33.リアムの悪意
「僕は先に本を見てくるよ。マリアンヌ様によろしくね」
「ええ。また後でね、シオン」
――その日、エリスはシオンと共に帝国図書館を訪れていた。
久しぶりに、マリアンヌと会うためだ。
(マリアンヌ様とお会いするのは、三週間ぶりになるかしら……)
最後に会ったのは月の始め。エリスの妊娠が判明した日である。
その後は色々と慌ただしく、体調的にも気持ち的にも、マリアンヌに連絡をしている余裕がなかった。
けれど先週マリアンヌの方から誘いがあり、リアムとのお茶会以降エリスの外出に渋っていたシオンも「マリアンヌ様からの誘いなら仕方ないか」と外出を認めてくれ、今日に至る。
エリスは、貴族専用の雑談スペースでマリアンヌの姿を探した。
だが、マリアンヌの姿はない。
(まだ着いていらっしゃらないようだわ。いつもの席で待っていましょう)
エリスは一番奥のテーブルに腰を落ち着けると、ウェイターを呼んで紅茶を頼む。
そうして、否が応でも思い浮かんでしまうリアムのことを考えて、小さく溜め息をついた。
◆
『先日のお申し出は、お受けすることはできません』
エリスが悩みに悩んだ末、リアムに返事を出したのは、一週間前のこと。
それはエリス自身が出した結論だったが、それと同じほど、シオンが激怒したことが大きかった。
◆
そもそもは十日前。
お茶会の晩に冷えた空気に当たったせいで熱を出したエリスは、三日三晩もの間寝込み、シオンから叱責された。
「妊娠中に夜風に当たるなんてどうかしてる! 取り返しのつかないことになったらどうするつもりなんだ!」
――と同時に、厳しい詰問を受けた。
「リアム様にいったい何を言われたの? 言うまで、姉さんの側を離れないから」
それでもエリスは最初、これはあまりにもプライベートなことだからと口を閉ざした。
けれど痺れを切らしたシオンが、「姉さんが答えないなら、リアム様に直接聞きに行くけど、いいんだね?」などと言い出したものだから、話さないわけにはいかなくなってしまったのだ。
(……あのときのシオンは、本当に怖かった)
ひとまず、オリビアが火傷を負ったことと、その原因がアレクシスであることさえ伏せておけば、問題にはならないだろう。
そんな考えの下、
「オリビア様を殿下の側妃にしてくれるよう、頼んでくれないかと言われたの」
と口にした瞬間、明らかに変わったシオンの顔色。
口調こそいつも通りだったが、まるで人を射殺しそうなほど冷たい瞳で、シオンはこう呟いたのだ。
「そういうことか」――と。
エリスにはその意味はわからなかった。
けれど、シオンが心の底から怒っていることだけは理解した。
なぜならエリスはそれまで一度だって、あれほど冷たいシオンの顔を見たことはなかったのだから。
「姉さん、すぐに断って。リアム様からの手紙は、二度と受け取らないで」
「――!」
「オリビア様に同情する気持ちはわかる。でも、それとこれとは話が別だよ。リアム様のやり方はとても卑怯だ。それに姉さんは、『嫌だ』と思っているんだろう?」
シオンにそう言われ、エリスはハッとした。
そうだ。わたしは嫌なんだ、と。
アレクシスがオリビアを受け入れるかどうか心配になるのは、受け入れて欲しくないと願っているからだ。
アレクシスを他の誰にも渡したくないと、そう思っているから。
「……でも、それって我が儘なんじゃないかしら」
エリスは、シオンにポツリと漏らす。
「帝国の皇子は、何人もの妃を持つのが普通なのよ? 事実、第一皇子殿下も、第二皇子殿下も、何人も妃を持たれている。……それなのに殿下を独り占めしたいと思うなんて、妃失格じゃないかしら」
『妃は一人でいい』と言ったアレクシスのために断るならいざ知らず、自分のアレクシスへの独占欲のためにリアムの提案を拒否するのは、どうしても違う気がした。
どちらであろうと『断る』ことには変わりないのに、そこには雲泥の差がある――そんな気が。
すると、それを聞いたシオンは「気に入らない」と言いたげに目を細める。
「じゃあ聞くけど、姉さんはリアム様の提案を受け入れるの? 殿下が帰ってきたら、『オリビア様を二番目の側妃に』ってお願いするのか? それって、殿下にすごく失礼だ。もし僕が殿下の立場で、愛する妻にそんなことを言われたら、一生立ち直れないくらい傷付くよ」
「……っ」
「それに今の姉さん、酷い顔だ。もうすぐ殿下が戻ってくるっていうのに、そんな状態で殿下を出迎えるつもり? 殿下に心配をかけたいの? ――そういう気の引き方は、僕は好きじゃない」
「――!」
瞬間、エリスは頭を強く殴られた気がした。
『そういう気の引き方は、僕は好きじゃない』
シオンにそんな言葉を言わせてしまった自分自身に、心底腹が立った。
(シオンにこんな顔をさせてまで、わたしはいったい何を悩んでいるのかしら。答えなど、とうに決まっているというのに)
そもそも、今回のことは全て自分が蒔いた種だ。
オリビアに助けてもらったことは別として、その後、勝手な正義感と同情心から、シオンに相談せずに、リアムからのお茶会の招待を勝手に受けた。
もしあの時断っていれば、リアムに期待させることもなく、こんなおかしな申し出をされることもなかったはずだ。
(それに、もしわたしがここできちんと断らなければ、殿下を困らせてしまうことになる。わたしのせいで殿下にご負担をかけることになるなんて、それだけは嫌)
自分の気持ちとアレクシスの立場、それを考えれば、答えはおのずと導き出される。
そう悟ったエリスは、リアムに断りの返事を出したのだ。
◇
(……でも、まだ返事がいただけてないのよね)
エリスは、ウェイターが運んできた紅茶を嗜みながら、再び小さく息を吐く。
リアムに断りの返事を出して以降、気持ちは随分とすっきりした。
オリビアやリアムへの罪悪感は残れども、これで心置きなくアレクシスを出迎えることができる、と。
けれど、一つだけ気になることがあった。
一週間が経っても、リアムからの返事がないのである。
(やっぱり気分を害してしまったのかしら。下手な言い訳をするのもどうかと思って、結論だけを書いたのが良くなかったのかもしれないわ)
とは言え、こればかりは仕方ない。
リアムから恨まれようとも構わない――エリスはそんな覚悟を決めて、断りの返事を送ったのだから。
(それにしても、マリアンヌ様はまだかしら。時間に遅れられるなんて、初めてのことよね)
――と、そう思ったその時だ。
不意に足音が聞こえ、エリスはそちらを振り返った。
ようやくマリアンヌが到着したのかと、そう思ったのだ。
だが、違った。
そこにいたのは、マリアンヌではなく、リアム。
何の前触れもないリアムの登場に、エリスは驚きを隠せない。
(リアム様? どうして、こちらに?)
偶然だろうか。――きっとそうだ。
ここは帝国図書館。リアムがいても何らおかしくはない。
けれど、どうしてだろうか。
どうにも、嫌な感じがするのは……。
リアムはエリスのすぐ前に立つと、ニコリと微笑み、脈絡もなくこう言った。
「皇女殿下はお越しになりませんよ」――と。
「……え?」
「『急用ができた』と、あなたの字で文を出しておきましたから」
「…………」
(いったい、どういうこと……?)
全く訳がわからない。なぜリアムがそんな手紙を出す必要があるのか。
エリスは酷く混乱する。
そんなエリスを前に、リアムはテーブルの上の紅茶をチラリと見やり、こう続けた。
「……良かった。その紅茶、飲んでいただけたのですね」と。
放心するエリスの反応を確かめるように、一層笑みを深める。
「そのお茶は、あなたが頼んだものではありません。私が用意させたものです」
「――!?」
「大丈夫、毒など入っておりませんから。ただ数滴、眠気を誘う薬を入れただけ」
「……!」
――そんな、まさか、どうして。
エリスは憤った。
よもや、こんな人気のある場所で薬を盛られるなどと、誰が予想しただろう。
エリスは咄嗟に椅子から立ち上がり、リアムから距離を取ろうとする。
けれど薬が回り始めていたのか、エリスはたちまち眩暈を起こし、その場にへたり込んでしまった。
「……っ」
眠い。身体に力が入らない。――声が、出ない。
(……どう、して……こんな……)
まるで天地がひっくり返ったように目が回り、意識が闇に引きずり込まれる。
目を開けていられない。眠くて、――眠くて。
エリスはもはや成すすべもなく、
「手荒なことはしませんから、ご安心を」
――というリアムの声を遠くに聞きながら、意識を手放したのだった。