憫でなりません」


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