55.大切な話
それからほんの数分後――着替えのために自室に戻ったアレクシスは、深い溜め息をついていた。
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間抱いた違和感の正体と、先ほどエリスから言われた言葉の意味を考えては、自身の不甲斐なさを悔いていた。
(『大切な話』か。どうにも嫌な予感がする。……こういうときの俺の勘は、よく当たるんだ)
◆
それはほんの先ほどのこと。
馬車を降り、玄関ホールに足を踏み入れたアレクシスは、微かな違和感を抱いた。
空気がどこかピリついている、そんな気が。
(……何だ? 宮の雰囲気が……)
それは直感だった。
模様替えをしたわけでもない。使用人らの対応もいつも通り。
だが、何かがおかしい、と。
その違和感は、エリスの顔を見た瞬間、気のせいではないと確信した。
「お帰りなさいませ、殿下」
「…………ああ、今戻った」
玄関ホールで自分を出迎えてくれたエリスは、一見して、いつも通りの彼女だった。
朝と何一つ変わらない笑顔に思えた。
だが、微かに感じる違和感。
いつもより元気がないような。
それに、声のトーンが僅かに低い気がする。
本人は隠そうとしているのだろうが、隠しきれない何かがある、アレクシスはそう感じた。
(何かあったのか? だが、使用人からは何の報告も……)
使用人たちには普段から、「エリスについて何か問題が起きたときは、俺が馬車を降りてから玄関ホールに入るまでの間に報告するように」と言い含めてある。
だが、今日はそんな報告はなかった。
つまり、大きな問題は起きなかったということだが、エリスの様子を見ると、何もなかったとは思えない。
かと言って、まさかシオンとオリビアがやってきたとは考えもしないわけで、この時点ではまだ、アレクシスの違和感は単なる違和感のままだった。
けれど、「今日も変わりなく過ごしていたか?」と尋ねた後のエリスとの会話で、違和感が予感へと変わっていく。
「……変わり……は……その……」
「何だ? 何かあったのか? 使用人からは何の報告も受けていないが」
「……! それは、『わたくしから話すから、言わないように』と口留めしたのです。ですから、どうか彼らを責めないでください」
「…………。それはつまり、口留めしなければならないようなことが起きた、ということか?」
「……はい。その通りですわ、殿下」
「――!」
酷く言いにくそうな顔で、けれど、言わなければという強い決意を込めて自分を見上げるエリスの瞳に、アレクシスの勘が警鐘を鳴らす。
――ああ、もしやこれは、と。
「少し早いですが、夕食の準備を整えましたので……その……、お食事が終わったら、わたくしにお時間をいただけませんか? 大切なお話がありますの」
「…………」
――『大切な話』。
アレクシスの記憶のある限り、そう言われて良い話だった試しがない。
しかもこのタイミングとくれば、『リアムとの一件』以外にはないだろう。
(エリスはどこまで知っている? まさか、決闘の件が漏れたのか? いったい誰から……)
「……あの、殿下?」
「――あ、ああ。……そうか、……話だな。わかった」
アレクシスは内心焦りを浮かべながら、どうにかこうにか返事を返す。
そうして、一旦その場を切り抜けようと、「着替えてくる」と言い残し、逃げるようにその場を後にした。
◇
そして今。
アレクシスは自室で軍服を脱ぎながら、先ほどの自身の行動を悔いていた。
(この俺としたことが、まさかエリスの前から逃げ出すとは。……戦場ですら、敵に背を向けたことはないというのに)
――エリスはどう思っただろうか。
いつもなら帰るなりエリスを全力で抱きしめる自分が、何もせずに部屋に直行したのだから、きっと変に思ったはず。
いや、変に思われるだけならまだマシか。
もしエリスが本当にどこかしらから『決闘』の件を聞いたのだとしたら、不信感や不満を抱いていてもおかしくない。
その上『逃げた』となれば、怒ったり、呆れられても文句は言えない。
――ああ、こんなことになるのなら、もっと早くに話しておくべきだった。
アレクシスは自己嫌悪に陥って、けれど、内心大きく首を振る。
(いや、待て。まだ決まったわけじゃない。エリスは『話がある』と言っただけだ。それに話は食事の後。まだ、挽回は可能だ)
エリスより先に、自分が話してしまえば――。
アレクシスは、『今度こそエリスに話さなければ』と決意を固め、エリスの待つ食堂へと向かった。
◇
一方、エリスは一足先に、食堂のテーブルに着席していた。
先ほどの素っ気ないアレクシスの態度の思い出しながら、銀食器に映り込む自身の姿を、射る様な瞳で見つめていた。
(覚悟はしていたけれど、さっきの殿下は明らかに気分を害した様子だった。やっぱり、二人きりになるまでは黙っておくべきだったかしら)
エリスは本来、食事が終わるまでは普段通りに過ごすつもりだった。
『大切な話がある』なとど、言うつもりはなかった。
それは、アレクシスと気まずい雰囲気で食事をしたくないという気持ちや、使用人が咎められないように、という気持ちがあったからだ。
けれど、アレクシスから「変わりなく過ごしたか」と尋ねられ、嘘をつくことができなかった。
(いつもは抱きしめてくださるのに、さっきはそれすらもなかった。きっと使用人に口留めをした、わたしの行動をお怒りになったのだわ。……でもシオンやオリビア様のことは、わたしが話さなきゃいけないことだし、仕方ないわよね)
――ああ、こんなに憂鬱な気分で食事を迎えるのはいつぶりだろうか。
そもそも、アレクシスはちゃんと来てくれるだろうか。
素っ気なく「着替えてくる」とだけ言い残し、こちらが何か言う隙も与えずに、あっという間に自分の元を去ってしまったアレクシス。
あのときの背中は、まるで自分を拒絶しているようだった。
「…………」
(そう言えば、前にも一度こんなこと)
刹那、不意にエリスの脳裏を過ぎったのは、宮廷舞踏会を間近に控えた半年前のある夜、この椅子でアレクシスを二時間待ち続けたときのこと。
冷めきったミートパイを前に、涙を堪え、意地だけでここに居座り続けた辛い記憶。
けれどあのときは、舞踏会用の首飾りをプレゼントされ、怒りも悲しみも、何もかも忘れてしまった。
(今回も、あのときの様に幸せな記憶で上書きできたらいいのでしょうけど……。何もかも状況が違うもの、きっと難しいわよね。――でも)
自分は決めたのだ。『見なかった振りはしない』と。
それがたとえ、アレクシスが望まぬことだとしても。
――そうこう考えているうちに扉が開き、アレクシスが入ってくる。
その横顔は、やはり、苛立ちを含んでいるように見えた。
(やっぱり気のせいじゃなかった。わたしは、殿下のご不興を買ってしまったんだわ)
だが、今さら後悔しても始まらない。
今は無事夕食を終えること――それだけだ。
エリスは椅子から立ち上がり、アレクシスに笑みを投げかける。
「今日はお約束通り、ミートパイを焼きましたの。召し上がっていただけますか?」