35.アレクシスの帰還
「――何? エリスが帰っていないだと?」
同日の暮れ、アレクシスはエメラルド宮の使用人からエリスがまだ戻っていないことを知らされ、大きく眉をひそめた。
「はい。エリス様は本日昼頃、マリアンヌ様と会うためシオン様と共に帝国図書館に向かわれたのですが、予定の時刻を過ぎてもお戻りにならず。おかしいと思っていた矢先、この手紙が、門兵に……」
使用人たちは、本来エリスは午後四時頃には戻る予定だったことを説明しながら、一枚のメモを差し出す。
するとそこに書かれていたのは、ほんの短い一文。
『訳あって、数日姉を預かります。殿下が戻られるまでは、内密にしていただきたく。 シオン』
「――っ」
これを読んだアレクシスは、全く理解し難い内容に、鋭く目を細めた。
◆
アレクシスはほんの今しがた、予定より三日早く、セドリックと共に演習先から帰還したばかりだった。
エリスの顔を一目見ておこうと、宮廷に諸々の報告を上げるよりも前に、直接エメラルド宮に帰ってきたのだ。
けれど、宮に戻ったアレクシスを待っていたのはエリスの出迎えではなく、慌てふためく使用人たちの姿。
「どうする。王宮に報告した方がいいんじゃないのか?」
「でも、この手紙には内密にって……」
「だが、本当にシオン様からの手紙かわからないだろう! もしエリス様に何かあったら、俺たち全員首どころじゃ済まないぞ!」
「ああ、ここに殿下がいらっしゃれば……」
アレクシスは、自分の存在にすら気付かないほど深刻な空気の使用人たちに、ただ事ではないことを悟った。
その理由を知るべく、「これはいったい何の騒ぎた?」と尋ねたところ、ようやく主人の存在に気が付いた使用人たちから冒頭の説明を受け、更に、このように伝えられた。
「実は、エリス様のお腹には、殿下のお子がいらっしゃるのです」と。
◇
「ああッ、クソッ! いったい何がどうなっている……!」
それから少し後、アレクシスはセドリックと二人きりの執務室で、苛立ちを露わにしていた。
ソファに項垂れこめかみを押さえながら、シオンから届いたであろう手紙を凝視する。
――率直に言って、アレクシスは混乱していた。
出掛けたまま戻らないエリスに、シオンからの不可解な手紙。
その上、続けざまに使用人の口から語られた『エリス懐妊』の事実に、喜びが湧くどころか、心配は増すばかりだった。
けれど同時に、今は狼狽えている場合ではないということを、アレクシスは理解していた。
なぜならアレクシスは、この事態がシオン単独で起こしたことだとは、どうしても思えなかったからだ。
――そう。
アレクシスは、ある意味でシオンを信じていた。
(シオンは、こんな中途半端なやり方はしない)
現に使用人たちは、手紙を見て顔色を変えたアレクシスに対し、口々にこう言った。
「シオン様は、訳もなくこのようなことはなさりません!」
「エリス様の懐妊がわかって以降、毎日のようにこちらに通われ、エリス様をお支えしていたのですから」
「先週だって、熱を出されたエリス様から一時も離れずに看病なさって。今日の外出も、ぎりぎりまで反対されていたのですよ!」
「エリス様のご負担にならないよう、なるべく早く戻ると仰って出掛けられたのに……こんなの、何かあったとしか……」
『シオンがバルコニーから飛び降りようとした一件』以来、シオンが極度のシスコンであることは、使用人全員が周知の事実。
実際、アレクシスが不在のこの一月、シオンのエリスに対する過保護ぶりは舌を巻くほどだったという。
そんな彼らが、口を揃えて訴えたのだ。
『シオンは、こんなやり方はしない』――と。
(俺も彼らの意見には同感だ。しかしエリスは戻っていない。……ということはつまり、第三者が関わっている可能性が高いということ)
アレクシスは使用人らの言葉を思い出しながら、側に立つセドリックに問いかける。
「もう一度確認するが、これはシオンの字で間違いないんだな?」
「ええ、間違いありません」
「では、お前はこの事態をどう考える? これは、シオンが自らの意思で行ったことだと思うか?」
「…………」
するとセドリックは僅かばかり思案した末、「半分は」と答え、こう続けた。
「私も使用人らの言うように、シオンがこのようなやり方をするとは思えません。もし何かするならば、もっと早い時期に事を起こしていたはず。とは言え、何者かに命じられたと考えるのも少々無理がある。もし誘拐等の犯罪に巻き込まれていた場合、『数日預かる』『殿下が戻られるまで内密に』という文句にはなりませんから」
――つまり、と、セドリックは意見を纏める。
「私は、その手紙に書かれていることが全てであると考えます。シオンは、『訳あって』エリス様を帰すことができなくなった。そして『その訳』は、シオンにとって不測の事態且つ、人には知られたくない事情だったのでしょう。少なくとも、手紙に書き記すことができない程度には」
「…………」
セドリックの言葉に、アレクシスの眼光が鋭さを増す。
『不足の事態』且つ、『人には知られたくない事情』。
それはアレクシスからしてみれば、異常事態以外の何物でもなかった。
その理由が事件であれ事故であれ、決して放っておくことはできない。
――エリスの無事を、この目で確かめるまでは。
「セドリック、今すぐシオンの足取りを探れ。帝国図書館と国立公務学院に連絡を入れろ。門兵に手紙を渡したというペイジボーイも、探し出して連れてこい」
「御意。全ては殿下の御心のままに」
アレクシスが命じると、セドリックは恭しく拝命し、くるりと身を翻した。
その背中が扉の向こうに完全に消え去るのを待ち、アレクシスは、拳を強く握り締める。
「エリス……どうか、無事でいてくれ」と。
祈るような気持ちで、窓の向こうの夜月を仰ぎ見て、同じ空の下にいるはずのエリスに、想いを馳せた。