43.決意の夜
アレクシスがリアムから決闘を申し込まれたのと同じころ、エリスは帝国ホテルの一室の窓から、賑わい始めた朝の景色を見下ろしていた。
けれどその瞳に映るのは帝都の街並みではなく、昨夜のジークフリートとのやり取りだった。
◆
昨夜のこと――目を覚ましたエリスは、ジークフリートからそれまでの状況を一通り説明された後、このように切り出された。
「実は数日前から帝国宮廷内で、とある噂が流れていると部下から報告を受けてね。それについて、君に伝えておきたいんだ」
「噂、ですか?」
「ああ。君についての不名誉な噂だよ。シオンは何も知らない様子だったから、君の耳にも入っていないだろう。アレクシスが帰ってくる前に、知っておいた方がいい」
そうして説明された噂の内容は、『自分がアレクシス以外の男の子供を身ごもった』という、到底信じられないものだった。
ジークフリートは、顔を青ざめるエリスにこう続けた。
「噂を流したのは、リアム・ルクレールで間違いないだろうね。君の懐妊について知っていたこともそうだけど、オリビア嬢曰く、彼はアレクシスに複雑な感情を抱いていたようだから。昼間の事件は、流した噂を『既成事実』にするためのものだったと考えれば、つじつまが合う」
「既成事実……とは、どういう――」
「つまりね、彼は君のお腹の子供を、自分の子に仕立て上げるつもりだったんだよ。君と二人きりで休憩室に入るところを第三者に目撃させれば、噂の裏付けになるだろう? 皇子妃が夫の友人と――だなんて、スキャンダルどころの騒ぎじゃないからね。彼はそうまでして、君たち二人の仲を引き裂きたかったんだ」
「――っ、そんな……」
「ああ、でも安心して。噂の方は、クロヴィス殿下が動いてくれて鎮火したようだから。――とはいえ、一度立った噂は完全には消えないからね。アレクシスの立ち回り次第だけど、君はこれからしばらく、苦しい立場に置かれるかもしれないな」
「……っ」
確かにエリスは、リアム本人から聞かされて知っていた。
オリビアの火傷の責任が少なからずアレクシスにあることや、その火傷の痕のせいでオリビアが遠方に嫁がねばならなくなったことを。
そのせいでリアムは深く思い悩み、オリビアをアレクシスの側妃にしてほしいと願い出てきたことを。
――その苦しみが恨みに変わったとしても、何ら不思議ではない。
(どうして気付かなかったのかしら。少し考えれば、わかりそうなものなのに)
お茶会でリアムは言っていた。
「オリビアは、殿下を慕っていたのです」と。
それを聞いたとき、自分はすぐに気付かねばならなかったのだ。
アレクシスの妻の座に収まった自分のことを、リアムがよく思うはずがない、と。
(……わたしの、せいだわ)
エリスの心に、罪悪感が湧き上がる。
もっと早くリアムの真意に気付けていれば、こうはならなかったのではないか、と。
あの日、体調不良を押して図書館になど出かけなければ。
お茶会になんて参加していなければ。
リアムの頼みを断るとき、もっと言葉を尽くしていれば――たとえリアムがアレクシスを恨んでいようとも、ここまでのことはしなかったかもしれない。
エリスはベッドの上で、ぎゅっと拳を握りしめる。
「申し訳ございませんでした。わたくしの不手際で、ジークフリート殿下を巻き込む形になってしまい……どう、お詫びをしたらよいのか」
他国の王太子までをも巻き込んでしまったのは、明らかな失態だ。
ここまで大事になってしまっては、アレクシスに合わせる顔がない。
――それに。
噂を聞いたアレクシスはどう思うだろうか。
アレクシスは、自分を信じてくれるだろうか。
噂は全て嘘偽りだと。根も葉もないことであると。
お腹の子供は、正真正銘アレクシスの子であると。
(もし、殿下に疑われでもしたら……)
祖国で姦通の濡れ衣を着せられたエリスにとって、何よりも恐ろしいのは、アレクシスから疑いの目を向けられることだった。
リアムに襲われかけたことよりも、周囲から軽蔑の目で見られることよりも、アレクシスにどう思われるかが、何よりも気掛かりだった。
と同時に、この件によってアレクシスをどれほど思い悩ませてしまうかと考えると、胸が苦しくてたまらなくなった。
アレクシスの愛を信じていないわけではない。
むしろ、信じているからこそ怖いのだ。
かつてユリウスが、少なからず自分を愛してくれていたことを知っているから。
愛があるからこそ、その気持ちが憎しみに変わるのは一瞬なのだと分かるから。
相手への思いが強ければ強いほど、心に深い傷を負わせてしまうものだと、身をもって感じているから。
(リアム様は殿下のご友人だもの。きっと殿下は、とても悩まれるはずよ)
エリスは、アレクシスへの申し訳なさに、ふるふると肩を震わせる。
するとジークフリートは、そんなエリスの感情を見透かすように目を細めた。
「君たち姉弟は本当によく似ているね」と囁くような声で言い、エリスの瑠璃色の瞳をじっと覗き込む。
「シオンも同じようなことを言っていたよ。自分がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったと」
「そんな! シオンに非はありませんわ……!」
「うん、僕もそう思うよ。シオンは少しも悪くない。でも、それは君も同じだよ」
咄嗟に声を荒げたエリスに、ジークフリートは諭すような声で続ける。
「確かに今回の件、君は偶然にも最後の引き金を引いてしまったのかもしれない。でも、悪いのは君じゃない、ルクレール卿だ。あるいは、彼の気持ちに気付こうとせず、問題を放置し続けたアレクシスに責任があると、僕は思う」
「…………」
「少なくとも、アレクシスは僕と同じように考えるだろう。だから君もシオンも、そんなに思いつめる必要はないんだ。君が悩めば、その分アレクシスは自分を責めなければならなくなる。それは、君の望むところではないだろう?」
その言葉に、エリスは大きく目を見開いた。
確かに、ジークフリートの言う通りだと。
アレクシスを悩ませるのは、自分の本意ではない。
エリスは数秒の沈黙ののち、「はい」と小さく頷いた。
すると、ジークフリートは唇にゆるりと弧を描く。
「なら、君はどうか毅然としていて。正直、アレクシスがこの件に対してどんな反応を見せるのかは、僕にもわからないんだ。でも、君がアレクシスの手綱を握っていてくれれば、きっと大丈夫」
「……手綱、ですか?」
「うん、手綱。彼は昔っから、後先を顧みずに突っ走っていくところがあるからね」
ジークフリートはやれやれと肩をすくめると、椅子から立ち上がる。
「じゃあ、僕はシオンを呼んでくるよ。彼、随分思いつめているから、今夜は側にいてあげてくれる? ――ああそれと、シオンには何日泊まっても構わないと言ったけど、アレクシスの手前、君をここに留めておくことはできないんだ。明日の朝には帰りの馬車を手配するから、そのつもりでいてほしい」
「はい、それで構いません。何から何まで、ありがとうございます」
「どういたしまして。食事も後で運ばせるね。じゃあ、また明日」
「はい。おやすみなさいませ、ジークフリート殿下」
「うん、おやすみ」
最後にニコリと美しい笑みを浮かべ、背を向けるジークフリート。
エリスはその背中が扉の向こうに消えるのを見送って、決意する。
(わたしはまだ、ジークフリート殿下の言葉の意味を、全て理解できたわけではないけれど……)
ここまでしてくれたジークフリートの恩に報いるためにも、決してこの問題から目を逸らさないと。
少なくとも、アレクシスひとりに負担を強いることは、絶対にあってはならないと。
(そのために、まずはシオンをどうにかしなきゃ。あの子がそんなに思いつめるなんて、余程のことだもの)
二ヵ月ほど前、シオンがエメラルド宮を出て行ったあの日、シオンは明らかに様子がおかしかったのに、自分は追いかけることができなかった。
あのときの後悔を、絶対に繰り返してはいけない。
エリスはそんな思いで、ジークフリートと入れ替わりで駆け付けてきたシオンを、部屋の中へと招き入れた。