53.空白の五日間
「どうして、あなたがいるの?」――と、呆然と呟いたエリスの視線の先には、オリビアの肩を抱くシオンがいた。
意識を失くしかけたオリビアに、
「大丈夫ですから。少し、眠ってください」
と、優しく声をかける弟の姿があった。
そんなシオンのオリビアへの対応に、エリスは困惑を隠せない。
この二人はいったいどのような関係なのだろう。
そもそも、宮の出入りを禁止されていたはずのシオンが、どうしてここにいるのだろう、と。
するとシオンは、エリスの考えなど全てお見通しというのような顔で、「失敗したなぁ」と小さく呟く。
「遠くから見るだけのつもりだったのに」と、腕の中で眠りについたオリビアを見つめ、困った顔で笑うのだ。
それはまるで、秘め事を知られてしまったときの様な横顔で、エリスは一瞬狼狽えた。
その眼差しが、いったい何に対する感情なのか、少しもわからなかったからだ。
だが、エリスはすぐに気を取り直し、二人の側に歩み寄る。
今は動揺している場合ではない、と。
自分はこの件について、全てを知ると決めたのだから。
「シオン、答えて。どうしてあなたがここにいるの? もしかして、オリビア様をここに連れてきたのは、あなたなの?」
聞きたいことは山ほどある。
この五日間、シオンはどうしていたのか。
侍女はちゃんと手紙を届けたか。
リアムの件はどうなったのか。
オリビアが今話した言葉の意味は――アレクシスを慕っていたというのが『嘘』だったとは、いったいどういうことなのか。
多くの質問を内包させて尋ねると、シオンは諦めたように溜め息をつき、オリビアを両腕に抱えた状態で、近くの花壇の淵に腰かける。
そうして、「姉さんも座りなよ」と、いつものような優しい声でエリスを誘うと、「どこから話せばいいのかな」と慎重に言葉を選ぶようにして、この五日間のことを語り始めた。
◇
「僕、今、オリビア様の屋敷に泊まってて。そこから学院に通っているんだけど――」
そんな言葉から始まったシオンの話は、エリスにとって驚きの連続だった。
――五日前、帝国ホテルに残されたシオンは、セドリックから『アレクシスとリアムが決闘する』ことを聞かされた。
するとその直後、部屋の奥でセドリックの話を聞いていたオリビアが飛び出していってしまい、シオンはそれを追いかけて、屋敷まで送り届けたという。
だが屋敷に戻ったオリビアを待っていたのは、部屋に閉じこもったリアムと、使用人たちのリアムに対する『軽蔑の目』だった。
「詳しい状況は、オリビア様の侍女が教えてくれた。リアム様が殿下の前で、母親が娼婦であると自ら出生を明かしたこと。それに、殿下に決闘を申し込んだこと。そのせいで使用人たちは皆、リアム様に不信感を持ってしまったって」
「――!」
シーズンオフの今、ルクレール侯爵は領地に戻っており、帝都の屋敷は実質主不在の状況だ。
その為、リアムがすべての権限を握っていたのだが、そのリアムがアレクシスと衝突したことで、屋敷内は混乱状態に陥ってしまった。
――果たして、この家は大丈夫なのだろうか、と。
そんな状況の屋敷にオリビアを一人置いてはおけないと思ったシオンは、しばらく留まることを決めたのだ。
「この五日間のうちに、半数もの使用人が辞めていったよ。それもあって、オリビア様はほとんど休めていないんだ。リアム様と話をしようにも、部屋から出てこないんじゃどうしようもない。それでもオリビア様は、残った使用人たちを不安にさせないよう、気丈に振舞ってたんだけど……。昨夜、ついに耐えきれなくなったのか、泣いちゃって」
そのときのことが思い出されるのか、シオンは腕の中のオリビアを見つめ、瞼を伏せる。
「彼女、言ったんだ。リアム様と半分しか血が繋がっていないことを、以前から知っていたって。母親の血筋のせいで、リアム様は父親から毎日のように暴力を振るわれていたのに、止められなかったって。リアム様の側にいるために、殿下を慕っているだなんて嘘をついてしまったんだって」
「……っ」
刹那、エリスはハッと息を呑んだ。
それこそが、『嘘』の内容だったからだ。
「オリビア様はね、ただリアム様と一緒にいたかっただけなんだ。成人したリアム様と過ごすためには、どうしても理由が必要だったから。リアム様と仲のいい殿下のことを慕っていると言えば、リアム様と一緒にいられる。最初は、本当にそれだけの理由だったんだ」
◆
幼い頃のオリビアは、リアムを実の兄だと信じ、慕っていた。
日常的にリアムに暴力を振るっていた父親も、オリビアの前では決して暴力を振るわなかったし、リアム自身も、おくびにも出さなかったからだ。
オリビアにとってのリアムは、優しくて頼もしい、絶対的な存在だった。
それが揺らいだのは、オリビアが六歳のとき。
リアムが父親から背中を打たれている場面を、偶然目撃してしまった頃からだろうか。
「お兄さま……大丈夫?」
「……!」
父親の立ち去った部屋に、オリビアが入っていったとき、リアムは心底驚いていた。
当時の幼いオリビアにはわからなかったが、もし今その場面に出くわしたとしたら、リアムは間違いなく『不味いところを見られた』という顔をしていただろう。
「痛い?」
と泣き出しそうに尋ねるオリビアに、「大丈夫、痛くないよ」と微笑んだリアムは、いったい何を思っただろうか。
「どうして、お父さまはお兄さまを打つの?」
「それは……僕が悪い子だからだよ」
「……! そんなことないわ! お兄さまはとってもいい子よ! わたしが、お父さまにいってあげる!」
「……オリビアは優しいね。でも、お父さまには何も言ったらいけないよ。もしまた同じ場面に出くわしても、絶対に部屋に入ってきたら駄目だ」
「どうして?」
「どうしてもだよ」
いつもなら丁寧に説明をしてくれる兄が、何故か理由を教えてくれなかったせいで、その日の会話はオリビアの記憶に深く刻まれた。
その日から、オリビアにとってのリアムは、ただ頼もしいだけの存在ではなくなった。
リアムのことは以前と変わらず慕っていたが、それだけではなく、支えてあげたい存在になった。
父親に虐げられる兄の心を、少しでも癒してあげられたらと、そう思うようになった。
だが、そんな日々は突然終わりを迎える。
兄妹仲が良すぎることを不都合に思ったルクレール侯爵が、オリビアにリアムの出生の秘密を明かしたのだ。
「アレの母親は娼婦だ。以後、軽々しく付き合うな」と。
そうして、オリビアに縁談を持ってきたのである。
オリビアは憤った。
リアムが庶子であることではなく、リアムと付き合うなと言われたことに。
勝手に縁談を用意されたことに。
当時十三歳だったオリビアは、侯爵令嬢としてはとっくに婚約者がいてもおかしくない年齢だったが、異性にも結婚にも全く興味がなかった。
オリビアはただ、リアムの側にいられればそれだけでよかった。
リアムが庶子だと知って、その思いは一層強くなった。
庶子であるために虐げられ、それでも後継者として、一生父の言いなりになって生きなければならないリアムの苦しみを理解し、寄り添えるのは、妹の自分だけである、と。
その為に、婚約や結婚はできるだけ遠ざけなければならない。
そう考えたとき最も都合のいい相手が、皇子であり、女嫌いでもあるアレクシスだったのだ。
◇
「リアム様の側にできるだけ長くいたかったオリビア様は、殿下を慕っている振りをすることにした。殿下相手であれば、父親も口を出しにくい。少しでも時間を稼いで、上手くいけば、側妃に納まって仮面夫婦を演じればいいと思っていたそうだよ。そうして何年か過ごしたら、離縁してもらえばいい。それくらいの気持ちでいたって」
その後のことは、以前リアムから聞いた通りの内容だった。
オリビアは、アレクシスと二人きりのときに火傷を負い、それによってリアムがアレクシスと揉めることになってしまった。
そうなって初めて、オリビアはこれまでの自分の言動を後悔したが、そのときにはもう、取り返しのつかない状況になっていた――と、シオンは語った。
「僕はさ、今の話を聞いたとき、なんて不器用な人なんだろうって思ったよ。正直、愚かだとすら思った。誰かに一言でも相談していれば、もっと違った結果になっていただろうにって。……でも同時に、少し同情したんだ」
『同情した』――そう呟いたシオンの横顔は、どこか遠くを見つめているように見える。
「僕も一歩間違えたら、オリビア様やリアム様と同じようなことをしていたかもなって。そう考えたら他人事とは思えなくて。リアム様のことは今でも許せないし、僕個人としては殿下寄りの考えだから、オリビア様を擁護はできないんだけど……。でもこれ以上、オリビア様に苦しんでほしくないと思う気持ちも本物なんだ。だから、ここに連れてきた」
「…………」
あまりの情報量の多さに、色々と処理が追い付かないエリスの隣で、一通りの話を終えたシオンは、あっけらかんと笑う。
「にしても、殿下も酷いよね。宮の出入りだけじゃなくて、手紙のやり取りも禁止って言うんだよ。読むのはいいけど、返事は書くなって。でも今朝姉さんの手紙を読んで、居ても立っても居られなくて。遠くから顔を見るくらいならいいかなって、こうして御者に変装して忍び込んだんだよ。かつらで髪色を変えて、帽子を深く被ったら誰も僕だって気付かないんだ。警備が緩すぎるって、後で殿下に伝えておいてよ」
シオンはそう言いながら、どこに隠し持っていたのか、地味な茶髪のかつらを被り、帽子を深く被る仕草をする。
そんなシオンの服装は確かに、使用人が着るような少し型の古いスーツであり、エリスは思わず、感嘆の声を上げた。
「あなた、馬車も引けるのね」
今突っ込むべきところは絶対にそこではないが、消化不良気味のエリスには、そう返すので精一杯だった。
シオンはそんなエリスの返しにクスリと笑うと、温室の入口の方を見やり、「時間切れだね」と言って、オリビアを抱えたまま立ち上がる。
「時間切れ?」
「うん。――ほら」
そう言われて視線を追うと、そこには様子を見に来たであろう侍女たちの姿があった。
「エリス様……!」
「お戻りが遅いので様子を見に参りましたわ!」
「……!? これはいったいどのような状況で……」
「こちらの男性は……、――! シオン様ではありませんか! どうして……」
侍女たちはオリビアが意識を失っていることや、この場にシオンがいることに混乱を見せたが、シオンは全く気にする様子もなく、オリビアを抱えて侍女たちの横を通り過ぎていく。
「じゃあ、僕はオリビア様を連れて帰るね。罰ならちゃんと後で受けるから」と、潔く言い残し。
エリスは、そんなシオンの背中を無言で見送りかけて――けれど数秒の後ハッとして、シオンを呼び止める。
「シオン……!」
「?」
「あの……こんなこと、わたしが言うのは変かもしれないけど……」
エリスはまだ、シオンの話の半分も消化できていない。
だから正直、何と言ったらいいのかわからなかったが、それでも、今の気持ちくらいは伝えなければと、口を開く。
「ありがとう、シオン。会いにきてくれて。それに……オリビア様の側にいてくれて」
「――!」
「きっとオリビア様も、心強かったと思う」
するとシオンはその言葉が意外だったようで、大きく目を見開いたが、すぐに嬉しそうに眼を細めた。
「うん。僕も、姉さんが元気そうで安心したよ」
と柔らかく微笑んで、今度こそ温室を後にする。
エリスはそんなシオンの背中を、最後まで見送った。
温室に降り注ぐ陽光の下、自分はどうすべきなのだろうかと考えながら、シオンの姿が温室の外に消えるまで、見送り続けていた。