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32.憎悪


 十月の末の夕暮れどき。


 帝都では、昨夜から激しい雨が降り続いていた。

 雲は厚く、空は暗い。おまけに雷まで鳴り響いている。

 

 そんな重たい街の景色を、リアムは自室の出窓から、冷めた瞳で見下ろしていた。


 テーブルの上には、今朝方届いたエリスからの手紙が、開いたまま放置されている。

 そこに書かれているのは、『申し訳ございません。先日のお申し出は、お受けすることはできません』という、短い一文。


 それはつまり、『オリビアをアレクシスの側妃に』という、一縷いちるの望みがついえたことを意味していた。



 ◆◆◆


 

 ――「今日からお前は、リアム・ルクレールと名乗るように」



 それは彼が七つになったばかりの、ある雨の日のことだった。

 

 娼婦だった母を亡くし、劣悪な孤児院で酷い生活を送っていた彼の前に、突然、『父の使い』と名乗る者が現れたのは。


「死んだ母親の名は?」

「“――”です、旦那さま」

「よろしい。私と一緒に来なさい」


 そんな短い会話を交わし、連れてこられたのがこの屋敷。

 そこにいたのは、見覚えのない父親と、今年二歳を迎えるという、腹違いの妹・オリビアだった。


 父親は対面早々、彼を冷たく見下ろし、こう言った。


「お前の兄が死んだ。――よいか。お前は代わり・・・だ。我が家門に泥を塗らぬよう、よく学べ」


 ルクレール侯爵は、二年前のオリビア誕生時に妻を亡くし、続けて長男を事故で亡くしていた。


 だが世襲貴族の制度上どうしても男児が必要だった侯爵は、かつて自身の子を身ごもった娼婦の情報を調べ上げ、内密に引き取ったのである。

 


 新しい名前を与えられたリアムは、教えられることを必死に学んだ。

 二度と孤児院には戻りたくないという一心で。


 だが、彼がどれだけ努力しても、父の求める結果は残せなかった。


「お前の兄は優秀だった」

「あの子さえ生きていれば……」

「なぜ同じようにできんのだ!」


 そんな罵声を浴びせられる度、リアムの心はえぐられた。

 日常的に行われる体罰も、心身を酷く弱らせた。


 それでも彼が耐え忍んでこられたのは、オリビアの存在があったからだ。

 

「おにーさま、大好き!」と、太陽のような明るさで笑いかけてくれる妹の成長を、ずっと側で見守っていきたいと思ったから。


 ――それなのに。



 ◇



 窓に打ち付ける雨音を遠くに聞きながら、リアムは拳を握りしめる。


 目を閉じれば昨日のことのように蘇る、「オリビアを妃に迎えるつもりはない」と言い放った、アレクシスの冷たい声。

 思えば、あの時から自分は、アレクシスへの復讐心を募らせていたのだろう。



(アレクシス。君は何もかもを手にしておきながら、私からオリビアを引き離そうとするのか)


 その感情が逆恨みだという自覚はあった。

 けれど、オリビアを失うことが決まってしまった今のリアムに、守るものは何もない。


 家の存続も、与えられた役目も、立場も理性もプライドも、欠片も意味をなさなかった。


 今彼の中にあるのは、アレクシスへの憎悪と復讐心。

 ただ、それだけ。



(君も知るべきだ。私のこの胸の痛みを……。愛する者を失う、その苦しみを)


 そのためにすべきことは、ただ一つ。アレクシスから、エリスを奪ってやること。

 問題は、その方法だ。


 ――そう考え始めた、その矢先。


 部屋の扉がノックされ、「私です」と若い侍従の声がした。

 どうやら、頼んでいたものを入手したようだ。


 入室を許可すると、侍従は周囲を警戒するような素振りで室内に入り、大きめの封筒を差し出してくる。

 

「こちら、頼まれていたカルテです」

「誰にも気付かれていないな?」

「はい。往診中を狙って忍び込みましたから」

「よくやった。これは報酬だ、好きに使え」


 リアムは札束と引き換えに封筒を受け取ると、すぐに侍従を下がらせ、中身を確認する。

 ――それは間違いなく、エリスのカルテだった。

 

 今朝、エリスから届いた手紙を読んですぐ、侍従に命じて診療所に盗みに行かせた、日付のみ書かれた無記名のカルテ。

 これがきっと、アレクシスへの復讐の鍵になる。


 リアムには、確かにそんな予感があった。

 そしてその予感は、見事的中した。


 カルテに書かれていたのは、『妊娠の兆しあり』との一文。


 それを目にしたリアムは、一瞬驚きに目を見張ったが、すぐにほくそ笑む。


(……懐妊、か。――アレクシス。君のエリス妃への愛がいかほどか、見せてもらおう)


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