36.シオンの葛藤
アレクシスがエメラルド宮に戻ったのと同じ頃、シオンは帝都中央区に建つ帝国屈指の一流ホテル、帝国ホテルの一室にいた。
豪奢な部屋の天蓋付きのベッド。その上で規則正しい寝息を立てるエリスの寝顔を見つめながら、シオンは椅子に腰かけ、項垂れていた。
(今頃、エメラルド宮は騒ぎになっているだろうな……)
本来、このような形で皇子妃を外泊させるなどあってはならないことだ。
本人の意思も確認していないし、何より、エメラルド宮の者たちに宿泊先すら報せていない。
ホテルのペイジボーイに最低限の内容を記した手紙を託しはしたが、あんなもの、ないよりマシ程度の伝言だろう。
(でも、姉さんにちゃんと話を聞いてからでないと、帰すわけにはいかないんだ)
シオンは、数時間前のことを思い出す。
帝国図書館で、リアムに連れ去られたであろうエリスを追って、休憩室に向かったときのことを――。
◆
シオンが休憩室に着いたとき、そこに待ち受けていたのはオリビアだった。
室内にはリアムの姿はなく、部屋の奥のソファにエリスの姿を捉えたシオンは、ぐったりとしたエリスの様子に、戦慄した。
「……姉、さん……?」
エリスの衣服に残された、乱れた痕跡。
そこから推測される可能性に、リアムへの猛烈な殺意が沸き上がる。
反射的にエリスに駆け寄り抱き締めたはいいものの、怒りと憤りで、どうにかなってしまいそうだった。
だが、怒りに身体を震わせるシオンに、オリビアは告げたのだ。
「落ち着きなさい、シオン。あなたの考えているようなことは起こってないわ。その衣服の乱れは、わたくしがやったのよ。お兄様がこの方に手を出していないのか、確かめる必要があったから」
――と。
力強く、けれど切実な声で、オリビアは訴える。
建国祭以降、リアムの様子がどこかおかしかったこと。
話しかけても上の空だったり、思い悩んでいることが増えたこと。
更にここ一週間は、まるで以前とは別人のように、冷たい顔をするようになったことを。
「だからわたくし、お兄様を尾行していたの。そうしたら、お兄様はお倒れになったこの方を『連れ』だと仰った。――そんなはず、絶対にあり得ませんのに……」
「…………」
「世間知らずのわたくしですら、女性を個室に連れ込むことの意味くらい理解しているわ。お兄様のしたことは、決して許されることではない。でも、お兄様は理由もなくこのようなことをする方ではありませんの。ですから、お尋ねしたいのよ。――わたくしがこの部屋に駆け付けたとき、お兄様はこう言ったわ。『目的は達せられた。後は好きにしたらいい』って。それは、あなた方の正体と関係がありますの? この方、本当は帝国貴族なのでしょう? それどころか……もしかして――」
「――!」
◇
その時のことを思い出したシオンは、罪悪感に顔を歪める。
シオンは、リアムの目的が、『エリスとのスキャンダル』を起こすことだったと悟ると同時に、オリビアにエリスの正体を見事言い当てられ、頭に血が上ったあまりオリビアを怒鳴りつけてしまったのだ。
「気付いていたならどうして止められなかった!」と。
オリビアには何一つ非はないと、わかっていながら。
その後は、自分の怒鳴り声に何事かと駆け付けた司書たちの目を避けるように、エリスとオリビアを連れ、職員用の裏口から逃げ出した。
だが、図書館から出たはいいものの、帝国に渡って三ヵ月しか経っていないシオンに、行く当てなどあるはずなかった。
エリスとオリビアを学院の男子寮に入れるのは当然不可能だ。かと言って、眠ったままのエリスを宮に帰すことはできない。
オリビアはエリスの身体は無事だと言ったけれど、それを簡単に信じられるほど、シオンはお人よしではなかった。
もし湯浴みの最中に唇の吸い痕一つでも見つかれば、大変なことになるからだ。
それに、まだオリビアから全ての話を聞けたわけではない。
リアムがどうしてこのような行動を起こしたのか、その原因を探るまで、オリビアを解放してしまうわけにはいかなかった。
何よりオリビア自身が、「今の兄とは顔を合わせたくない」、つまり、帰りたくないと言ったのだ。
(でも、どうする。学院にかくまってもすぐに見つかる。かと言って、今は宿を借りられるほどの手持ちはない。姉さんとオリビア様、二人ともを連れて隠れられる場所は……)
そう考えたとき、シオンの脳裏に過った一人の人物。
(もしかして、あの方なら……。一か八か、賭けてみるしかない)
シオンは辻馬車を捕まえ、眠ったままのエリスとオリビアと共に乗り込むと、御者に行先を告げる。
「帝国ホテルへ向かってください」――と。
◇
それから約四時間が経った今、シオンはこうして、帝国ホテルの最上階、スイートルームの一室でエリスの寝顔を見つめていた。
シオンは先ほど、エリスの診察を引き受けてくれたホテルの医師から「大事ありません。じきに目を覚ますでしょう」との診断を受け、一先ず安堵したところだった。
けれど、エリスの身体が無事だとわかった途端、今度は自分のしでかしてしまったことへの罪の意識が湧いてくる。
いくらアレクシスが不在とはいえ、あまりにも身勝手なことをしてしまったのでは、と。
(姉さんが起きたら、何て説明しよう。勝手な行動を取ったことをまずは謝って……それから、図書館でのことと、オリビア様の火傷のことを話して……。――ああ、でも、結果的に未遂だったとはいえ、もし泣かれでもしたら……)
そろそろ目を覚ましてくれないだろうか。
そうは思うのに、いざ目を覚まして取り乱されたりでもしたら、どうしたらいいかわからない。
それに、このホテルに着いてから、オリビアから聞かされた『オリビアの左手の火傷の原因』――それがアレクシスであったのだとエリスに伝えなければならないことも、シオンの気分を憂鬱にさせた。
(オリビア様は自分で伝えると言っていたけど……よりにもよって『火傷』って。こういうのを因果っていうのかな。……切り傷とかなら良かったのに)
そもそもエリスは、オリビアの左手に火傷の痕があることを知らないはずだ。
オリビアが遠方に嫁がされることになったのが、その火傷の痕のせいであることも、知らないはず。
そんな状況で、事故とはいえ火傷を負わせたのがアレクシスであることや、アレクシスを恨んだリアムのせいで今回のような危険な目に合ったなどと知ったら、エリスはいったいどう思うのだろうか。
「…………」
(こういうとき、殿下ならどうするのかな。『問題ない』って、自信満々に言うんだろうか。宮廷舞踏会で、踊れなくなった姉さんに言ったみたいに)
――いや、流石にそれはないだろう。
なぜって、今回のことは外ならぬ、『アレクシス自身が原因』なのだから。
「……ああ、何かもう、疲れたなぁ」
いっそこのまま、エリスを連れて国外逃亡でもしてしまおうか。
何のしがらみもない場所で、一からやり直すというのも手かもしれない。
そんな、一度は捨てたはずの自分本位な望みが、シオンの中でムクムクと頭をもたげる。
もう、何もかもが面倒だ。
この場所から、エリスと二人逃げ出してしまいたい――そう、心が闇に囚われかける。
だが、そのときだった。
シオンの思考を無理やり現実に引き戻すかのように、何の前触れもなく、耳元に「ふぅっ」と吐息らしきものを吹きかけられたのは。
「――ひッ!?」
刹那、あまりにも突然のことに、シオンは悲鳴を上げて飛び上がった。
と同時に背後で上がる、ケラケラという笑い声。
その屈託のない子供のような声に、シオンは怒りを覚えながら、ゆっくりと背後を振り返る。
するとそこにいたのは――、
「君、相変わらず耳弱いんだね。変わってなくて安心したなぁ」
と美しい笑みを浮かべる、この部屋の借主――ジークフリート・フォン・ランデルの姿だった。