41.対峙
部屋の中は陰鬱としていた。
白く充満した葉巻の煙に、日が昇って久しいというのに閉め切られたままのカーテン。
テーブルの上の灰皿には吸い殻が山のように積まれ――それを目にしたアレクシスは、大きく顔をしかめた。
(オリビアが嫌がるからと、タバコだけは絶対に吸わなかったこいつが……)
健康には特に気を遣っていたリアムが、今、目の前で平然とタバコを吸っている。
暗く淀んだ瞳でこちらを見据え、唇から白い煙を吐き出している。
その姿が、アレクシスを酷く不快にさせた。
自分をこんな風にしたのは他ならぬお前だと、責められている様な気分になった。
だがそれと同時に、可能性が確信へと変わっていく。
エリスの噂を流し、マリアンヌに偽の手紙を送りつけ、図書館でエリスを個室に連れ込んだその犯人は、リアムに違いないのではと。
そうでなければ、リアムがここまで変わってしまった理由に、説明がつかない――そう思った。
アレクシスは、事実関係を確かめるべく問いかける。
「答えろ、リアム。エリスに関する噂を流したのは、お前か」
けれどリアムは、肯定するどころかピクリと眉を震わせるだけ。
「噂? いったい何のことでしょう」
――と、まるで何も知らないような顔で。
そんなリアムの反応に、アレクシスは一抹の迷いを覚えた。
(まさか、本当に何も知らないのか?)
そう考えて、すぐに否定する。
(いいや、こいつは必ずこの件に関わっているはずだ)
エリスの部屋で見つけたリアムからの手紙。
それはお茶会の招待状だった。
遠方に嫁ぐ不憫なオリビアの友人になってやってほしい、と書かれたその続きには、エリスとしてではなく、商家の夫人エルサとして、と記されていた。
そこからわかったのは、エリスはリアムから招待状を受ける以前に、別人としてリアムとオリビアに接触していたということ。
さらに文面冒頭に『お加減はいかがでしょうか』とエリスの身体を心配する文言があったことから、エリスはリアムに、妊娠にまつわる体調不良のことを知られているのだろうと推測できた。
加えて、エメラルド宮の使用人たちから、お茶会当日、エリスがシオンと二人、行き先を告げずに辻馬車で出かけた裏も取れている。
あくまで状況証拠でしかないが、このひと月、エリスが個人的に接触したのがリアムとオリビアだけだというのなら、この二人のうちのどちらか、あるいは両方が、噂に関わっていると考えるのは至って自然。
それに図書館司書は、昨日の昼間、倒れたエリスを介抱したのは『茶髪の長身。若い男』だったと証言した。
茶髪の長身など腐るほどいるが、これはリアムの外見に一致するし、貴族専用の雑談スペースに入れるのは貴族だけ。
リアムの肖像画を見せれば、本人かどうかはすぐに確認が取れるだろう。
アレクシスは、しらばっくれるリアムの前に、一通の手紙を突き付ける。
「質問を変える。これはお前がエリスに送った手紙だ。中は全て読ませてもらった。その上で問う。なぜお前はオリビアとエリスを引き合わせた。いったいどんな目的で」
アレクシスの妃であるエリスを、その座を狙っていたオリビアの友人として招く。
これはあまりにも不可解な行動だ。何か裏があると考えるのは当然だろう。
それに、だ。
「セドリックから、オリビアの結婚については報告を受けている。俺が負わせた火傷のせいで、望まぬ婚姻を結ばねばならなくなったとな。そのせいで、お前は俺を恨んでいるのだろう。全てはそれが原因なのか?」
アレクシスがこう続けると、ようやくリアムは反応を見せた。
リアムは再び白く長い息を吐き出すと、出窓から立ち上がり、テーブルの灰皿にタバコの火を押し付ける。
そうして、呆れたように微笑んだ。
「なるほど。つまり殿下は、私が殿下を憎むあまりエリス妃に近付き、彼女にまつわる『何らかの噂』を流したと、そう言いたいのですね?」
「そうだ。だがそれだけではない。お前は昨日、図書館でエリスと会っただろう。そのとき、お前はエリスに何をした?」
「…………」
「お前がエリスを休憩室に連れ込んだという裏は取れている。言い逃れをしようなどとは思うな」
実際は裏など取れていないが、今のアレクシスにとって、そんなことは問題ではなかった。
嘘でもはったりでも、どんな手段を使おうと、リアムから自白を取らねばならない。
「答えろ、リアム。――エリスは、今どこにいる」
すると、その瞬間だった。
今まで取り澄ました顔をしていたリアムが、突如嬉々として目を細め、「フッ」と噴き出すような声を上げたのだ。
そんなリアムの変化に、アレクシスは目を見張る。
「お前、今、笑ったのか?」
「ああ、笑ったよ。今の一言で、エリス妃が君の元にいないとわかったからね。これほど悦ばしいことはないだろう?」
「――何?」
アレクシスは、エリスがエメラルド宮に戻らないのは、当然リアムのせいだと考えていた。
侯爵家のリアムならば、帝国ホテルに部屋を取ることは容易い。
そこにエリスとシオンを軟禁することは、難しいことではないと。
だが、リアムのこの反応は……。
(リアムは、エリスの失踪とは無関係だったのか? それに、こいつの物言いは……)
混乱するアレクシスに、リアムはさも愉快そうな目を向ける。
もはや、隠す意味はないとでも言うように。
「私の目的はね、君を苦しめることなんだよ、アレクシス。オリビアを侮辱された屈辱を、オリビアを失う胸の痛みを、君に与えてやらねば気が済まない」
「……ッ! だからエリスを狙ったと? そんな理由で、何の関係もないエリスを巻き込んだのか!」
「そんな理由だと? ――ああ、そうだろうな。君はそう言うと思っていたよ。生まれながらの皇族である君に、庶子である私の気持ちなど到底理解できるはずがないのだから」
「――っ」
(庶子、だと……?)
刹那、突然リアムの口から飛び出したその言葉に、アレクシスは絶句する。
「君にはわからないだろう。娼婦の腹から生まれた私がどんな風に育てられたか。死んだ兄の身代わりとして、生涯あの男の言いなりになって生きるしかない私の気持ちが。育った孤児院に火を放たれ、かつての友人を皆殺しにされたと知ったときの絶望が……! どうしてお前に理解できる!?」
「……ッ」
「それに、エリス妃はもはや無関係な人間ではない。私は悪魔ではないからな。彼女が私に誠意を見せれば、手を出すのは止めようと決めていた。だが彼女は自身の利益を優先し、私のオリビアへの愛を踏みにじったんだ。理由など、それで十分だろう?」
「――!」
それは自白以外の何ものでもなかった。
焦りも後悔も、反省の色一つ映さない。
どころか、アレクシスの反応を愉しむように見据える、かつての友。
『理由などそれで十分だ』と下卑た笑みを浮かべるリアムは、アレクシスの記憶の中のリアムとは、もはや別人だった。
「……リアム、――貴様、本当に……」
信じられなかった。信じたくなかった。
何かの間違いであってくれればと思った。
一刻も早く犯人を捕らえ、エリスの居場所を突き止めねばと思う反面、リアムではない別の誰かの仕業であってくれたらと願っていた。
もしもリアムの仕業であろうとも、リアムの心に自責の念が、あるいは、反省の色を少しでも見せるのなら、たとえ許せずとも、話し合うつもりでいた。
それが、自身の身勝手な気持ちで突き放してしまった友人にできる、唯一の贖罪だと思っていたから。
だが、そのわずかな希望はたった今消えてなくなった。
リアムは明確な悪意を持ってエリスに手を出したのだと――そう、悟ってしまったからだ。
(確かに、こいつにはこいつなりの理由があったのだろう。――だが)
日の光の閉ざされた部屋で、アレクシスはリアムを睨みつける。
「つまり、お前は認めるんだな? エリスについてあらぬ噂を流し、彼女を個室に連れ込んだと」
「ああ、認めよう。エリス妃の不貞の噂を流し、彼女を薬で眠らせ個室に連れ込んだのはこの私だ。全ては、噂を真実にするためにな……!」
「――ッ!」
瞬間、アレクシスの中で、プツリ――と、何かが途切れる音がした。
それは、必死に抑えていたリアムへの殺意が、理性を飲み込んだ瞬間だった。
――この男を、殺さねば、と。
右手が無意識に腰へと伸びる。
鞘に納められていた剣身が姿を現し――その切っ先が、大きく天を仰いだ。
だが――アレクシスが剣を振り下ろした、その瞬間。
「いけません、殿下ッ!」
――と叫び声が聞こえ、リアムの首筋を捉えるはずだった自身の剣が、セドリックによって、寸でのところで止められていた。