30.ロレーヌ市場にて
それから一時間と少し後。
アレクシスとセドリック、及びジークフリートと近衛二名は、港町ロレーヌの中心部にある、ロレーヌ市場を訪れていた。
この市場は街のシンボルなだけあり、かなりの規模だ。
肉や魚、野菜などの生鮮食品を始め、陶磁器や織物、本や雑貨、美術品や楽器に至るまで、ありとあらゆる露店が通りのずっと先まで立ち並ぶ。
客層は平民から貴族、商人、軍人、外人などさまざまで、アレクシスやジークフリートの正体を気にする者はいない。
そのため、一見して気楽な物見遊山――かと思いきや。
セドリックは、市場を興味深そうに散策するジークフリートと、単独で買い食いしながら自由に動き回るアレクシスの背中。それを交互に眺めては、疲れた顔で溜息をついた。
――ああ、面倒なことになった、と。
◆
(確かにジークフリート殿下の言葉には驚かされたが、だからと言って街に連れ出し、あまつさえこのような市場に来ることになろうとは……)
クロヴィスから渡されている店リストの調査に、ジークフリートを加えることになったのは一時間と少し前のこと。
だがセドリックは、最初は気が進まなかった。
十分な護衛もないまま他国の王子を連れ回すのはいかがなものか、危険ではないかと。
とは言え、行き先は宝石や貴金属、時計などを扱う高級装飾品店ばかり。
その殆どは高級街に店舗を構えており、警備や治安の心配はない。
それなら、自分やアレクシス、近衛が二人もいれば、ジークフリートを守りきれるだろう。
そう判断したからこそ、セドリックはジークフリートを連れての外出に異を唱えなかったのだ。
だが、街に着くないなや、アレクシスが向かったのはこの市場。
不信に思ったセドリックが、「行先が違うのでは?」と尋ねると、アレクシスは後方を歩くジークフリートをチラリと見やる。
「あいつのせいで朝食を食べ損ねたからな。まずは腹ごしらえだ」
「それで市場に? 確かに手軽ではありますが……しかし」
ジークフリートは由緒正しき王族だ。
きっと市場になど足を運んだことはないだろう。レストランの方がいいのでは。
セドリックはそう思った。
けれど当のジークフリートが
「市場? 全く問題ないよ。むしろ興味がある」
と乗り気を見せたために、なし崩し的に市場に行くことが決まってしまったのである。
◇
(とにかく、ジークフリート殿下から目を放さないようにしなくては)
近衛がいるとはいえ、一瞬たりと気は抜けない。
万一にでも他国の王子に怪我など負わせたとなれば、責任問題になってしまうからだ。
せめてアレクシスがもう少し気を遣ってくれればいいのだが、道中ジークフリートと殆ど言葉を交わさなかったことを考えると、きっと頼りにはならないだろう。
現にアレクシスは今も、ジークフリートのことはセドリックに丸投げし、ひとり自由気ままに買い食いをしているのだから。
――セドリックがアレクシスの背中を呆れた気持ちで眺めていると、不意にジークフリートが話しかけてくる。
「ところでセドリック、君に聞きたいことがあるんだけど、いいかい?」
「? ええ、何でしょう」
シオンのことなら、行きの馬車の中で話したはずだが。
となると、エリスのことだろうか。
やや警戒しつつも頷くと、ジークフリートは静かな声でこう尋ねた。
「アレクシスは、いつエリス妃の正体に気が付いたんだい?」
「……なぜ、そのようなことを?」
「興味があるんだ。アレクシスがエリス妃と、どうやって心を通わせたのか。……アレクシスがあんなに丸くなったのは、エリス妃のおかげなんだろうからね」
「……丸く、なってるでしょうか?」
「それ、本気で聞いてるのかい? 説明なんてしなくても、君はとっくにわかっていると思うけどな」
「…………」
確かに、少し前までのアレクシスならば、ジークフリートの言葉を正面から受け取ることはなかっただろう。
『君を応援していた』と言われたところで、返事一つせずに退席していただろうし、そもそも、ジークフリートと席を並べることすらなかったはず。
当然、今日のように同じ馬車に乗り、共に出掛けるなど有り得ない。
それが変わったのは、エリスが嫁いできたからだ。
だが、ジークフリートは一つ大きな勘違いしている。
それはきっと、アレクシス自身も気付いていない、最も単純な事実。
「……建国祭です。殿下が、エリス様の正体に気付かれたのは。――ですが」
セドリックは、一呼吸置いて続ける。
「アレクシス殿下がエリス様を愛されたのは、エリス様が初恋の少女だったからではありません。たとえエリス様が初恋の相手ではなかろうと、殿下はエリス様を愛されておりました。それだけは、断言できます」
「…………」
「ですから、あまり詮索しないでいただけませんか? 確かにお二人の再会は運命だったかもれません。ですが、それを周りが騒ぎ立てるのは違うでしょう」
建国祭で二人の想いが通じ合って、ようやく三ヵ月。
セドリックから見れば、二人はまだまだこれからお互いのことを知っていく段階だ。
そんな大事な時期に、今の様に色々と探られたり、茶々を入れられたら堪らない。
セドリックはそんな気持ちで、ジークフリートを牽制する。
するとジークフリートは数秒ほど沈黙し、片方の口角をあげた。
「なるほどね。だから君は、エリス妃の正体に気付いていながら、アレクシスに伝えなかったのか」
「……それは、どういう……」
「君は舞踏会の夜、シオンにエリス妃の火傷の原因を尋ねていたね。実はあのとき、僕も側にいたんだ」
「――!」
「君の質問に、シオンはこう答えた。『姉さんが教えていないことを、僕が言うわけにはいかない』。あの答えで君は、エリス妃に火傷の痕があると確信し、同時に、彼女がアレクシスの初恋の相手であると悟ったはずだ。でも、君はアレクシスに報告しなかった。僕はそれを不思議に思っていたんだ。――だが、今の君の反応を見て納得がいったよ。全てはアレクシスへの愛ゆえ、だったんだね」
「…………」
確かに、ジークフリートの言葉は間違ってはいない。
セドリックはエリスの輿入れ前、釣書を見たときから、エリスがアレクシスの初恋の相手かもしれないと予想していた。
だがその予想に反し、アレクシスは初夜の翌日、『エリスの肩に火傷の痕はなかった』と言ったため、セドリックは二つの可能性を考えなければならなくなった。
一つは、二人が別人であること。
もう一つは、本人であるが、火傷の痕を隠しているという可能性。
だからセドリックは舞踏会の夜、エリスの弟をランデル王国に送り返す直前、カマをかけたのだ。
エリスが本物であるという前提で、火傷の原因を探るような聞き方をし、火傷の痕があることを確かめようとした。
するとシオンから返ってきた答えは、「火傷など知らない」ではなく「言えない」。
つまり、火傷の痕が残っていることが、その時点で確定したというわけだ。
だが、セドリックはそのことをアレクシスに報告しなかった。
その理由は、アレクシス自身の手で答えに辿り着いてほしいと、セドリックが願ったからだ。
その心を、ジークフリートは『愛』だと言うが、セドリック自身は単なるエゴだと考えている。――とは言え、訂正するほどのことでもないだろう。
セドリックは肯定を沈黙で示し、アレクシスが視界の端にいることを確認してから、ジークフリートに問いかける。
「私も、一つお尋ねしてよろしいでしょうか」
「なんだい?」
「なぜ、そこまでアレクシス殿下を気にかけるのですか? 正直、学生時代の殿下の態度は無礼と言わざるをえないものでした。それなのにジークフリート殿下は、殿下の恋を『応援していた』と仰った。それが、どうしても腑に落ちないのです」
するとジークフリートは驚いた様に目を見開いて、「はははっ!」と笑い声を上げる。
「そんなの決まってるだろう。好きだからだよ」
「……好き? ですが、好かれる理由など」
「あるんだよ。僕は昔から、人の心の中にある『揺るぎない強さ』に惹かれてしまう性分でね。君のアレクシスへの忠誠心や、シオンのエリス妃への崇拝的な愛。それに、アレクシスの何者にも流されない芯の強いところなんか、見ていてゾクゾクするんだよ。それが正しいかどうかは関係ない。どれだけ僕の心を震わせてくれるか、それだけが大事なんだ」
「…………」
「だからさ、僕は君たちを応援しているよ。全員が幸せになる道はなくても、納得のいく答えを見つけられたらいいよね」
きっとこれはシオンのことを言っているのだろう。
そう思いながら「はい」と相槌を打つと、丁度そのタイミングでアレクシスが戻ってきた。
左手に三本の串焼きを持ちながら、「おい、さっきからコソコソと何を話している」と訝し気な顔をして。
「いつまで経っても来ないから、俺が買ってきてやったぞ。ほら、セドリック」
「……ありがとうございます」
「ジークフリート、お前も一本どうだ」
「えっ、僕? ……驚きだな。君が僕に食事を勧めるなんて、空から鉄砲玉が降ってくるんじゃないかい?」
「お前な……。いらないならそう言えばいいだろう。どこまでも口が減らん男だ」
「ああ、ごめん、あんまり意外だったから。有難くいただくよ。ありがとう、アレクシス」
「口に合わなければ護衛にでも食わせておけ。――それを食べたらもっと奥に行くぞ。俺も市場は久しぶりでな。せっかくだから一通り見ておきたい」
「いいね、すごく楽しそうだ」
こうして、その後三人は市場を色々と見て回った。
その間、アレクシスがジークフリートと言葉を交わしたのはほんの数えるほどだったが、そこに流れる空気は決して険悪なものではなく、むしろ、良好と言っても差支えのないほど穏やかな時間だった。