25.呪いの傷痕
一方シオンは、オリビアと共にアボカドの植わっているという温室の奥へと向かいながら、エリスについて考えていた。
(さっきの姉さん、やっぱり少し元気なかったな。アボカドをいただいたら、早々にお暇した方がいいかもしれない)
本人は「大丈夫」と言っていたが、その言葉とは反対に、エリスはサンドイッチを一口も食べていなかった。
茶菓子に手をつけないこと自体はマナー違反でも何でもないが、体調を崩してしまってからでは遅い。
それに――だ。
シオンは、この屋敷に着いたときのことを思い出す。
(姉さんってば、僕との約束を破って『オリビア様に正体を明かす』提案をしてたからな。リアム様が断ってくれたからよかったものの、またいつ同じことを言い出すかわかったもんじゃない。勝手にお茶会の招待を受けたことといい、最近の姉さんは冷静さに欠けてる気がする)
その原因は、アレクシスが不在であるからか。それとも、妊娠による精神作用か何かだろうか。
あるいは、オリビアに同情しすぎているせいなのか。
シオンには判断がつかなかったが、長居をすれば、ボロを出す可能性は高まるだろう。
となると、やはり、一刻も早く帰るに限る。
――そんなことを考えていたときだ。不意にオリビアが足を止める。
「この木ですわ」
その言葉にシオンが顔を上げると、そこには深緑色の実を沢山付けた木がそびえ立っていた。高さは裕に五メートルを超えている。
シオンは、想像以上に巨大な木を前に、呆けたような声を上げた。
「……え、これ?」
実はシオン、アボカドの木を見るのはこれが初。というより、食べたことすらない。
そもそもアボカドは帝国及び周辺諸国では栽培されておらず、出回っているものはすべて輸入品の上、流通量も少ないからだ。
(まさかこんなに大きい木だなんて……)
茫然とするシオンに、オリビアの指示が飛んでくる。
「何を呆けているんですの? さっそく収穫を始めますわよ。脚立と鋏、それと収穫籠はあの倉庫にありますわ。鍵は開いているから、取ってきてくださる?」
「――あ、……はい。もちろんです」
(確かに、この高さだと脚立は必須だろうけど……僕、部屋の灯りの掃除くらいでしか使ったことないんだよな)
地面から手を伸ばして収穫するものかと勝手に想像していたシオンは、やや心配に思いながら、室内倉庫へと走った。
脚立と鋏、収穫籠を拝借し、収穫作業に取り掛かる。
と言っても、作業自体は至極簡単で、適度な大きさに育ったアボカドの実を鋏で切って、下で待つオリビアに手渡していくだけだった。
(良かった。これくらいなら、問題ない)
シオンは鋏でアボカドの実を枝からパチンパチンと切り離しながら、オリビアに話を振る。
「――にしても、アボカドの木って随分大きくなるんですね? 温室で育てるサイズを超えているような気がしますが……」
するとオリビアからは、「そうね」と呆れ声が返ってくる。
「お兄様ったら、碌に調べもしないで植えるんですもの。そういうところが、抜けてるのよ」
オリビアの話によると、苗木は一メートルにも満たない高さだったらしいが、十年ですくすくと成長し、今のサイズになったという。
しかも、アボカドは最終的に十メートルを超える高さになるとのことで、この秋を最後に、撤去する予定でいるとのことだった。
「え……抜いてしまわれるんですか? こんなに元気なのに?」
「ええ。お兄様は反対しているけど」
「なら、どうして」
確かに、これ以上大きくなれば、天井を突き破る心配も出てくるだろう。――が、この温室はまだまだ高さに余裕がある。そんなに急ぐ必要はないのではないか。
シオンが手を止め、オリビアへ視線を落とすと、オリビアはあっけらかんと答える。
「わたくし、次の冬にデビュタントを済ませたら結婚しますの。他の木はともかくとして、成長過程のこの子は庭師の手にも余るときがくる。だったら、いっそわたくしのいるうちに、と」
「…………」
「一応、温室の外に植え替えることも検討したんですのよ? でも、恵まれた環境で育てられたこの子が、外の気候に耐えられるとはどうしても思えませんの。わたくしの知らぬところで枯れてしまうくらいなら、わたくしの手で終わらせるのが筋というもの」
「……ご自分の……手で……」
「ええ」
「…………」
瞬間、シオンは悟ってしまった。
――ああ……なんだ、と。
(オリビア様はとっくに「覚悟」を決めているんだ。この人は、少しも可哀そうなんかじゃない)
実はシオン、お茶会の間ずっと違和感を覚えていた。
先週自分を助けてくれたときも、先ほどお茶をしていたときも、オリビアからは少しも「悲しみ」が伝わってこなかったからだ。
そんな彼女に、本当に友人が――自分たちが必要なのだろうか、と。
だが、その違和感はたった今解消された。
オリビアが可哀そうだというのは、あくまでも「リアムの主張」であり、少なくともオリビア自身は、自分を可哀そうだとは思っていない。
リアムの中のオリビアと、実際のオリビアに大きな差異があることを不思議に思ったシオンは、作業を再開しながら問いかける。
「オリビア様は、結婚が嫌だとは思われないのですか? 実は、リアム様からオリビア様の結婚について、既に伺っているんです。お相手は子爵様で、家同士の決めたことだと」
そもそも、自分たちがここに呼ばれた理由は、「オリビアを慰めるため」だ。
それなのに肝心のオリビアにその気がないとなれば、いったい何のために来たのかわからない。
そんな気持ちから出た質問だったが、オリビアの口から出てきたのは「そんなの嫌に決まっておりますでしょう」という、潔い肯定で。
予想していなかった答えに、シオンは手にしていたアボカドを、うっかりオリビアに渡し損ねてしまった。
「――あっ」
白い手袋をしたオリビアの指先に当たったアボカドが、土の上に落ちてコロコロと転がっていく。
「申し訳ありません……!」
シオンは落ちた実を拾うため、慌てて脚立を降りようとする。
収穫作業をしている時点で今更な気がするが、侯爵令嬢であるオリビアに、落ちた果実を拾わせるわけにはいかないと思ったからだ。
――が、そんなシオンの視線の先で、オリビアは落ちたアボカドに手を伸ばしていた。
「オリビア様、いけません! 手袋が汚れてしまいます! 僕が拾いますから!」
シオンはオリビアを静止する。
するとオリビアは一瞬動きを止めたものの、「手袋? 確かにそうね」と低く呟いて、次の瞬間には、左の手袋を外していた。
温室に降り注ぐ秋の陽光の下、オリビアの左腕が、シオンの前に晒される。
そこにあったのは、手首から甲にかけて、広い範囲にひきつった赤い皮膚。
シオンは、全く予想だにしなかったその傷痕に、言葉を失った。
けれどオリビアは、そんなシオンの態度など気にも留めないという様に、傷跡の残る左手で、地面に落ちた果実を拾い上げる。
その実を収穫籠の中に入れると、脚立の側で立ち尽くすシオンを、憐れむような目で見据えた。
「あなたもそういう顔をしますのね。この傷痕を見ると、殿方はみんな同じ反応をする。――お兄様も」
「……っ」
「この手袋はね、お兄様のためだけに着けておりますの。お兄様が、この傷痕を見るたびに、泣きそうな顔をされるから」
オリビアは諦めたように息を吐くと、まるで罵るような口調で、こう続ける。
「わたくしにとって、この傷痕は『戒め』ですの。二度と間違いを犯さないようにという、強い楔。でも、お兄様にとっては『呪い』でしかない。だからわたくしは嫁ぐんですの。お兄様をこの『呪い』から解放してさしあげるためなら、どんな最低な相手にだって、この身を捧げるつもりでおりますわ」
――だから。
「わたくしたちのことは放っておいて。あなた方がお兄様とどういう関係かは知らないけど、お兄様にもわたくしにも、これ以上関わってはなりませんわ。でないとあなた、後悔することになりますわよ」