26.眠れぬ夜に
その日の夜、使用人たちもすっかり寝静まった時間帯。
薄月の光だけが注ぐ部屋で、エリスはベッドから身体を起こし、ひとり小さく溜め息をついた。
(駄目だわ……。疲れているのに、どうしても眠れない)
眠ろうと目を閉じても、昼間のリアムとの会話が頭に過り、返って目が冴えてしまう。
――それに。
(このベッド……こんなに広かったかしら)
アレクシスが出張に出て二週間。
エリスは、シオンの連日の訪問の甲斐もあって、ようやく寂しさに慣れてきたところだった。
それなのに、今夜はまた一段と、ベッドが広くなった様に感じられる。
本来そこにあるはずの、息遣いと、温もり。
それがないことに、エリスは酷く不安になった。
「…………」
(わたしの部屋じゃ、ないみたい)
アレクシスのいない寝室は、まるで他人の部屋のようで。
エリスはその居心地の悪さに、よくないことと思いながらも、寝着のまま寝室を抜け出した。
十月も半ばの秋が深まるこの季節、夜の気温は十度を下回る。
身重の身体を冷やしてはならない――そうと知りながら、エリスはフラフラと、暗い廊下を彷徨い歩く。
物音一つしない静寂の中、昼間のリアムの苦し気な顔を思い出しながら――。
『オリビアは以前、殿下のことをお慕いしていたのです』
そんな言葉から始まった、リアムの独白。
それはまるで、死に際の懺悔のようだった。
「オリビアがいつから殿下を慕っていたのかは、私にもよくわかりません。けれど、オリビアは確かに殿下を慕っていた。そのことを、殿下自身も知っていらっしゃいました。とは言え、殿下は大の女性嫌い。私に気を遣いながらも、オリビアを避けていらっしゃった。……けれど、二年前のある日――」
リアムは語った。
二年前の春、オリビアとアレクシスとの間にトラブルがあり、その際にオリビアが左手に火傷を負ってしまったこと。
けれどアレクシスには、オリビアに火傷の痕が残ったことを知らせなかったことを――。
「あれは事故でした。殿下に恨みはありません。ですがあの事件以来、私たちはすっかり疎遠に……。その上父は、火傷の痕が残ったオリビアを『我が家の恥』だと罵り、遠く離れた辺境の地に追いやろうとしたのです」
だが、そんなときだった。
リアムの元に、アレクシスの結婚の報せが飛び込んできたのは。
しかも相手は小国の公爵令嬢。
リアムは当然、納得できなかったという。
「小国の公爵令嬢を娶るくらいなら、オリビアが相手でもいいのではないか。なぜオリビアでは駄目なんだ、と。私は、見も知らぬあなたを恨んだ。殿下から『近々会おう』と手紙を貰い、建国祭で会う約束を取り付けたときも、どうしたらオリビアを殿下の元に嫁がせられるのかと、そんなことばかり考えていたのです」
リアムはそう言うと、瞼を固く閉じ、後悔を噛みしめる。
「――だから、罰が当たったんでしょう」と。
「あの日――建国祭の式典の後、私は殿下との待ち合わせ場所に行くことができなかった。向かう途中に酔っ払い同士の喧嘩に遭遇し、ようやくその場を収めたと思ったら、今度はあなたと出会ってしまった。そして、あなたが殿下の妃であることを知ったのです」
リアムは、更に続ける。
「オリビアの結婚相手が正式に決まったのは、そのすぐ後のこと。邪な考えで殿下に近づこうとした私を、神はお許しにならなかったのでしょう。……だから、私はもう何一つ望んではならない……そう思ったのに…………再びあなたと再会し、欲が出てしまいました」
強い葛藤に揺れ動く、リアムの瞳。
それが、エリスを見定めて――二度、躊躇うように瞬いた。
「エリス様――」と、リアムが呟く。
「お願いです。オリビアを、殿下の第二側妃にしていただくよう、殿下にお口添えいただけないでしょうか。オリビアを憐れと思ってくださるのなら……あの子をどうか、殿下のお側においてやってはくださいませんか」
(オリビア様を……殿下の……二人目のお妃に……)
暗闇に包まれた宮内を彷徨うエリスの脳裏に、何度もリフレインする、『第二側妃』という言葉。
それが、エリスの心を苦しめる。
正直、エリスは今まで一度だって、アレクシスに二人目の妃ができる可能性を考えたことがなかった。
アレクシスは大の女嫌いで、その上、結婚一ヵ月のときはっきりと『妃は一人でいい』と言ったのだから。
それを考慮すれば、例えエリスがアレクシスに『オリビアを第二側妃に』と進言しようと、アレクシスはきっと受け入れない。
いくら皇族が一夫多妻制だとしても、アレクシスがオリビアを娶ることはないだろう。
エリスは、リアムの言葉を聞いたとき、真っ先にそう考えた。
(なのに、どうしてこんなにモヤモヤするのかしら……)
――いつの間にかエリスは一階に降り、中庭に辿り着いていた。
わずかな月の灯りに誘われて、そっと足を踏み入れる。
すると、ひんやりとした石畳の感触が足裏に伝わり――そこでようやく、エリスは自身が裸足であることに気が付いた。
(……冷たい。……わたし、靴を履くのを忘れていたのね)
いつもなら、裸足で歩き回ることなど絶対に有り得ない。
昔から諸々のマナーを厳しく躾けられてきたエリスの身体には、生活一般と社交についての作法がしみついているからだ。
そんなエリスが裸足で屋敷を歩き回る――それはつまり、今のエリスが如何に冷静でないかを意味していた。
(……寒い。何か羽織ってこればよかったわ)
エリスは身体を震わせながら、中庭のベンチに腰を下ろす。
冷えた空気から少しでも体温を守ろうと、ベンチの座面に両足を上げ、膝をかかえてうずくまった。
そうして、再び考える。
どうして自分は、こんなにも不安で不安で仕方がないのだろう、と。
――アレクシスがいないせいか。それとも、リアムに頼まれた内容のせいだろうか。あるいは――。
(ああ、そうだわ。……わたし、殿下のこと、何も知らないんだわ)
アレクシスとオリビアの関係も。二年前にトラブルがあったということも。
建国祭で、アレクシスがリアムと何を話そうとしていたのかも――自分は、何一つ知らない。
(殿下は、ご自分のことをお話にならないから……)
建国祭の夜、『初恋だった』と知らされてから三ヵ月。
だがその間に一度だって、アレクシスが過去を語ることはなかった。
(そう言えば、以前殿下に誕生日を尋ねたときも、はぐらかされてしまったわね)
それはまだ二人が思いを通じ合わせるよりずっと前のこと。
エリスが誕生日について尋ねたとき、アレクシスはあまりにも素っ気なく答えたのだ。
「二月だが――俺は誕生日を祝わない。よって、君にしてもらうことは何もない」――と。
その声の冷たさは、『誕生日に嫌な思い出でもあるのだろうか』と、エリスが勘繰るほどだった。
とにかく、それ以降エリスは、アレクシスに昔のことを尋ねないように気を付けてきた。
エリスの方も、祖国について話せないことが多く、アレクシスが昔話をしてこないのは都合がよかった。
だが、気持ちが通じ合った後もその習慣のままきてしまったせいで、エリスはアレクシスのことを殆ど知らないのである。
(思い出せば出すほど、わたしは殿下のことを何も知らないわ。それなのに、どうして大丈夫だなんて思ったのかしら。殿下がオリビア様を受け入れない保証なんて、どこにもないのに)
リアムは言っていた。オリビアは『火傷を負った』のだと。そしてそのことを、アレクシスは知らないのだと。
だとするなら、もしその火傷の痕のことを知ったら、アレクシスはどう思うだろうか。
(殿下はお優しいから……もしかしたら……)
その可能性を考えた瞬間、エリスの心臓がキュッと締め付けられる。
きっと大丈夫だと思いたいのに、信じたいのに、それが出来ない自身の心の弱さが、心底嫌になった。
『返事は急ぎません。それに、難しければ断っていただいて構いませんよ。もともと、無理は承知の上ですから』
リアムにそう言われ、すぐに「無理だ」と答えられなかった自分にも腹が立つ。
(シオンにまで嘘をついて。わたし、本当に最低だわ)
『リアム様と何を話していたの?』
帰りの馬車の中でそう尋ねたシオンに、エリスはつい、『大したことは話していないわ』と答えてしまったのだ。
当然シオンは納得のいかない顔をしたが、『そう』と短く答えるだけで、それ以上は何も言ってこなかった――それが余計に、エリスの罪悪感を増すことになった。
(もう……どうしたらいいのか、わからない)
こんなことなら、宮で大人しくしておけばよかった。
シオンの言うとおり、外出などしなければよかった。
アレクシスが戻ってくるのを、ただ大人しく待っていればよかったのだ。
(……殿下に、会いたい)
エリスは膝を抱えたまま、ひとり静かに目を閉じる。
その瞼の裏にアレクシスの姿を思い浮かべ、すっかり身体が冷え切ってしまうまで、エリスはいつまでも、そうしていた。