8.突然の謝罪
午後八時を回った頃、エリスはダイニングにてアレクシスと夕食を共にしていた。
だが食事が始まって三十分が過ぎた今も、二人の間に会話らしき会話は一切ない。
二人は十人以上掛けられる長いテーブルの端と端に座り、無言でナイフとフォークを動かし続けていた。
(どうしましょう……。わたしから話しかけた方がいいのかしら。でも、余計なことを言って前回のように怒らせてしまってはいけないし……)
――気まずい。料理の味がしない。
部屋の空気の重たさに、胃が痛くなってくる。
エリスは憂鬱な気持ちで、それでも淑女らしくピンと背筋を伸ばし、料理を口に運ぶ。
けれどしばらくして、メインの肉料理が運ばれてきたときだ。
アレクシスが不意にこんなことを言う。
「君は、料理をするらしいな」と。
「……え?」
エリスは驚いた。
この一ヵ月、一度も宮を訪れていないアレクシスがどうしてそのことを知っているのだろう、と。
それに、今アレクシスは自分のことを「君」と呼んだ。前回、初夜のときは「お前」呼びだったのに――。
(急にどうなさったのかしら……)
エリスは一瞬放心するが、すぐに我に返って返事をする。
「申し訳ございません。皇子妃が料理をするのは、よくありませんでしたか?」
「いや、そうは言っていない。――ただ……」
「ただ……?」
「どんな料理を作るのだろうかと思ってな」
「……? 殿下は、料理に興味がおありなのですか?」
「興味と言うか…………いや、もういい」
「…………」
(いったい何なの……?)
エリスは困惑した。
目の前のアレクシスが、まるで自分と会話したがっているように思えたからだ。
絶対に有り得ないことだとわかっているのに、一瞬でもそう感じてしまったことが、自分でも不思議でならなかった。
(もしかして、どこかお身体の具合でも悪いのかしら? でも、もしそうならこちらにいらっしゃったりはしないはず。……やっぱりわたしの気のせいね)
エリスは再び食事を食べ始める。
だが、食後のデザートが運ばれてきたときのことだ。
アレクシスが突然「人払いをしろ」と言い出した。
それを受けてセドリックを含めた全ての使用人は外に出され、部屋にはエリスとアレクシスだけが残される。
当然エリスは恐怖した。
アレクシスと二人きり――初夜のことを思い出し、身が縮んだ。
いったい自分は何を言われるのだろうか、何か粗相をしてしまったのだろうか、と。
そんな中、アレクシスが口にした言葉。それは、エリスの予想を上回るものだった。
なんとアレクシスは「すまなかった」――と、謝罪の言葉を口にしたのだ。
「……え?」
エリスは耳を疑った。
そもそも、いったい何に謝られているのかわからなかった。
それに帝国の皇子であるアレクシスが自分に謝罪をするなど、考えられないことだ。
茫然とするエリスに、アレクシスは繰り返す。
「悪かった。伽のこと……手荒に扱ってすまなかった」
「……っ」
「君はもう知っているかもしれないが、俺は女が苦手なんだ。その上俺は君を"乙女ではない"と誤解していた。……それで、あんなことを」
「…………」
「だからといって許されることではないと理解している。許してほしいとも思っていない。ただ……謝っておかねばならないと。……怖い思いをさせて、本当にすまなかった」
心から後悔しているように、エリスを見つめるアレクシスの瞳。
その眼差しに、エリスは悟る。
この人は、本気で謝ってくれている――と。
だからと言って許せるわけではない。
あの夜の恐怖が無かったことになるわけではない。
それでも、アレクシスは心から悪いと思って、こうして謝ってくれている。
家族にもユリウスにも裏切られてきたエリスにとって、それはとても大きなことだった。
「……殿下、わたくしは……」
けれどそんなアレクシスを前にして、エリスの脳裏に過ったのは懐かしいユリウスの顔で――十年を共に過ごし、支え合ってきたかつての恋人で。
エリスは、唇をぎゅっと噛みしめる。
本当は、ユリウスにこうして謝ってもらいたかった。
「全部僕の誤解だった。本当にごめん。許してほしい」――そう言って抱きしめてもらいたかった。
けれど、もうそんな日は来ないのだ。
「わたし……は……」
アレクシスに謝られたことは、嬉しいと感じているはずなのに。
誤解が解けて良かったと喜ぶべきところなのに。
気にしていない、わたくしは大丈夫です――そう答えなければならないのに。
心の中がぐちゃぐちゃで、エリスはそれ以上何も言えなかった。
涙を堪えるのに必死で、何一つ言葉を返せなかった。
アレクシスはエリスのその態度に何を思ったか、こう続ける。
「君が望むなら、俺は公務以外で二度と君に触れないと約束しよう。伽もしない。そもそも俺は女が苦手だからな。俺にとっても、その方が都合がいい」
「ですが、それでは子供が……」
「気にするな。俺は第三皇子。兄二人のところに既に子供が八人もいる。弟たちも多い。もし子供ができないことで君を責める者がいたら、"俺が不能だ"とでも噂を流せばいいだろう」
「そんな……それでは、殿下のお立場が……」
この人は本気で言っているのだろうか?
子供がいないということは、自分の地位すら危うくなるということなのに――。
王侯貴族は何よりも血筋を重要視する。
それが皇族ともなれば、長期的な目線で見て兄弟は敵であり、まして味方にはなり得ない。
そのことを、第三皇子であるアレクシスが理解していないはずがない。
「本当にいいんだ。そもそも、俺は妻を娶るつもり自体なかったからな。……まぁ実際は、俺たちはこうして婚姻し、身体の契りを結んでしまったわけだが」
「……はい。……そう、ですわね」
(何かしら……。殿下は何を仰りたいのかしら……)
どこか歯切れの悪いアレクシスを不可解に思いつつ、エリスは言葉の続きを待つ。
するとアレクシスは、何かを考えるように数秒瞼を閉じてから、再びエリスを見つめた。
「率直に言う。俺はこれ以上妻を娶りたくない。そのために、俺と君の仲が良好だと周りに示しておく必要がある。だから今後は、このエメラルド宮に居室を移そうと考えている。君は俺の顔など見たくもないだろうが、できれば朝晩どちらかでも、食事を共にできたらと」
「……!」
「身勝手な言い分だとは理解しているが、どうかよろしく頼む」
エリスを真っすぐに見据えるアレクシスの瞳。
その切実な表情に、エリスは――。
◇
時刻は夜十時を回っている。灯りの消えた部屋に差し込むのは、わずかな月明りのみ。
そんな薄暗い部屋のベッドの中で、エリスはアレクシスとのやり取りを思い出していた。
「……あれでは、まるで別人よ」
そう。まるで別人のようだった。
今日のアレクシスは、初夜のときとは違い自分をちゃんと見てくれていた。
あの日のようにキツく当たったり、冷たい視線を向けることもなかった。
それどころか、自分の気持ちを尊重する態度を見せたのだ。
伽をしないと言ったこともそうだが、食事の後に渡された第四皇女からのお茶会の招待状も、「出席するかは君が決めたらいい。欠席しても不利益はないようにする」と言ってくれた。
とは言えエリスは、出席すると答えたけれど。
(ただ恐ろしいだけの人だと思っていたのに……)
本当は、優しいところもあるのかもしれない。
エリスはゆっくりと瞼を閉じる。
そうして、静かに眠りに落ちていった。