27.ジークフリートとの再会
「殿下、わたくし、シオンと共に祖国に戻ろうと思いますの」
「――は? エリス、今、何と……」
「ですから、実家に帰らせていただきます。女性に怪我を負わせて平気でいられるような方となんて、恐ろしくてこれ以上一緒にはいられませんもの」
「……ッ!」
アレクシスは絶句した。
目の前のエリスの、軽蔑したような表情に。
彼女が口にした、突然の別れの言葉に――。
アレクシスは、必死に弁解しようとする。
――待て! 待ってくれ! と。
俺は知らなかったんだ! 何一つ、知らされていなかったんだ……!
オリビアを怪我させるつもりなんて、少しもなかった! だから、話を聞いてくれエリス……!
――だがその声は、少しも言葉にならなかった。
辛うじて、掠れたような息が漏れるだけだった。
(声が……出ない……!)
シオンの手を取り、背を向けるエリスを引き留めようと、アレクシスは必死に手を伸ばす。
けれどその手は虚しく空を掻き――次の、瞬間――。
◇
「……ッ!」
――カッ! と瞼を開いたアレクシスの視界に広がったのは、見慣れぬ白い天井だった。
今アレクシスがいるのは、帝国最南西のロレーヌ基地内にある、要人様に用意された邸宅の一室だ。
要人用というだけあって、貴族邸宅と造りの変わらない壮麗な内装。
その大きな窓からは燦々と日が降り注ぎ、演習三日目の朝の訪れを示していた。
つまり、今のは、夢。
「……なんて、夢だ」
アレクシスは両手で顔を覆い、「はぁー」と肺から大きく息を吐く。
一週間前アンジェの宿屋で、セドリックからオリビアの話を聞かされたせいだろう。
夢とは言え、エリスが自分の元を去るなど、考えるだけで吐き気がした。
(一刻も早く帝都に戻り、この腕に彼女を抱き締めなければ。……一ヵ月は、長すぎる)
アレクシスは、起きて早々二度目の溜め息をつき、身支度を整えるためにベッドから立ち上がる。
気分は最悪だが、そろそろ朝食の時間だ。セドリックが呼びに来る頃合いだろう。
すると思った通り、エリスの刺繍入りのシャツに袖を通したところでドアがノックされ、セドリックの声がした。
「おはようございます、殿下。朝食のご用意ができました」
「わかった。すぐに行く」
アレクシスは短く答えると、シャツのボタンを閉めてから、黒い軍服をサッと羽織る。
最後に、思い出したように髪を軽く整えて、セドリックと共にダイニングへと向かった。
◇
ここ、帝国最南西のロレーヌ基地は、陸海軍合同基地である。
西の国境ロレーヌ山脈を一部切り取った形の要塞基地で、南側には戦艦用の入り江を持ち、山脈の麓一体はすべて軍所有の基地及び駐屯地という、帝国内でも最大級規模の基地だ。
面積はおよそ百ヘクタール(東京ドーム約二十個分)。
基地内には、砲台、指揮所、観測所、弾薬庫、食糧庫、通信施設及び医療施設などが設けられており、第十二師団所属の一万人と、第三海軍旅団所属の二千人、合わせて一万二千人が駐屯する。
今回、ここに帝都周辺の守りを担当する第一師団の半数にあたる、第一大隊五千人と、ランデル王国その他二ヵ国の軍隊が加わり、総勢四万人での演習だ。
これは相当な規模である。
とは言え、アレクシスの役目は殆どなかった。
演習の指揮を執るのはあくまで帝国軍第一師団長であり、アレクシスではないからだ。
諸々の準備及び指揮命令、加えてトラブルの収拾まで、全ては第一師団長の仕事。
当然、アレクシスが現場に入るなどということはない。
ここに来てからアレクシスがしたことと言えば、初日の挨拶と、晩餐会での接待。あとは、物見台から演習の様子を見学するくらいなものだ。
(まあ、おかげで港の調査は順調だがな)
アレクシスはセドリックを連れて階段を下りながら、ここ一週間のことを思い起こす。
実はアレクシス、演習中自分の仕事がないのをいいことに、こっそり基地を抜け出して港に通っていた。
一週間前にアンジェの街を出て、その二日後に港に辿り着いてからの三日間、第二皇子から渡されたリストの店をひたすら回り、目ぼしい商品を買い漁った。
その後演習が始まってからも、基地から港街までを毎日往復している。
港街までは馬で片道一時間以上の距離があるため、晩餐までに戻ることを考えるとそれほど長くいられるわけではなかったが、演習が終わり次第すぐに帝都に戻りたいアレクシスには、全くといっていいほど気にならなかった。
「今日は射撃演習だったな。三十分もいれば十分だろう。食事が済んだら、馬の準備を整えておけ」
「はい、殿下」
階段を降りきった二人は、ダイニングに向かうべく角を曲がろうとする。
――が、そのときだった。
アレクシスとセドリック、あとは数名のハウスメイドしかいないはずのこの邸宅で、明らかに異質な足音が一つ。
その貴族的な足音に、二人はそちらを振り返る。と同時に、揃いも揃って絶句した。
なぜなら、そこにいたのは――。
「やあ、アレクシス。舞踏会以来だね。元気にしていたかい?」
――と、まるであの日の事件などすっかり気にしていないかのように微笑む、ランデル王国が王太子、ジークフリート・フォン・ランデルだったのだから。